五 探すことと、会うこと
奥の部屋は、相変わらず何もなかった。
人の祈りや願いが染みついていない部屋。
誰かの意図で満たされていない部屋。
だからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。
香坂さんは、中央の椅子に腰を下ろした。
座った瞬間、体が少し沈んだように見えた。
深くもたれることのできる椅子だった。
主人は、少し離れたところに座った。
近すぎない。
遠すぎもしない。
私は、壁際に置かれた小さな椅子に腰を下ろした。
ただ、見ていてください。
さっき主人が言った言葉が、まだ胸の中に残っていた。
何を見るのか。
何が起きるのか。
私には、まだわからなかった。
香坂さんは、両手を膝の上に置いていた。
指先まで力を抜こうとしているのがわかった。
主人は、香坂さんに向かって静かに言った。
「ゆっくり、息を吸ってください」
香坂さんの肩が、わずかに上がった。
「吐く息に合わせて、体の力を抜いていきます」
部屋の中に、細い呼吸の音だけが残った。
「何かを見ようとしなくて大丈夫です」
主人の声は、さらに静かになった。
「答えを出そうとしなくても大丈夫です」
香坂さんの喉が、小さく動いた。
「ただ、心の中に深く沈んでください」
しばらく、沈黙があった。
「……今、何が見えますか」
香坂さんのまぶたが、少し震えた。
「明るいです」
かすれた声だった。
「外……だと思います」
主人は、何も言わなかった。
香坂さんは、言葉を探すように、ゆっくり続けた。
「芝生が、あります。公園……ではないと思います。でも、芝生が広がっていて」
部屋には、何も見えない。
けれど、香坂さんが言葉にするたび、その景色は、私の中にも薄く広がっていった。
それは、見えているというほど確かなものではなかった。
芝生の明るさ。
まばらに立つ建物。
小さな店先。
遠くに抜ける風。
どれも、遠くの夢の輪郭に触れているように淡かった。
「建物が、少しずつ離れて立っています」
香坂さんは言った。
「その間に、お店があります。何か、食べるものを売っているみたいです」
「人はいますか」
主人が尋ねた。
「います」
香坂さんは、少し不思議そうに続けた。
「みんな、穏やかです」
その声を聞いていると、私の中にも、小さな店先が浮かんだ。
受け取る人の手。
渡す人の微笑み。
ありがとう、という気持ちだけが、静かに行き来しているような場所。
けれど、その明るさは、香坂さんの心には届いていなかった。
香坂さんは、その世界を見ている。
でも、探しているのは、その世界ではなかった。
悠真さんだった。
映像よりも強く、香坂さんの内側が流れ込んできた。
早く。
会わせて。
ここまで来たのだから。
今度こそ。
言葉にはなっていないはずの叫びが、胸の内側に直接触れてきた。
その痛みは、景色よりもずっと鮮明だった。
香坂さんは、明るい場所にいる。
けれど、心は少しも休んでいない。
見つけなければ。
会わなければ。
ここまで来た意味がなくなってしまう。
その焦りが、私の胸にも流れ込んできた。
私は息を詰めた。
香坂さんのものなのか。
私自身のものなのか。
一瞬、わからなくなった。
「どこかへ行きたい感じはありますか」
主人が静かに尋ねた。
「丘があります」
香坂さんが言った。
「少し高いところ。あそこへ行きたいと思いました」
「行ってみてください」
主人がそう言うと、香坂さんの眉がわずかに動いた。
「もう、そこにいます」
私は、思わず自分の手を握った。
香坂さんの言葉に合わせて、私の内側の景色も、ふっと動いた気がした。
歩いた感覚はない。
けれど、視界が変わる。
さっきまで下から見ていた場所を、今は少し高いところから見下ろしている。
そこには、怖さがなかった。
不自然さもなかった。
行きたいと思うことと、そこに着くことの間に、ほとんど距離がない。
そんな世界だった。
「誰か、いますか」
主人が静かに尋ねた。
「います」
香坂さんは答えた。
