二 届きすぎる言葉
それから私は、前よりも少しだけ、読者の顔を思い浮かべながら書くようになった。
月野しずくという名前で届いている言葉。
その向こうにいる人たち。
もっと届くように。
もっと役に立つように。
読んだ人が、少しでも楽になるように。
そう思うことが、悪いことだとは思わなかった。
むしろ、以前よりも真剣になった気がしていた。
届いた悩みを何度も読み返す。
カードを引く前に、少し長く目を閉じる。
その人が、本当は何を言いたいのか。
どこで苦しみ、どこで自分を責めているのか。
そういうことを、前よりも深く見ようとしていた。
そして、実際に、少しずつ見えるようになっている気もしていた。
この人には、励ましよりも、まず責めなくていいという言葉が必要なのかもしれない。
この人は、答えを求めているようで、本当は誰かに止めてほしいのかもしれない。
この人の迷いは、選択肢の問題ではなく、自分を信じられない痛みから来ているのかもしれない。
カードを見ていると、そんなふうに、悩みの奥にある形が以前よりも早く浮かぶようになっていた。
それは、確かに手応えだった。
こういう時は、こう返せばいい。
この言葉なら、相手の心に届くかもしれない。
ここまで言えば、少し楽になるかもしれない。
そう思える瞬間が増えていた。
文章も、丁寧になったと思う。
言葉を選び、きつくなりすぎないように整え、読んだ人が傷つかないように気をつけた。
その人が少しでも前を向けるように、出口のある言葉を探した。
私は、前よりもちゃんと書けている。
そう思っていた。
それは、思い上がりではないはずだった。
少なくとも、私はいい加減に書いていなかった。
誰かを適当に励ましていたわけでもなかった。
カードの意味を、自分に都合よく飾っていたつもりもなかった。
一つひとつ、真剣に向き合っていた。
だから、その手応えを少しくらい受け取ってもいいのではないか。
そう思うようになっていた。
月野しずくとしての言葉が、誰かに届いている。
その人の心を、少しでも軽くしている。
何かを決めつけるのではなく、静かに背中を支えている。
そう信じられる瞬間が増えていた。
けれど、少しずつ、反応の質が変わっていった。
悪くなったわけではなかった。
「よかったです」
「参考になりました」
「また読みます」
ありがたい言葉は届いていた。
けれど、最初の頃にあった、言葉にならない余韻のようなものが、少し薄れている気がした。
何度も読み返しました。
胸の奥に残りました。
自分のことを、少しだけ見つめ直しました。
そういう言葉は、少しずつ減っていた。
私は気のせいだと思おうとした。
毎回、同じような反応が来るわけではない。
読者にも、その時々の気分がある。
たまたま、そういう時期なのかもしれない。
そう考えれば、いくらでも理由はつけられた。
けれど、白石さんから次の食事に誘われた時、私はどこかで、その話になるような気がしていた。
その日も、白石さんは駅近くの店を選んでくれた。
前より少し賑やかな店だった。
隣の席では、会社帰りらしい人たちが、小さな声で笑っていた。
白石さんは、しばらく他愛のない話をしていた。
最近読んだ小説のこと。
駅前に新しくできた店のこと。
このあいだ見た映画が、思ったよりよかったということ。
私は相槌を打ちながら、白石さんが何かを言い出すのを待っていた。
やがて白石さんは、湯のみを置いた。
「水瀬さん」
その声で、私は少し背筋を伸ばした。
「悪くなったわけじゃないんです」
白石さんは、最初にそう言った。
「むしろ、丁寧です。前より、ちゃんと読者のことを考えている感じもします」
私は、少しだけほっとした。
「それなら、いいことじゃないですか」
そう言った声に、自分でも思っていたより力が入っていた。
白石さんは、少し困ったように笑った。
「そうなんです。いいことのはずなんですけど」
そこで、言葉を探すように少し黙った。
「前の水瀬さんの文章って、もう少し、読者を置いておいてくれる感じがあったんです」
「置いておく?」
