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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第五話 救いたかった人

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一 近づいている

それからしばらくのあいだ、私は何度か、藍色の布の向こうに立ち会わせてもらうようになった。


立ち会う、といっても、私が何かをするわけではなかった。


主人の隣に座り、相談に来た人の声を聞く。

時には、その人が長く黙るのを待つ。

時には、言葉にならない息遣いや、指先の震えを見ている。


それだけだった。


主人は、私に説明をしなかった。


今、何が起きているのか。

どうしてこの言葉をかけたのか。

なぜ、ここで沈黙するのか。


そういうことを、あとから教えてくれることもほとんどなかった。


ただ、必要な時だけ、私を呼んだ。


「今日は、いてください」


そう言われると、私は黙ってうなずいた。


初めのうちは、ただ緊張していた。


あの部屋には、不思議なものは何もない。

香の匂いも、仏像も、特別な道具もない。

何かが満ちている感じさえなかった。


人の祈りや願いが染みついていない部屋。

誰かの意図で満たされていない部屋。

だからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。


それがわかってくるほど、私はそこに座るのが少し怖くなった。


誰かの苦しみを見ているつもりで、自分の中にあるものまで見えてしまうことがある。

相談者の言葉を聞いているつもりで、自分がどこで反応しているのかがわかってしまうことがある。


前よりも、人の声の奥にあるものが、ふいに流れ込んでくるようになった気がした。


相談者が何かを話している時、その人の言葉とは別のところで、ふっと景色のようなものが浮かぶことがあった。


小さな子どもが、暗い部屋の隅で膝を抱えている気配。

誰にも言えなかった言葉を、胸の奥に押し込めてきたような重さ。

笑っている顔の奥に、ずっと前から置き去りにされたままの悲しみ。


もちろん、それが本当にその人の過去なのかはわからない。


確かめたわけではない。

聞いたわけでもない。

主人が教えてくれたわけでもない。


ただ、その人のそばにいると、言葉になる前のものが、こちらの内側に薄く映ることがあった。


この人は、きっと誰かに信じてもらえなかったことがある。

この人は、ずっと自分が悪いのだと思って生きてきたのかもしれない。

この人の「大丈夫です」は、大丈夫ではなかった時に身につけた言葉なのかもしれない。


そんなことが、理由もなく浮かんでくる。


それを、成長と呼んでいいのかはわからなかった。

力と呼んでいいのかも、わからなかった。


むしろ、そういう名前をつけることが怖かった。


名前をつけた瞬間に、それを自分のものだと思ってしまいそうだった。

名前をつけた瞬間に、何かが違うものになってしまう気がした。


だから私は、できるだけ何も思わないようにしていた。


私は、ただ立ち会わせてもらっているだけだ。

主人のそばで、見ているだけだ。

何かができるようになったわけではない。


そう、何度も自分に言い聞かせていた。


けれど、それが特別なことなのだと、まったく思わなかったかと聞かれれば、たぶん嘘になる。


藍色の布の前を通るたび、胸の奥が少し静かになった。

主人に「いてください」と言われるたび、私は少しだけ、あの場所に近づいているような気がした。


近づいている。


その言葉が浮かんだ時、私は慌てて打ち消した。


どこへ。

何に。


そう考えること自体が、危うい気がした。


白石さんとの打ち合わせも、その頃には、少し形を変えていた。


雑誌では、私は本名でも、普段の鑑定で使っている名前でもなく、「月野しずく」という名前で書いていた。


白石さんは最初、私の鑑定名をそのまま出してもいいと言ってくれた。

その方が、個人の仕事にもつながるはずだった。


けれど私は、少し迷った。


雑誌に届いた悩みに答えることと、個人鑑定の申し込みを増やすことを、同じ場所に置いていいのかがわからなかった。


それに、あの宿で見たものを、自分の仕事の看板にしてしまうような気もした。