「木の下に、人がいます」
「人」
「はい。休んでいます」
その景色も、私の中に淡く広がった。
丘の上から少し離れたところに、大きな木がある。
その下に、一人の人が腰を下ろしている。
何かをしているわけではない。
誰かを待っているようにも見えない。
ただ、そこにいる。
けれど、香坂さんが近づく前から、その人だけは、こちらに気づいているようだった。
「その人のところへ行けますか」
主人が尋ねた。
「はい」
香坂さんは、静かに答えた。
「行こうと思ったら……もう、近くにいます」
そう思っただけで、二、三歩のうちに、もう木の下にいたのだとわかった。
「すみません」
香坂さんの声が、小さく変わった。
「私は――」
そこまで言った瞬間だった。
香坂さんが、息を止めた。
「この道をまっすぐ行けば、近くまで行けるって」
主人が、静かに聞いた。
「近くまで」
「はい」
香坂さんの声が、震えた。
「まだ、何も言っていないのに」
その人には、もうわかっているようだった。
香坂さんが誰を探しているのか。
香坂さんが言葉にする前から。
ここへ来るまでの時間ごと、静かに受け取っているようだった。
「会えますか」
香坂さんは、かすれるように聞いた。
少し、間があった。
「会えるかどうかは、あなた次第です」
その言葉のあと、香坂さんの呼吸が浅くなった。
私の胸にも、強い焦りが入ってきた。
私次第。
どうすればいいの。
どうすれば会えるの。
何が足りないの。
何を間違えているの。
香坂さんは、心の中で必死にその答えを探していた。
けれど、木の下の人は、責めているわけではなかった。
ただ、そういうものなのだと、静かに告げている。
そんな感じがした。
「歩いています」
香坂さんが言った。
「道を、まっすぐ」
部屋の中は、静かだった。
主人は、香坂さんの呼吸を乱さないように、何も急がなかった。
私は、香坂さんの中に流れてくる景色と感情を、ただ受け取っていた。
見えているのか、想像しているのかはわからない。
けれど、香坂さんの焦りだけは本物だった。
早く。
早く。
早く。
その言葉にならない衝動が、私の胸を内側から叩いていた。
「見えます」
香坂さんの声が、変わった。
低く、細く、震えていた。
「誰か……います」
主人は、何も言わなかった。
「男の子です」
香坂さんの声が、かすかに震えた。
「遠くにいます」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気がさらに細く張りつめた。
「悠真さんですか」
主人が、静かに尋ねた。
香坂さんは、すぐには答えなかった。
唇が、わずかに震えている。
「たぶん」
そう言ってから、香坂さんは首を振った。
「いえ……わかります」
声が、涙をこらえるように揺れた。
「悠真です」
私の胸に、熱いものが刺さった。
その姿は、私にははっきり見えなかった。
けれど、香坂さんが「悠真です」と言った瞬間、その確信だけが、痛いほど流れ込んできた。
母親が、自分の子どもを見つけた時の確信。
どれほど遠くても、背中だけでも、気配だけでも、わかってしまうもの。
それが、私の中にまで入ってきた。
「近づけますか」
主人が言った。
香坂さんの呼吸が乱れた。
「近づいています」
少し間があいた。
「でも……遠いです」
香坂さんの眉が、苦しそうに寄った。
「遠いのに、近いです」
私は、胸を押さえたくなった。
その言葉は、矛盾していた。
けれど、矛盾しているからこそ本当のように聞こえた。
近い。
確かに、そこにいる。
すぐそこにいる気がする。
遠い。
どうしても触れられない。
声が届かない。
抱きしめられない。
近くて遠い。
遠くて近い。
その距離が、香坂さんの中で、どうしようもなく痛んでいた。
「悠真」
香坂さんの唇が、声にならない名前を形づくった。
「悠真」
今度は、かすかに声になった。
その瞬間、遠くにいた影が、少しこちらを向いたような気がした。
私には見えていないはずだった。
