↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第四章 急がなくていい

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/45

三 目の前にいる私

次に宿へ向かったのは、白石さんと食事をした三日後だった。


駅を出ると、山の方から湿った風が降りてきていた。

空は曇っていたが、雨が降るほどではなかった。


私はいつものようにタクシーに乗った。


その日は、日が落ちるのがいつもより早いように感じた。

空の端に残っている明るさは薄く、雲の奥にも、月の気配はなかった。


窓の外に、住宅が少しずつ少なくなっていく。

店の看板が遠ざかり、道幅が細くなり、木々の影が濃くなっていく。


運転手は、もう宿の前までは入れないことを知っているようだった。


「この先、細いですからね」


そう言って、いつもの場所で車を止めた。


私は礼を言ってタクシーを降りた。


そこから先は、歩いて登るしかない。

細い道の両側には、草が伸びていた。

足元の石が少し湿っていて、踏むたびに小さく音を立てた。


宿に近づくにつれて、私はまた、あの問いを思い出していた。


あの人は、誰なのか。


何度も調べた。

けれど、わからなかった。


宿の名前は出てくる。

建物のことも、食事のことも、道の細さのことも出てくる。

それなのに、主人のことだけは、どこにもなかった。


この宿には、話を聞く人がいる。


あの一文が、まだ胸の中に残っていた。


宿に着くと、主人はいつものように、奥から静かに出てきた。


「いらっしゃいませ」


その声を聞いた途端、私は少しだけ動揺した。


もう何度もここへ来ている。

白石さんとの連載のこともあり、主人と話す時間も増えている。


それなのに、主人の対応は、初めて会った時とほとんど変わらなかった。


親しくなったような近さもない。

距離を置かれたような冷たさもない。

こちらを特別に迎える感じもなければ、突き放す感じもない。


ただ、そこにいる。


そのあり方が、初めて奥の部屋に入った時の感覚を思い出させた。


何もない部屋。

祈りも、願いも、期待も、染みついていない部屋。

誰かの意図で満たされていないからこそ、自分の中にあるものだけが、静かに浮かび上がってくる部屋。


主人の前に立つと、時々それと似た感覚になる。


主人が何かを投げかけてくるわけではない。

それなのに、自分が何を持って来たのかだけが、妙にはっきりしてしまう。


「お疲れでしたか」


主人は、少しだけ目を細めてそう言った。


「いえ」


私は首を振った。


「疲れているわけでは、ないです」


本当は、少し疲れていた。

調べてもわからなかったことに。

わからないのに、知りたい気持ちだけが大きくなっていることに。


主人は、それ以上は聞かなかった。


「お茶を淹れましょう」


そう言って、私をカウンターへ案内した。


カウンターは、玄関からそう離れていなかった。

主人が湯を注ぐ音の向こうに、戸口の気配まで届くような、小さな宿だった。


カウンターの奥で湯気が上がる。

急須に湯を注ぐ音が、静かに広がった。


私は、その音を聞きながら、言うべきかどうか迷っていた。


主人のことを調べました。


ただそれだけの言葉が、喉の奥で何度も止まった。


聞けばいい。

本人が目の前にいるのだから、聞けばいい。


そう思うのに、なぜかすぐには言えなかった。


主人は湯呑みを置いた。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


私は両手で湯呑みを受け取った。


湯気の向こうに、主人の顔が見える。

穏やかで、少しも急いでいない顔だった。


その静けさに押されるように、私はようやく口を開いた。


「あの」


主人は、こちらを見た。


「主人のことを、少し調べました」


言ってしまってから、自分でも少し驚いた。


もっと遠回しに聞くつもりだった。

宿のことを調べた、と言えばよかったのかもしれない。

けれど、口から出たのは、そのままの言葉だった。


主人は、怒ったようには見えなかった。


驚いたようにも見えなかった。


ただ、湯呑みに視線を落とし、しばらく黙っていた。


その沈黙が、私には少し長く感じられた。


「でも、わかりませんでした」


私は続けた。


「宿のことは出てくるんです。口コミも、古い記事もありました。でも、あなたのことは、どこにも書かれていなくて」


主人は、ゆっくり顔を上げた。


「そうでしたか」


それだけだった。


責めるでもない。

笑うでもない。

ただ、事実を受け取っただけの声だった。


私は、少し拍子抜けした。


「名前も、経歴も、何もわかりませんでした」


主人は、少しだけ湯呑みに視線を落とした。


「そういうものは、あまり残していませんから」


「残していない?」


「ええ」


