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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第四章 急がなくていい

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四 息子に会えると聞きました

「ここなら、息子に会えると聞きました」


その声は、宿の静けさに、まっすぐ刺さるように入ってきた。


私は、湯呑みを持ったまま、動けなかった。


息子に会える。


最初、その言葉の意味がうまくつかめなかった。

家出をした息子を探しているのか。

それとも、どこかへ行ってしまった子どもの居場所を知りたいということなのか。


けれど、玄関に立つ女性の顔を見た瞬間、その考えはすぐに消えた。


探している人の顔ではなかった。

待っている人の顔でもなかった。


そこにあったのは、もう戻らないものを、それでも探し続けてきた人の疲れだった。


女性は、五十代くらいに見えた。


派手な服装ではない。

旅行に来た人のようにも見えない。

小さな鞄を両手で抱えるように持ち、肩には力が入っていた。


泣いているわけではなかった。

取り乱しているわけでもなかった。


けれど、その顔には、長い時間眠れていない人の色があった。


目の奥だけが、ずっと何かを探し続けている。

そんな顔だった。


主人は、ゆっくりと玄関に近づいた。


驚いた様子はなかった。

けれど、すべてを知っていたという顔でもなかった。


ただ、目の前に来た人を、そのまま受け止めるように、静かに頭を下げた。


「いらっしゃいませ」


女性は、その挨拶を受け取る余裕もないようだった。


「ここなら、息子に会えると聞いたんです」


同じ言葉を、もう一度繰り返した。


最初の言葉よりも、少しだけ切迫していた。

まるで、一度口に出した願いが消えてしまわないように、急いで結び直しているようだった。


主人は、すぐには答えなかった。


その沈黙に、女性の指が鞄の持ち手を強く握った。


「会えるんですよね」


問いかけというより、すがるような声だった。


「息子と、話せるんですよね」


私は、胸の奥が少し痛くなった。


その声は、お願いではなかった。

確認でもなかった。


もう何度も期待して、何度も違うと思い、それでも最後に残った力をふりしぼって、ここまで来た人の声だった。


主人は、女性をまっすぐ見た。


「お約束はできません」


女性の顔が、わずかにこわばった。


私は、その言い方に一瞬戸惑った。


できません、ではない。

できる、とも言わない。

ただ、約束はできない、と言った。


まるで、その願いそのものを否定するのではなく、けれど安易に差し出すこともしないような言い方だった。


主人は、言葉を急がなかった。


「ただ、今、見えてくるものをたどることはできます」


女性は、唇を結んだ。


その目に、一瞬だけ失望の色が浮かんだ。

それでも、怒りではなかった。


また違うのかもしれない。

それでも、ここまで来てしまった。


そんな思いが、声にならないまま立っているようだった。


主人は続けた。


「何が見えるかは、先に決められません」


女性は、黙っていた。


主人の声は、冷たくはなかった。

けれど、慰めるためにやわらかくされてもいなかった。


その正直さが、かえって女性の細い肩に触れたように見えた。


「それでも」


主人は、静かに言った。


「やってみることはできます」


女性は、しばらく動かなかった。


やがて、小さく息を吸った。


「それでもいいです」


声は震えていた。


「それでも、いいです」


その言葉は、納得というより、もうそこにしか進む場所がない人の返事だった。


主人は、少しだけうなずいた。


「お名前を伺ってもよろしいですか」


「香坂です」


女性は答えた。


「香坂由紀子です」


香坂さん。


その名前を聞いた時、私は、その人が急に現実の輪郭を持ったように感じた。

ただの「息子に会いたい人」ではなく、香坂由紀子という一人の人が、ここに立っている。


主人は、もう一度静かに頭を下げた。


「香坂さん。こちらへ」


香坂さんは、小さくうなずいた。


主人は、玄関に近いカウンターの席へ香坂さんを案内した。

私が座っていた場所から、ほんの少し離れた席だった。


香坂さんは腰を下ろす前に、少し迷うように私を見た。


その視線に気づいて、私は湯呑みから手を離し、少しだけ姿勢を正した。


「こちらは、水瀬さんです」


主人が、静かに言った。


香坂さんは、かすかに会釈した。


私は、何と返していいかわからず、ただ頭を下げた。


香坂さんの目は、私を見ているようで、実際にはもっと遠くを見ているようだった。

目の前の人を確認する余裕もないほど、心がどこかへ向かっている。


息子さんのところへ。


そう思った瞬間、私は自分の胸が少し重くなるのを感じた。


香坂さんは、カウンターの椅子に浅く腰を下ろした。

鞄を膝に置き、その上に両手を重ねる。


主人は、カウンターの奥で新しい湯呑みを出した。

急須に湯を注ぐ音が、もう一度、静かに広がった。


けれど、香坂さんはお茶が出されるのを待つ間も、落ち着くことができないようだった。

指先だけが、何度も小さく動いていた。


主人は、湯呑みを香坂さんの前に置いた。


「息子さんのことを、少し伺ってもよろしいですか」


主人が言った。


香坂さんは、息を吸った。


「悠真といいます」


その名前を口にした瞬間、香坂さんの声が少しだけ変わった。


硬く張りつめていた声の中に、ほんの一瞬だけ、母親のやわらかさが混じった。


「香坂悠真です。高校二年生でした」


でした。


その過去形が、静かに落ちた。


「山岳部でした。合宿中の事故で……」


そこまで言って、香坂さんは口を閉じた。


主人は、続きを求めなかった。


事故の詳しい状況を聞かない。

いつ、どこの山で、何が起きたのかを尋ねない。