だから私は、雑誌では別の名前を使うことにした。


月野しずく。


白石さんがいくつか出してくれた候補の中で、それがいちばん静かに見えた。


最初のうちは、記事の確認や掲載日の相談を、画面越しにするだけだった。

けれど回を重ねるうちに、用件だけを済ませるような時間ではなくなっていった。


最近読んだ本のこと。

休みの日にどこへ行ったかということ。

子どもの頃から変わらず好きなもののこと。

仕事をしている時、どういう瞬間に嬉しくなるのかということ。


そんな、とりとめのない話が少しずつ増えていくうちに、打ち合わせはいつの間にか、食事をしながら行うものに変わっていた。


その日、白石さんが選んでくれたのは、駅近くの小さな和食屋だった。


夜の店内は、思ったより静かだった。

カウンターの奥では、焼き魚の匂いがしていた。

私たちは窓際の席に向かい合って座った。


「水瀬さん、本当に反響ありますよ」


白石さんは、席に着くなりそう言った。


「反響、ですか」


「はい。読者さんからの感想、けっこう来ています」


そう言って、白石さんはスマートフォンを取り出した。

画面を少し操作して、私の方に向ける。


そこには、短い感想がいくつも並んでいた。


「何度も読み返しました」

「母のことを思い出しました」

「うまく言えないけれど、胸の奥に残りました」

「次のお話も待っています」


一つひとつの言葉は、決して大げさなものではなかった。


けれど、だからこそ、胸に入ってきた。


私は、誰かを救ったつもりなどなかった。

誰かを導いたつもりもなかった。


雑誌に届いた悩みを読み、カードを引き、その人のために、できるだけ丁寧に言葉を返しているだけだった。


宿のことを書いているわけではない。

主人のことを書いているわけでもない。


それでも、誰かの心に届いたのだと思うと、胸の奥が静かに温かくなった。


「すごいですよ」


白石さんは、笑いながら言った。


「水瀬さん、大人気です」


「大人気って、そんな」


私は慌てて首を振った。


「もちろん、一つひとつのお悩みは、真剣に読ませていただいています。カードも、できるだけ丁寧に見ているつもりです」


そこまで言ってから、私は少し言葉を探した。


「でも、それがどんなふうに届くかまでは、私にはわかりません。私がすごいということではないと思います」


白石さんは、少し笑った。


「そういうところも含めて、いいんだと思いますよ」


「そうでしょうか」


「はい。決めつけない感じがするんです。答えを押しつけるというより、読んだ人が自分で少し考えられる余白がある」


そう言われて、私は返事に困った。


嬉しくないと言えば、嘘になる。


けれど、その嬉しさをそのまま受け取ってしまうと、何か大切なものが濁るような気もした。


私は、そんなことはありません、と言いたかった。


実際、口ではそう言ったと思う。


けれど、白石さんが見せてくれた感想の数や、記事の閲覧数を見れば、何かが起きていることは否定できなかった。


これは、ただのお世辞ではない。

たまたま一人か二人が褒めてくれた、という話でもない。


月野しずくの言葉が、誰かのところへ届いている。


そう思った時、胸の奥に小さな灯りがともった。


それは、水瀬としての私が直接褒められたわけではない。

けれど、まったく別の誰かが褒められているわけでもなかった。


もしかしたら、私は少し謙遜しすぎているのかもしれない。


そんな言葉が、ふいに浮かんだ。


真剣に向き合ってきた。

一つひとつのお悩みに、いい加減に答えたことはなかった。

カードの示すものを、できるだけ丁寧に読み取ろうとしてきた。


それが誰かに届いたのなら、少しくらい受け取ってもいいのではないか。


そう思った瞬間、私は自分の中に生まれた温かさを、少し怖いもののように感じた。


嬉しい。

認められた気がする。

前よりは、私にも何かができるようになったのかもしれない。


その思いは、打ち消そうとしても、すぐには消えなかった。


その夜、家に帰ってからも、白石さんの言葉はなかなか離れなかった。


大人気ですよ。


私は何度も、その声を思い出した。


嬉しかった。


そのことだけは、否定できなかった。

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