それでも、香坂さんの中に起きた反応が、そのまま私に伝わってきた。
見えた。
今、こちらを見た。
やっぱり悠真だ。
会える。
今度こそ。
香坂さんの心が、一気に前へ出た。
その瞬間だった。
遠くの影が、また少し遠のいたように感じた。
「どうして」
香坂さんが、小さく言った。
「近づいてるのに……」
声が詰まった。
「近づけない」
部屋の中で、香坂さんの呼吸だけが大きく聞こえた。
私は、何もできなかった。
手を伸ばしたいと思った。
けれど、何に手を伸ばせばいいのかわからなかった。
早く会わせてあげたい。
その思いが、胸に浮かんだ。
けれどその瞬間、私は少し怖くなった。
その「早く」は、誰のものなのだろう。
香坂さんのものなのか。
私のものなのか。
この人の苦しみを、私が早く終わらせたいだけなのではないか。
主人は、香坂さんを追わせなかった。
遠くに見えた悠真さんの気配を、無理に近づけようとはしなかった。
しばらく沈黙があった。
香坂さんの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
けれど、完全には静まらない。
まだ、探している。
まだ、会おうとしている。
まだ、その影を追いかけようとしている。
その時、主人の声の深さが、少しだけ変わった。
「では、香坂さんをお守りしている方に、たくさんの愛と敬意と感謝を持って質問させていただきます」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
先ほどまで、香坂さんの心の中をたどっていた。
明るい場所。
芝生。
お店。
丘。
木の下の人。
遠くにいる悠真さん。
それらは、香坂さんの内側に見えている風景だった。
けれど今、何かが違った。
主人は、静かに続けた。
「お答えしていただけますでしょうか」
香坂さんの唇が、かすかに動いた。
「はい」
それは、香坂さんの声だった。
けれど、香坂さんが返事をしたのではないと、なぜかわかった。
その声を聞いた瞬間、この世の音がすべて遠のき、触れたことのない澄んだ場所に立っているような気がした。
そこには、怖さはなかった。
けれど、軽く触れてよいものでもなかった。
胸の奥から、理由のわからない感謝が込み上げてきた。
何か、とても澄んだものが、香坂さんの声を通して現れている。
そう感じた。
私は、泣きそうになった。
何が起きているのか、まだわからない。
けれど、今この場で起きていることを、いつもの感覚で受け取ってはいけない。
そのことだけは、はっきりわかった。
主人は、少し頭を下げた。
「ありがとうございます」
香坂さんの体は、椅子に深く預けられていた。
その表情は、さっきまでとは少し違っていた。
悲しみが消えたわけではない。
けれど、焦りの中で前へ前へと伸びていたものが、少しだけ静かになっているように見えた。
主人は、慎重に言葉を置いた。
「悠真さんは、今、どこにいらっしゃるのでしょうか」
少し沈黙があった。
香坂さんの唇が、ゆっくり動いた。
「近くにいるとも言えます」
声は、香坂さんの声だった。
けれど、響きが違った。
「遠くにいるとも言えます」
私は、息を止めた。
近くにいるとも言える。
遠くにいるとも言える。
さっき香坂さんが見ていた距離と同じだった。
近いのに遠い。
遠いのに近い。
それは、言葉遊びではなかった。
こちらの距離で測ろうとすると、どうしても矛盾してしまう場所に、悠真さんはいる。
そう言われたように感じた。
主人は、静かにうなずいた。
「香坂さんは、悠真さんと話すことはできるのでしょうか」
また、沈黙があった。
「話すことができるとも言えます」
香坂さんの口から、言葉が出た。
「できないとも言えます」
私は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
できるとも言える。
できないとも言える。
何も答えていないようで、何かを深く答えている。
話すとは、どういうことなのだろう。
