一 近づいている
それからしばらくのあいだ、私は何度か、藍色の布の向こうに立ち会わせてもらうようになった。
立ち会う、といっても、私が何かをするわけではなかった。
主人の隣に座り、相談に来た人の声を聞く。
時には、その人が長く黙るのを待つ。
時には、言葉にならない息遣いや、指先の震えを見ている。
それだけだった。
主人は、私に説明をしなかった。
今、何が起きているのか。
どうしてこの言葉をかけたのか。
なぜ、ここで沈黙するのか。
そういうことを、あとから教えてくれることもほとんどなかった。
ただ、必要な時だけ、私を呼んだ。
「今日は、いてください」
そう言われると、私は黙ってうなずいた。
初めのうちは、ただ緊張していた。
あの部屋には、不思議なものは何もない。
香の匂いも、仏像も、特別な道具もない。
何かが満ちている感じさえなかった。
人の祈りや願いが染みついていない部屋。
誰かの意図で満たされていない部屋。
だからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。
それがわかってくるほど、私はそこに座るのが少し怖くなった。
誰かの苦しみを見ているつもりで、自分の中にあるものまで見えてしまうことがある。
相談者の言葉を聞いているつもりで、自分がどこで反応しているのかがわかってしまうことがある。
前よりも、人の声の奥にあるものが、ふいに流れ込んでくるようになった気がした。
相談者が何かを話している時、その人の言葉とは別のところで、ふっと景色のようなものが浮かぶことがあった。
小さな子どもが、暗い部屋の隅で膝を抱えている気配。
誰にも言えなかった言葉を、胸の奥に押し込めてきたような重さ。
笑っている顔の奥に、ずっと前から置き去りにされたままの悲しみ。
もちろん、それが本当にその人の過去なのかはわからない。
確かめたわけではない。
聞いたわけでもない。
主人が教えてくれたわけでもない。
ただ、その人のそばにいると、言葉になる前のものが、こちらの内側に薄く映ることがあった。
この人は、きっと誰かに信じてもらえなかったことがある。
この人は、ずっと自分が悪いのだと思って生きてきたのかもしれない。
この人の「大丈夫です」は、大丈夫ではなかった時に身につけた言葉なのかもしれない。
そんなことが、理由もなく浮かんでくる。
それを、成長と呼んでいいのかはわからなかった。
力と呼んでいいのかも、わからなかった。
むしろ、そういう名前をつけることが怖かった。
名前をつけた瞬間に、それを自分のものだと思ってしまいそうだった。
名前をつけた瞬間に、何かが違うものになってしまう気がした。
だから私は、できるだけ何も思わないようにしていた。
私は、ただ立ち会わせてもらっているだけだ。
主人のそばで、見ているだけだ。
何かができるようになったわけではない。
そう、何度も自分に言い聞かせていた。
けれど、それが特別なことなのだと、まったく思わなかったかと聞かれれば、たぶん嘘になる。
藍色の布の前を通るたび、胸の奥が少し静かになった。
主人に「いてください」と言われるたび、私は少しだけ、あの場所に近づいているような気がした。
近づいている。
その言葉が浮かんだ時、私は慌てて打ち消した。
どこへ。
何に。
そう考えること自体が、危うい気がした。
白石さんとの打ち合わせも、その頃には、少し形を変えていた。
雑誌では、私は本名でも、普段の鑑定で使っている名前でもなく、「月野しずく」という名前で書いていた。
白石さんは最初、私の鑑定名をそのまま出してもいいと言ってくれた。
その方が、個人の仕事にもつながるはずだった。
けれど私は、少し迷った。
雑誌に届いた悩みに答えることと、個人鑑定の申し込みを増やすことを、同じ場所に置いていいのかがわからなかった。
それに、あの宿で見たものを、自分の仕事の看板にしてしまうような気もした。
だから私は、雑誌では別の名前を使うことにした。
月野しずく。
