二 白石さんとの距離
白石さんとの打ち合わせは、いつも画面越しだった。
最初のころは、それでちょうどよかった。
仕事の話だけをしていればよかったからだ。
次の記事で扱う相談。
カードの意味をどこまで説明するか。
相談者の個人的な事情をどこまでぼかすか。
読者が自分の悩みとして受け取れるように、最後の問いをどう整えるか。
話すことは、いくらでもあった。
白石さんは、仕事が早かった。
こちらが迷っているうちに、読者から届いた相談をいくつか整理してくれている。
感想の傾向も、数字の動きも、記事の保存数も、すでに見ている。
そのうえで、こちらの言葉を急かさずに待ってくれる。
最初にメールをもらった時の白石さんは、もっと硬い人に見えた。
丁寧で、無駄がなく、仕事の距離をきちんと保つ人。
けれど、画面越しに何度も話すうちに、その印象は少しずつ変わっていった。
必要なことはきちんと伝える。
でも、ふとしたところで軽い冗談を混ぜる。
仕事の話をしているはずなのに、時々こちらの緊張がほどける。
メールだけではわからなかった顔が、少しずつ見えてきた気がした。
最初は、少し不思議だった。
仕事ができる人なのに、結論を急がない。
判断は早いのに、人の言葉は待つ。
その二つが、白石さんの中では自然につながっているようだった。
「水瀬さん」
ある日の打ち合わせで、白石さんが少し嬉しそうに言った。
「最近、届き方が変わってきましたよ」
「届き方、ですか」
「はい。記事の反応です」
白石さんは、画面の向こうで資料を見ながら言った。
「派手にバズっているわけではないんです」
「それは、いい話なんでしょうか」
思わずそう聞くと、白石さんは笑った。
「いい話です。かなり」
その言い方が少し軽くて、私は少しだけ力が抜けた。
「普通、占いの記事って、読んだ直後に反応が来ることが多いんです。わかりやすい言葉とか、すぐ励まされる言葉とか、そういうものに反応が集まりやすい」
「はい」
「でも、水瀬さんの記事は少し違います」
白石さんは、画面に視線を落とした。
「翌日とか、二日後とか、少し時間が経ってから感想が来るんです。保存数も増えています。何度か読み返している人がいるんだと思います」
「そうなんですか」
「そうなんです」
白石さんは、少し得意そうにうなずいた。
「編集部では、静かにざわついています」
「静かにざわつくって、どういう状態ですか」
「水瀬さんの記事みたいな状態です」
「それは説明になってますか」
「なってます」
白石さんは、少し笑った。
「派手じゃないのに、あとから効いてくる」
その言葉に、私はすぐには返事ができなかった。
あとから効いてくる。
それは褒め言葉なのだろう。
白石さんの表情を見れば、それはわかる。
けれど、私はうまく受け取れなかった。
自分の記事が、誰かの中に残っている。
何度も読み返されている。
時間を置いてから、感想が届く。
それはありがたいことのはずだった。
けれど同時に、少し怖かった。
私は、ただ占いの記事を書いているつもりだった。
読者から届いた相談を読み、カードを引き、その意味を手がかりにして文章を書く。
それだけのはずだった。
けれど、もし読者がそこに、もっと深いものを求め始めているのだとしたら。
私は、その期待を受け取れるのだろうか。
「今回の記事も、反応がよかったです」
白石さんは続けた。
「特に最後の問いですね。『あなたは本当に答えを欲しがっていたのでしょうか。もしかすると、ただ早く安心したかっただけなのかもしれません』というところ」
私は、少しだけ黙った。
それは、記事の最後に添えた言葉だった。
カードの意味から導いたというより、相談者の文章を何度も読み返しているうちに、ふと出てきた言葉だった。
けれど、白石さんにそう言われると、自分の中まで見られたような気がした。
「そうですか」
私は、短く答えた。
白石さんは、その反応に気づいたのか、少しだけ声をやわらかくした。
「正直に言うと」
白石さんは、少し言いにくそうに笑った。
「水瀬さんの記事って、占い記事としては少し扱いづらいんです」
「扱いづらい」
「あ、いい意味です」
「それ、たぶん編集者の人しか使わない言い訳ですよね」
「ばれましたか」
白石さんは、画面の向こうで少し肩をすくめた。
その仕草が、思ったより子どもっぽくて、私は少し笑ってしまった。
「普通の占い記事なら、『こうしましょう』で終わります。読者も、それを期待しているところがあります」
「はい」
「でも水瀬さんの記事は、そこで終わらないんです」
白石さんは、先ほどより少し真面目な声になった。
「答えを出し切らない。少し怖いところで止まるんです」
「怖いところ」
「はい」
白石さんは、うなずいた。
「でも、その怖さがあるから、残るんだと思います」
怖い。
でも、残る。
その言葉は、すぐに胸から離れなかった。
私自身も、書きながら怖いと思うことがあった。
カードの意味を書いているはずなのに、いつの間にか、相談者の奥にあるものに触れているような気がする。