声を聞くことなのか。
言葉を交わすことなのか。
それとも、もっと違う形で届くものなのか。
私は、その問いを胸の中に置いた。
主人は、さらに少し深く頭を下げた。
「では、悠真さんは、なぜあの若さで亡くなられたのでしょうか」
その問いが置かれた瞬間、胸の奥が痛んだ。
それが私の痛みなのか、香坂さんの痛みなのか、すぐにはわからなかった。
香坂さん自身が、一番聞きたかった問いだった。
二年間、何度も何度も胸の中で繰り返してきた問い。
どうして。
なぜ。
あの子だけが。
何があったのか。
私が知らなければならないことがあるのではないか。
そのすべてが、言葉になる前の塊のように、私の中へ流れ込んできた。
長い沈黙があった。
主人は待った。
私も、息を詰めて待っていた。
やがて、香坂さんの口が、静かに開いた。
「知る必要はありません」
その言葉は、とても短かった。
けれど、部屋の中に、深く沈んだ。
私の胸にも、何かが落ちてきた。
知る必要はない。
それは、突き放す言葉にも聞こえるはずだった。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
むしろ、何かを強く握りしめていた手に、そっと触れるような言葉だった。
主人は、少し間を置いてから、次の問いを置いた。
「香坂さんは、悠真さんを探し続ける必要がありますか」
沈黙があった。
「ありません」
その言葉を聞いた瞬間、私は香坂さんの中で何かが止まったのを感じた。
止まったというより、ほどけたのかもしれない。
二年間、張りつめたまま前へ伸び続けていた糸が、少しだけ緩む。
そんな感覚だった。
主人は、最後に尋ねた。
「では、今、香坂さんに必要なことは何でしょうか」
沈黙。
長い沈黙ではなかった。
けれど、深い沈黙だった。
そして、香坂さんの口から、静かに言葉が出た。
「急がないことです」
その言葉を聞いた瞬間、私は目を伏せた。
急がないこと。
それは、何もしないことではなかった。
諦めることでもなかった。
ただ、今すぐ答えを掴みに行こうとする心を、少しだけほどくこと。
会おうと急がない。
知ろうと急がない。
悲しみを終わらせようと急がない。
その言葉は、香坂さんに向けられているはずだった。
けれど、私の胸にも、まっすぐ届いた。
主人は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は、いつもと同じ静けさだった。
けれど、そこには、深い敬意があった。
香坂さんは、目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
頬を、涙が一筋だけ伝った。
主人は、その涙を拭わせようとはしなかった。
声をかけて慰めようともしなかった。
ただ、涙が流れる時間を、そのまま置いた。
部屋の中に、静けさが戻っていく。
けれど、それは最初の静けさとは違っていた。
何もない静けさではなかった。
探し続けていたものが、少しだけ手をゆるめたあとの静けさだった。
やがて、香坂さんがゆっくり息を吐いた。
その吐息は、長かった。
胸の奥に溜めていたものを、ほんの少しだけ外へ出すような息だった。
主人は、しばらく待ってから、静かに言った。
「ゆっくり、戻ってきてください」
香坂さんのまぶたが、かすかに動いた。
「今いる場所から、少しずつ、この部屋へ戻ってきます」
香坂さんの呼吸が、現実のものに戻っていく。
椅子に沈んでいた体が、少しずつ輪郭を取り戻していくように見えた。
「戻ってこられますか」
主人が尋ねた。
香坂さんは、小さくうなずいた。
そして、ゆっくりと目を開けた。
自分がどこにいるのかを確かめるように、部屋の中を見た。
何もない部屋。
白い壁。
深くもたれる椅子。
少し離れたところに座る主人。
壁際にいる私。
香坂さんは、まだ言葉を探しているようだった。
主人は、何も急がなかった。
香坂さんが言葉を出すまで、ただ待っていた。