主人は、静かに言った。


「必要がなかったのでしょう」


その言い方は、隠しているというより、本当にそう思っているように聞こえた。


私は、余計にわからなくなった。


「でも」


自分でも驚くほど、言葉が先に出た。


「私は、知りたいんです」


主人は、そこで初めて、まっすぐこちらを見た。


「私のことを、ですか」


私はうなずいた。


うなずいてから、胸の奥が少し熱くなった。


聞いてしまった。

ずっと聞きたかったことを。


「あなたは、どうしてここで、こんなふうに人の話を聞いているんですか」


声にすると、それは思っていたより幼い問いに聞こえた。


けれど、それ以上うまく言えなかった。


「あなたが知りたいのは、私ですか」


私は、顔を上げた。


主人は続けた。


「それとも、私について誰かが書いた言葉ですか」


その言葉に、私は息を止めた。


すぐには意味がわからなかった。

けれど、胸のどこかが小さく反応した。


私は、主人を知りたかった。

そう思っていた。


でも、調べていたのは、主人そのものではなかった。

誰かが書いた文章だった。

口コミだった。

古い記事だった。

宿の外側に置かれた言葉だった。


主人は、目の前にいる。

なのに私は、画面の中に主人を探していた。


そのことに気づいた瞬間、頬が少し熱くなった。


「知ろうとすることは、悪いことではありません」


主人は、静かに言った。


「けれど、わかろうとしすぎると、人は自分の知っている形に相手を入れようとします」


私は、湯呑みを持つ手に少し力が入った。


「この人はこういう人だ。こういう過去がある。こういう力がある。こういう役割の人だ。そうやって名前をつけると、少し安心します」


主人は、私を責めるでもなく、ただ淡々と続けた。


「でも、その安心のぶんだけ、目の前にいる人からは離れていくことがあります」


私は、何も言えなかった。


「わかることと、見ることは、同じではありません」


湯気の向こうで、主人の表情は少しだけ揺れて見えた。


「では、私は何を見ればいいんですか」


思わず、そう聞いていた。


主人は、すぐには答えなかった。


少しだけ視線を伏せ、そして静かに言った。


「今、ここにいる私です」


その答えは、あまりにも簡単だった。


簡単すぎて、私は少し困った。


今、ここにいる私。


それだけでいいはずがないと思った。


名前も知らない。

過去も知らない。

この宿が何なのかも知らない。


それなのに、目の前にいるだけで知ったことになるのだろうか。


そう思っていることは、きっと顔に出ていたのだと思う。


主人はそれ以上、私の疑問をほどこうとはしなかった。


ただ、静かに言った。


「それだけでいいのです」


私は、すぐにはうなずけなかった。


主人は続けた。


「わからないまま、見ていればよいのです」


わからないまま。


その言葉が、胸に残った。


わからないまま見る。

わからないまま聞く。

わからないまま、そこにいる。


「あの……」


私は、もう一度聞きかけた。


あなたは、本当は何者なんですか。


そう聞きたかった。


けれど、その言葉は最後まで出てこなかった。


主人は、私が言い切らないことを、無理に促さなかった。


ただ、湯呑みを持ち上げ、静かにお茶を飲んだ。


その姿を見ていると、胸の中で急いでいたものが、少しだけ行き場をなくした。


消えたわけではない。


私はまだ知りたかった。

主人のことを。

この宿のことを。

自分がどうしてここに惹かれているのかを。


でも、その場で答えを奪い取るように聞くことは、できなかった。


「今日は、少し風がありますね」


主人がふいに言った。


私は、窓の外を見た。


庭の草が、ゆっくり揺れていた。

さっきまで気づかなかった風だった。


「はい」


私は答えた。


それ以上、何も言わなかった。


主人も、何も言わなかった。


沈黙が落ちた。


けれどその沈黙は、先ほどまでのものとは少し違っていた。


何かを隠している沈黙ではなく、

何かを急がずに置いておくための沈黙のようだった。


私は、その沈黙の中で、湯呑みを両手で包んでいた。


主人のことは、やはりわからない。


けれど、今、目の前にいる主人の声を聞いている。

湯気の向こうにいるその人の間合いを感じている。

私の問いを急がずに、そのまま置いてくれる人を見ている。


わかることと、見ることは、同じではないのかもしれない。


そう思いかけた時、玄関の方で、小さな音がした。


戸が開く音だった。


主人は、ゆっくり顔を上げた。


私も、そちらを見た。


次の瞬間、細い声が、宿の静けさを破るように入ってきた。


「ここなら、息子に会えると聞きました」


その声には、挨拶よりも先に、祈りのような切実さがあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。