白石さんがいくつか出してくれた候補の中で、それがいちばん静かに見えた。
最初のうちは、記事の確認や掲載日の相談を、画面越しにするだけだった。
けれど回を重ねるうちに、用件だけを済ませるような時間ではなくなっていった。
最近読んだ本のこと。
休みの日にどこへ行ったかということ。
子どもの頃から変わらず好きなもののこと。
仕事をしている時、どういう瞬間に嬉しくなるのかということ。
そんな、とりとめのない話が少しずつ増えていくうちに、打ち合わせはいつの間にか、食事をしながら行うものに変わっていた。
その日、白石さんが選んでくれたのは、駅近くの小さな和食屋だった。
夜の店内は、思ったより静かだった。
カウンターの奥では、焼き魚の匂いがしていた。
私たちは窓際の席に向かい合って座った。
「水瀬さん、本当に反響ありますよ」
白石さんは、席に着くなりそう言った。
「反響、ですか」
「はい。読者さんからの感想、けっこう来ています」
そう言って、白石さんはスマートフォンを取り出した。
画面を少し操作して、私の方に向ける。
そこには、短い感想がいくつも並んでいた。
「何度も読み返しました」
「母のことを思い出しました」
「うまく言えないけれど、胸の奥に残りました」
「次のお話も待っています」
一つひとつの言葉は、決して大げさなものではなかった。
けれど、だからこそ、胸に入ってきた。
私は、誰かを救ったつもりなどなかった。
誰かを導いたつもりもなかった。
雑誌に届いた悩みを読み、カードを引き、その人のために、できるだけ丁寧に言葉を返しているだけだった。
宿のことを書いているわけではない。
主人のことを書いているわけでもない。
それでも、誰かの心に届いたのだと思うと、胸の奥が静かに温かくなった。
「すごいですよ」
白石さんは、笑いながら言った。
「水瀬さん、大人気です」
「大人気って、そんな」
私は慌てて首を振った。
「もちろん、一つひとつのお悩みは、真剣に読ませていただいています。カードも、できるだけ丁寧に見ているつもりです」
そこまで言ってから、私は少し言葉を探した。
「でも、それがどんなふうに届くかまでは、私にはわかりません。私がすごいということではないと思います」
白石さんは、少し笑った。
「そういうところも含めて、いいんだと思いますよ」
「そうでしょうか」
「はい。決めつけない感じがするんです。答えを押しつけるというより、読んだ人が自分で少し考えられる余白がある」
そう言われて、私は返事に困った。
嬉しくないと言えば、嘘になる。
けれど、その嬉しさをそのまま受け取ってしまうと、何か大切なものが濁るような気もした。
私は、そんなことはありません、と言いたかった。
実際、口ではそう言ったと思う。
けれど、白石さんが見せてくれた感想の数や、記事の閲覧数を見れば、何かが起きていることは否定できなかった。
これは、ただのお世辞ではない。
たまたま一人か二人が褒めてくれた、という話でもない。
月野しずくの言葉が、誰かのところへ届いている。
そう思った時、胸の奥に小さな灯りがともった。
それは、水瀬としての私が直接褒められたわけではない。
けれど、まったく別の誰かが褒められているわけでもなかった。
もしかしたら、私は少し謙遜しすぎているのかもしれない。
そんな言葉が、ふいに浮かんだ。
真剣に向き合ってきた。
一つひとつのお悩みに、いい加減に答えたことはなかった。
カードの示すものを、できるだけ丁寧に読み取ろうとしてきた。
それが誰かに届いたのなら、少しくらい受け取ってもいいのではないか。
そう思った瞬間、私は自分の中に生まれた温かさを、少し怖いもののように感じた。
嬉しい。
認められた気がする。
前よりは、私にも何かができるようになったのかもしれない。
その思いは、打ち消そうとしても、すぐには消えなかった。
その夜、家に帰ってからも、白石さんの言葉はなかなか離れなかった。
大人気ですよ。
私は何度も、その声を思い出した。
嬉しかった。
そのことだけは、否定できなかった。