そして、その時いつも、主人のことを思い出していた。
相手の言葉を急がないこと。
沈黙の中にあるものを、すぐに説明しようとしないこと。
答えを渡すより先に、その人がどこで止まっているのかを見ること。
私は、それを記事の中でなぞっているのかもしれない。
でも、その主人のことを、私は何も知らない。
その事実が、また胸の奥で小さく動いた。
「そういえば」
白石さんは、ふと思い出したように言った。
「連載のお祝い、まだちゃんとしていませんでしたね」
「お祝い、ですか」
「はい」
白石さんは、少しだけ照れたように笑った。
「よかったら、今度、食事でもどうですか」
私は、一瞬、返事に迷った。
「打ち合わせの延長、ですか」
そう聞くと、白石さんは少し早く答えた。
「もちろんです」
少し間があった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「いえ、編集者として、です」
白石さんは、妙に真面目な顔をした。
「連載のお祝いですから」
その言い方が少し不器用で、私は返事に困った。
仕事の相手と食事をする。
それだけのことだった。
けれど、私の中には、いつもの癖が顔を出した。
近づきすぎない方がいい。
期待しすぎない方がいい。
丁寧にしてくれる人ほど、あとで遠くなるかもしれない。
そんな声が、胸の奥で小さく動いた。
でも、その声は以前ほど強くなかった。
白石さんは、私に何かを約束したわけではない。
特別な言葉をくれたわけでもない。
ただ、私の記事を読んで、そこに起きている変化を見てくれている。
それだけだった。
それだけなのに、私は少し、断る理由を探すのに疲れていた。
「はい」
気づくと、私はうなずいていた。
「ぜひ」
白石さんは、画面の向こうで、ほっとしたように笑った。
「よかったです」
そして、少しだけ冗談めかして言った。
「では、ちゃんと美味しい店を探しておきます。編集者として」
「そこも編集者なんですね」
「情報収集は仕事ですから」
その軽さに、私はまた少し笑った。
画面を閉じたあと、部屋は急に静かになった。
白石さんの言葉だけが、まだ残っていた。
派手じゃないのに、あとから効いてくる。
怖いけれど、残る。
私は、パソコンの黒くなった画面をしばらく見つめていた。
外側で何かが少しずつ変わり始めている。
そんな気がした。
けれど、それが何なのかは、まだわからなかった。
数日後、私は白石さんと向かい合って座っていた。
店は、駅から少し離れたところにあった。
小さな洋食店だった。
木のテーブルと白い皿。
壁際に並んだ小さなランプ。
窓際には、背の低い観葉植物が置かれていた。
賑やかすぎず、静かすぎもしない。
隣の席の声は聞こえるのに、何を話しているかまではわからない。
仕事の話をするには、ちょうどよかった。
けれど、仕事だけの場所という感じでもなかった。
白石さんは、メニューを閉じると、少し照れたように言った。
「こうしてお会いするのは、少し不思議ですね」
「そうですね」
私は、曖昧に笑った。
画面越しで何度も話しているのに、同じ空間にいるだけで、距離の測り方がわからなくなる。
声の大きさ。
視線を置く場所。
沈黙の長さ。
相手が水を飲む時の間。
画面越しなら気にならなかったものが、急に近くに来る。
料理が運ばれてきて、しばらくは他愛のない話をした。
読者から届いた相談が増えていること。
連載のタイトルを少し変えるかもしれないこと。
写真をもう少し柔らかい雰囲気にした方がいいかもしれないこと。
それは、いつもの打ち合わせの延長だった。
だから私は、少し安心していた。
けれど、食事が半分ほど進んだころ、白石さんがふとフォークを置いた。
「この前の打ち合わせで言おうか迷ったんですが」
その言い方に、私は少しだけ身構えた。
「はい」
白石さんは、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「水瀬さん、少し変わりましたよね」
「私が、ですか」
「はい。文章もですけど、たぶん雰囲気も」
私は、少し困った。
「雰囲気って、編集の仕事に入るんですか」
「入ります」
「本当ですか」
「少なくとも、今日は入ります」
その言い方が少しおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
白石さんも笑った。
その笑い方に、私は少し戸惑った。
白石さんは、ただ仕事として私を見ているのだろうか。
それとも、少し違うのだろうか。
そう考えかけて、すぐにやめた。
また、私は何かを急いで決めようとしている。
この人はこういう人だ。
この関係はこういうものだ。
これは仕事だ。
これは好意だ。
そうやって名前をつければ、少し安心する。
でも、今はまだ、そこまで急がなくていいのかもしれない。
白石さんは、水を一口飲んでから言った。
「前より、急がなくなった気がします」
急がなくなった。
その言葉に、私はすぐには返事ができなかった。