それが私には、少し意外だった。


けれど、香坂さんはその沈黙に、少しだけ救われたようにも見えた。


「それから二年です」


香坂さんは言った。


「二年、いろいろなところへ行きました」


いろいろなところ。


その言葉には、数えきれない疲れが含まれていた。


「息子の声を届けます、と言われたこともあります。息子さんは感謝しています、と言われたこともあります。お母さんを見守っています、とも」


香坂さんは、言葉を選びながら話していた。


誰かを責めたいわけではない。

そういう言い方だった。


「でも、どれも……」


そこで、香坂さんは小さく首を振った。


「どれも、違う気がしたんです」


主人は、黙って聞いていた。


香坂さんは続けた。


「ありがたい言葉だったんです。慰めようとしてくれているのも、わかりました。でも、帰り道になると、いつも思うんです。私が聞きたかったのは、それじゃないって」


その声は、かすれていた。


「私は、息子がどこにいるのか知りたかったんです」


香坂さんは、膝の上の鞄を見つめたまま言った。


「最後は苦しくなかったのか。私に何か言いたいことはなかったのか。どうして、あの子だけが帰ってこなかったのか」


私は、息をするのを忘れそうになった。


言葉は静かなのに、その奥にあるものが、あまりにも切実だった。


「どうして、あの子だけだったのか」


香坂さんは、もう一度そう言った。


それは、主人に向けられた問いというより、この二年間、ずっと自分の中で反響し続けてきた問いのようだった。


答えのない問い。

けれど、捨てることもできない問い。


「みんな、あの子はそばにいると言います」


香坂さんは言った。


「でも、そばにいるなら、どうして私は会えないんですか」


その問いに、誰もすぐには答えられなかった。


宿の中が静かになった。


外では、風が草を揺らしている。

さっき主人が言った風だった。


香坂さんは、ふいに顔を上げた。


「すみません」


その声は、急に現実に戻ってきたようだった。


「こんなふうに言うつもりじゃなかったんです」


「かまいません」


主人は言った。


「ここへは、そのために来られたのでしょう」


香坂さんの目が、少しだけ揺れた。


「はい」


小さく、しかしはっきりと答えた。


「私は、息子に会いたくて来ました」


その言葉を聞いた時、私は、香坂さんの中にあるものが、少しだけ見えた気がした。


会いたい。


ただ、それだけだった。


けれど、その「会いたい」の中には、あまりにも多くのものが含まれていた。


謝りたい。

聞きたい。

確かめたい。

抱きしめたい。

もう一度だけ、名前を呼びたい。

あの日から止まったままの時間を、どうにか動かしたい。


でも、それを全部言葉にすれば、きっと壊れてしまう。


だから香坂さんは、ただ一つの言葉にまとめていた。


息子に会いたい。


主人は、静かにうなずいた。


「では、見えてくるものをたどってみましょう」


今度の香坂さんは、目をそらさなかった。


「はい」


「何が起きるかを、先に決めることはできません」


「はい」


香坂さんは、鞄を握る指に力を込めた。


けれど、目はそらさなかった。


「会えなくてもいい、とは言えません」


その正直な言葉に、私は胸を打たれた。


「でも、ここまで来たので、やってみたいです」


主人は、それ以上、何も尋ねなかった。


「では、奥の部屋へ」


その言葉で、空気が変わった。


香坂さんは、ゆっくり立ち上がった。

立ち上がる時、少し膝が揺れた。


私は思わず手を伸ばしかけたが、香坂さんは自分で体勢を立て直した。


主人は、その様子を見ていた。

助けようとしないのではない。

けれど、必要以上に支えようともしない。


その距離が、今の香坂さんには必要なのだと、私は思った。


主人が、先に廊下へ向かった。


香坂さんは、その後を追おうとして、ふと立ち止まった。


一瞬だけ、こちらを見た。


助けを求めるような目ではなかった。

けれど、一人でその先へ行くには、あまりにも心細い人の目だった。


私は、何も言えずに立っていた。


主人は、その視線に気づいたように、静かに言った。


「水瀬さんも、よろしければ」


私は、思わず主人を見た。


「私も、ですか」


主人はうなずいた。


「ただ、見ていてください」


その言葉に、胸の奥が少し硬くなった。


何を見るのか。

何が起きるのか。

私には、まだわからなかった。


香坂さんは、小さくうなずいた。

それが、私の同席を拒まないという返事に見えた。


私は、椅子から立ち上がった。


二階へ続く階段を上がる。


廊下の奥に、藍色の布が見えた。


その向こうに、奥の部屋がある。


香坂さんの足取りは、決して速くはなかった。

けれど、一歩ごとに、何かに引き寄せられているようだった。


私は、その少し後ろを歩いた。


人は、どうしてここまで知りたくなるのだろう。


どこにいるのか。

なぜ起きたのか。

何を言い残したのか。

本当はどうだったのか。


答えを知れば、悲しみは終わるのだろうか。


それとも、答えを知らないままでは、悲しみを置く場所がないのだろうか。


私は、さっきまで自分が主人に向けていた問いを思い出した。


あなたは、誰なのですか。


香坂さんの問いとは、比べものにならない。

そう思った。


けれど、どこかで似ているとも思った。


知りたい。

確かめたい。

わからないままでは、落ち着けない。


その心の動きだけは、私の中にもあった。


藍色の布の前で、主人が立ち止まった。


香坂さんも立ち止まった。


私は、その少し後ろで足を止めた。


布の向こうには、まだ何も見えない。


ただ、その向こうに入れば、何かが始まってしまう。

そんな気配だけが、静かにあった。


主人は、布に手をかけた。


藍色の布が、かすかに揺れた。

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