「はい。無理に連れていこうとしないというか。読んだ人が、自分の速度で考えられる感じがあったんです」
私は、何も言えなかった。
「今の文章も、もちろんいいんです。でも、少しだけ……読者に届こうとしすぎている感じがするんです」
白石さんは、すぐに首を振った。
「すみません。うまく言えないんですけど」
「いえ」
私は、そう答えるのがやっとだった。
届こうとしすぎている。
その言葉は、思ったより深く刺さった。
私は、前よりも丁寧に書いているつもりだった。
前よりも読者のことを考えているつもりだった。
前よりも、悩みの奥にあるものを見られるようになっているつもりだった。
少しでも役に立つように。
少しでも楽になるように。
その人が、自分を責めすぎないように。
そう願って、言葉を選んでいたつもりだった。
それなのに、その思いが、かえって何かを重くしているのだとしたら。
私は、何をしているのだろう。
「水瀬さん」
白石さんが、少し心配そうに私を見た。
「責めてるわけじゃないです」
「わかっています」
私はうなずいた。
「ただ、自分では気づいていなかったので」
そう言いながら、本当は少し気づいていたのかもしれないと思った。
読者からの反応が変わってきたこと。
最初の頃のような余韻が、少しずつ薄れていたこと。
そして、自分がいつの間にか、読者に何かを届けようとしすぎていたこと。
気づきたくなかっただけなのかもしれない。
しばらく、二人とも黙っていた。
店の中には、隣の席の笑い声と、食器の触れ合う小さな音だけが残っていた。
白石さんは、湯のみを両手で包むように持っていた。
何かを言おうとして、言葉を選んでいるように見えた。
「水瀬さん」
もう一度、白石さんが私を呼んだ。
「はい」
「実は、もう一つ、見てもらいたいものがあるんです」
私は顔を上げた。
「相談ですか」
「はい。ただ、いつもの相談とは少し違います」
白石さんは、すぐにはスマートフォンをこちらに向けなかった。
「月野しずくさん宛てに、こういう内容、実は時々来るんです」
「こういう内容?」
「自分には力があるのか、とか、見えないものがわかる気がするとか、人を救う仕事をしたいとか」
私は黙っていた。
そういう相談が届くこと自体は、想像できた。
雑誌の占いコーナーには、恋愛や仕事の悩みだけが来るわけではない。
言葉にできない不安。
誰にも言えない感覚。
自分でも信じていいのかわからないもの。
そういうものが、月野しずくという名前に向かって送られてくることは、きっとあったのだと思う。
「でも、普段は私のところで止めています」
白石さんは言った。
「水瀬さんには、見せないようにしていました」
「どうしてですか」
「見せたら、たぶん水瀬さん、全部ちゃんと読んで、全部ちゃんと考えようとするからです」
白石さんは、少し困ったように笑った。
「それは水瀬さんのいいところです。でも、全部受け取っていたら、たぶん持たないです」
私は何も言えなかった。
「だから、これは誌面では扱わない方がいいなと思ったものは、私の方で止めていました。返事をしない方がいいものもありますし、月野しずくさんに背負わせない方がいいものもあります」
月野しずくさん。
その名前で呼ばれると、少しだけ自分ではない人の話をされているような気がした。
でも、違う。
その言葉を読んでいるのは、私だった。
返す言葉を探しているのも、私だった。
「でも、これは少し……何か、引っかかるんです」
白石さんは、そう言ってから、伏せていたスマートフォンをゆっくり持ち上げた。
「普段なら、たぶん見せないと思います」
「それでも、見せようと思ったんですか」
「はい」
白石さんは、画面をこちらに向ける前に、一度だけ私を見た。
「たぶん、見せたら水瀬さん、放っておけなくなると思います」
その言葉に、胸の奥が少し硬くなった。
「でも、それでも、見てもらった方がいい気がしました」
白石さんは、ゆっくりと画面をこちらに向けた。
件名を見た瞬間、指先が冷たくなった。
そこには、こう書かれていた。
――私にも、人を救う力があるのかを知りたいです。