褒められたのかどうか、わからなかった。
以前の私は、もっと早く答えを出そうとしていたのだろうか。
読者に、わかりやすい結論を渡そうとしていたのだろうか。
それとも、そうしなければ記事として成り立たないと思っていたのだろうか。
「悪い意味ではないです」
白石さんは、私が黙ったのを見て、少し慌てたように言った。
「むしろ、いい意味です。前より、読者を置いていかない感じがします」
「置いていかない」
「はい。答えに急いで連れていくというより、その人が自分で気づくところまで、一緒に歩いている感じです」
私は、何も言えなかった。
その言葉は、褒め言葉のようにも聞こえた。
けれど同時に、私がまだ答えを持っていないと言われたようにも感じた。
「こう言ったら、失礼かもしれませんが」
白石さんは、少しだけ言葉を選んだ。
「水瀬さんは、プロフェッショナルな占い師のように、上から答えを与える人ではない気がするんです」
私は、すぐには返事ができなかった。
プロフェッショナルではない。
答えを与えられない。
そう言われたような気がした。
けれど白石さんの表情には、軽んじるような色はなかった。
「むしろ、読者と同じところで迷っている」
白石さんは、ゆっくり続けた。
「悩みも、不安も、知りたい気持ちも、ちゃんと持っている。だから、相談者の言葉を簡単に片づけないんだと思います」
私は、白石さんを見た。
「でも、そのまま終わらせない。読者が自分のところへ戻れるように、少しだけ余白を残している」
白石さんは、そこで少し笑った。
「まあ、編集者としては、その余白がちょっと怖い時もありますけど」
「怖いんですか」
「怖いです」
白石さんは正直にうなずいた。
「でも、その怖さがあるから、残るんだと思います」
私は、フォークを持ったまま、しばらく動けなかった。
それを褒め言葉として受け取っていいのか、すぐにはわからなかった。
占いの記事を書く人として、私は本当は、もっと確かな人に見えた方がいいのではないか。
迷わず、揺れず、相談者の前に立てる人の方が、信頼されるのではないか。
そんな考えが、一瞬浮かんだ。
「それで、いいんでしょうか」
気づくと、私はそう聞いていた。
白石さんは、すぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに言った。
「私は、そこが水瀬さんの文章の強さだと思っています」
強さ。
その言葉は、私には少し意外だった。
「迷っていることが、ですか」
「迷いをごまかさないことが、です」
白石さんは、そう言った。
「答えを知っている人にしか書けない文章もあります。でも、答えがまだわからない人だからこそ、読者のそばにいられる文章もあると思うんです」
私は、返事を探した。
けれど、うまく見つからなかった。
白石さんは、そこで少しだけ表情をやわらげた。
「私は、水瀬さんの記事をもっと読まれてほしいと思っています」
その声は、先ほどまでの冗談めいたものとは少し違っていた。
「単純に、編集者としてです」
少し間があった。
「……たぶん」
私は、思わず白石さんを見た。
白石さんは、少しだけ視線をそらした。
その仕草が、なんだか可笑しくて、でも少しありがたかった。
応援されている。
そう思った。
誰かに応援されることは、うれしい。
けれど、少し怖い。
期待されると、応えられなかった時のことを考えてしまう。
近づかれると、いつか離れる時のことを考えてしまう。
それでも、その時の私は、以前のようにすぐ身構えることができなかった。
白石さんの言葉は、私を急かしていなかった。
ただ、外側で起きている変化を、楽しそうに知らせてくれているだけだった。
読者が増えている。
相談が届いている。
感想が残っている。
記事が、少しずつ遠くへ届き始めている。
それは、私の内側が少し変わったことと、どこかでつながっているのだろうか。
そんなことを思いかけて、私はすぐに打ち消した。
考えすぎだ。
でも、完全には打ち消せなかった。
白石さんは、目の前の皿に視線を落とした。
「料理、冷めますね」
「白石さんが真面目な話をするからです」
「それは失礼しました」
「編集者として?」
「いえ」
白石さんは、少し笑った。
「今日は、たぶん違います」
私は、返事に困って、目の前の皿に視線を落とした。
料理の湯気が、少しずつ薄くなっていく。
冷めてしまう前に食べなければと思いながら、なぜかすぐにはフォークを動かせなかった。
白石さんとの距離が、少しだけ近づいている。
そう感じた。
けれどそれは、何かを急いで決めなければならない近さではなかった。
ただ、今までより少し、受け取ってもいいのかもしれない。
そう思える近さだった。
答えを持っている人ではなく、
迷いをごまかさずに書く人。
白石さんが見ている私は、そんな人なのかもしれない。
それが本当かどうかは、まだわからなかった。
けれど、白石さんの言葉を、すぐに疑わなくてもいいのかもしれない。
その夜、私はそんなふうに思っていた。




