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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第四章 急がなくていい

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六 急がなくていい

奥の部屋を出たあと、香坂さんはしばらく黙っていた。


廊下の灯りは、入る前と何も変わっていなかった。

藍色の布も、ただ静かに垂れているだけだった。


けれど、香坂さんの立ち方は、少しだけ違って見えた。


来た時のように、前へ前へと何かを追いかけている感じがなかった。

疲れが消えたわけではない。

悲しみが消えたわけでもない。


ただ、二年間ずっと握りしめていたものを、ほんの少しだけ手の中でゆるめた人のように見えた。


階段を降り、カウンターの席へ戻っても、香坂さんはすぐには話さなかった。


主人は急かさなかった。

私も、何も言えなかった。


カウンターに置かれた湯呑みから、まだ少しだけ湯気が上がっていた。

香坂さんはそれを見つめていた。


やがて、自分の喉にそっと手を当てた。


「私が、言ったんですね」


声はかすれていた。


「知る必要はないって」


主人は、静かにうなずいた。


「はい」


香坂さんは、目を伏せた。


「不思議です」


そう言ってから、少しだけ息を吐いた。


「すごく、納得しました」


その声を聞いた時、私は胸の奥が静かに揺れた。


納得しました。


それは、頭で理解した人の声ではなかった。

誰かに説得されて、言い聞かせている声でもなかった。


もっと深いところで、何かが自分の場所に戻ったような声だった。


長い間、どう置けばいいかわからなかったものが、ようやく置かれる場所を見つけた。

そんな声だった。


香坂さんは、ゆっくり続けた。


「もし、ほかの人に言われていたら、私はきっと納得しなかったと思います」


主人は、何も言わなかった。


「守護霊さんが、息子さんに会わなくていいと言っています。知る必要はないと言っています。そう言われても、たぶん、私は信じられなかったと思います」


香坂さんは、自分の喉に当てていた手を、少しだけ強くした。


「でも、今の言葉は、私の口から出ました」


その言葉に、私は息を止めた。


「私が、自分の口で、知る必要はないと言ったんです」


香坂さんの目元に、また涙が浮かんだ。

でも、それは崩れるための涙ではなかった。


胸の奥に落ちてきた言葉を、自分でもう一度確かめているような涙だった。


「近くにいたのは、わかりました」


香坂さんは、小さく言った。


「この部屋に来ていたのも、わかりました」


私は、思わず顔を上げた。


香坂さんは、泣きながらも、とても静かな顔をしていた。


「でも、話さなくていいんだと思いました」


誰も何も言わなかった。


「今、話さなくていい。今、聞かなくていい。今、知ろうとしなくていい」


一つずつ、自分の中に置いていくような声だった。


「私はもう、息子を探すことをやめます」


その言葉は、静かだった。


けれど、その静けさの中に、二年間の重さがあった。


「あの子に会おうとすることも、話そうとすることも、亡くなった理由を知ろうとすることも……もう、追いかけるのはやめます」


私は、胸が痛くなった。


その言葉だけを聞けば、諦めのように聞こえるかもしれない。

けれど、香坂さんの顔は、諦めた人の顔ではなかった。


愛することをやめた人の顔でもなかった。


むしろ、もう追いかけなくても愛は消えないと、初めて知った人の顔だった。


香坂さんは、ゆっくり息を吸った。


「知る時が来れば、きっとわかるんだと思います」


その言葉を聞いた時、奥の部屋で聞いた声が、私の胸にも戻ってきた。


急がないことです。


「私が無理に探しに行かなくても、わかる時は、わかる」


香坂さんは言った。


「だから、今は、急がなくていいんだと思いました」


急がなくていい。


その言葉が、カウンターの上に静かに置かれた。


主人は、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


香坂さんも、ゆっくり頭を下げた。


その動きには、来た時の切迫した硬さが少しだけなくなっていた。


もちろん、悲しみは残っている。

息子を亡くした事実は、何一つ変わっていない。


けれど、悲しみのまわりにまとわりついていた焦りが、ほんの少しほどけていた。


それだけで、人の顔はこんなにも変わるのだと思った。


香坂さんが帰る時、外はすっかり暗くなっていた。


玄関の戸を開けると、月のない夜が広がっていた。

山の影は深く、道の先はほとんど見えなかった。


けれど、香坂さんは、来た時よりも少しだけゆっくり歩き出した。


主人は、玄関先でその背中を見送っていた。


私は、その隣に立っていた。


香坂さんの姿が暗がりに溶けていくまで、誰も何も言わなかった。


戸を閉めたあとも、私はしばらく動けなかった。


香坂さんが見ていた景色が、まだ胸の奥に残っていた。


芝生。

丘。

木の下の人。

遠くに立つ悠真さんの気配。


けれど、景色よりも強く残っていたのは、香坂さんの痛みだった。


早く会いたい。

早く知りたい。

もう、これ以上探し続けたくない。


その痛みが、まだ私の中にあった。


主人は、廊下の窓を少し開けた。


夜の風が、細く入ってきた。


「風の気持ちいい丘でしたね」


主人が、ふいに言った。


私は顔を上げた。


あまりに普通の言い方だった。


まるで、二人で同じ場所から帰ってきたあとのようだった。


「……丘」


声が、少し遅れて出た。


主人は、窓の外を見たままだった。


「木の下の方も、静かな方でした」


その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。


私は、あの人のことを主人に話していない。

香坂さんは、少しだけ言葉にしていた。

けれど、丘の風の感じや、木の下の人の静けさまでは、誰も説明していなかったはずだった。


「私にも……」


言いかけて、止まった。


見えていたんでしょうか。


そう聞こうとしたのだと思う。


でも、違う気がした。


聞きたかったのは、私に見えていたのかどうかではなかった。


主人は、私にもそれが届いていたことを、当たり前のように知っていた。


そのことの方が、不思議だった。


主人は、こちらを見ずに言った。


「景色よりも、痛みの方が強かったでしょう」


私は、何も言えなくなった。


その通りだった。


芝生の明るさよりも。

丘の風よりも。

木の下の人の静けさよりも。


香坂さんの、早く会いたいという痛みの方が、ずっと鮮明だった。


「それは、力として扱うものではありません」


主人は静かに言った。


「丁寧に扱うものです」


私は、主人の横顔を見た。


いつもより、少し近く感じた。


主人が私に何かを教えようとしているのではない。

ただ、私が触れてしまったものを、どう置けばいいのか。

その場所を、少しだけ示してくれているようだった。


「どうして、私に……」


そこまで言って、また止まった。


どうして私にも見えたのか。

どうして主人はそれを知っているのか。

どうして私は、ここにいるのか。


聞きたいことは、いくつもあった。


けれど、主人は窓の外を見たまま、何も言わなかった。


その沈黙に、私は不思議と急かされなかった。


私はまだ、主人のことを知らない。

この宿のことも、自分がここにいる理由も、何一つわかっていない。


けれど、その夜、初めて思った。


知らなくていい。

今は、急がなくていい。


その言葉が腑に落ちると同時に、心は、今までになかった静けさを取り戻していた。

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