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悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第四章 急がなくていい

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一 調べても、わからない人

連載が始まってから、私は週に一度、白石さんと打ち合わせをするようになった。


最初は、記事の長さや掲載日、写真の選び方、読者から届いた感想について話すだけだった。


けれど、回を重ねるうちに、私は少しずつ、自分が書いているものの奇妙さに気づき始めていた。


私は、占いの記事を書いている。


それは星座ごとの運勢を並べるようなものではなかった。

読者から届いた相談を一つ選び、その悩みに対して私がカードを引く。

そして、出たカードの意味を手がかりにしながら、相談者の心の奥にあるものを言葉にしていく。


恋愛の悩み。

親子の悩み。

仕事の悩み。

自分が何を望んでいるのかわからない、という悩み。


相談の形は違っていても、読んでいるうちに、どこか同じ場所へ降りていくような感覚があった。


私はカードの意味を説明している。

けれど、本当に書こうとしているのは、カードそのものではなかった。


相談者がまだ言葉にできていない問い。

その人自身も気づいていない痛み。

そして、読者が自分のこととして受け取れるような、最後の短い言葉。


けれど、書けば書くほど、私は自分がただ占いの結果を書いているだけではないことに気づいていた。


答えを急がないこと。

相手の言葉を途中で奪わないこと。

沈黙の中にあるものを、すぐに説明しようとしないこと。


それは、いつの間にか、主人から学んだ「聞き方」をなぞっているようでもあった。


私は、あの宿で起きたことを書いているわけではない。

主人の名前を記事に出しているわけでもない。

奥の部屋のことを書いているわけでもない。


それなのに、文章の奥には、いつも主人の気配があった。


静かな声。

急がない間合い。

人の言葉の奥にあるものを、少しも乱さずに待つ姿。


私は、その人の影を借りるようにして、読者への言葉を書いている。


そう気づいた時、胸の奥に小さな違和感が浮かんだ。


私は、あの人のことを、ほとんど知らない。


名前も知らない。

年齢も知らない。

あの宿をいつからやっているのかも知らない。

なぜ、あんなふうに人の話を聞けるのかも知らない。


知っているのは、静かな声と、急がない間合いだけだった。


奥の部屋へ向かう時の、あの不思議な背中。

こちらが何かを言う前から、すでにわかっているような目。

そして、目の前の人より少し深い場所を見ているような沈黙。


それだけだった。


そのことに気づいてから、私はどうにも落ち着かなくなった。


ある夜、原稿を書き終えたあと、私はパソコンを閉じることができずにいた。


画面には、次回の記事の下書きが残っていた。


相談者の悩み。

カードの意味。

そこから読み取った心の動き。

そして、最後に添える短い言葉。


読み返しているうちに、私は何度も主人のことを思い出していた。


もし主人なら、この悩みをどう聞くだろう。

どこで黙るだろう。

どの言葉を急がずに待つだろう。


そう考えている自分に気づいた時、急に怖くなった。


私は、主人を知っているような気になっている。

けれど、本当は何も知らない。


そう思った瞬間、指が勝手に動いていた。


宿の名前を検索した。


いくつかの情報は、すぐに出てきた。

地図アプリの登録。

古い旅行記のようなブログ。

地域紹介の記事。


数は多くなかったけれど、宿そのものは確かに存在していた。


口コミには、短い言葉が並んでいた。


静かな宿でした。

食事が丁寧でした。

山の空気がよかったです。

不思議と、帰るころには気持ちが軽くなっていました。


そのどれも、悪い印象ではなかった。

けれど、どれも主人の輪郭には触れていなかった。


宿の建物については書かれている。

料理についても書かれている。

駅からの道のりについても書かれている。


細い坂道の手前でタクシーを降りた、という記述もあった。


でも、主人の名前だけが、どこにもない。


「ご主人が親切でした」


「静かなご主人でした」


「こちらの話を急かさずに聞いてくださいました」


それだけだった。


私は、さらに古い記事まで遡った。


十年前のブログ。

もっと前の地域案内。

観光協会の小さな紹介文。

写真は荒く、文章も短かった。


それでも、宿はそこにあった。


同じ山あいに。

同じように、道の奥に。

同じように、訪れた人の言葉を少しだけ変えて帰す場所として。


けれど、やはり主人のことはわからなかった。


私は何度も検索語を変えた。


宿の名前に、「主人」と入れてみる。

「聞く」「相談」「不思議」「奥の部屋」まで入れてみる。


自分でも少しおかしいと思った。


けれど、やめられなかった。


調べれば、何か出てくると思っていた。

名前でも、経歴でも、過去の記事でもいい。

あの人が何者なのかを、少しでも教えてくれるものが欲しかった。


けれど、出てくるのはいつも宿のことばかりだった。


建物。

食事。

山道。

静けさ。

そして、帰るころにはなぜか気持ちが軽くなる、という曖昧な感想。


主人は、そこにいるはずなのに、どこにもいなかった。


しばらくして、古い地域紹介の記事の中に、一文だけ気になる言葉を見つけた。


そこには、こう書かれていた。


「この宿には、話を聞く人がいる」


それだけだった。


名前もない。

肩書きもない。

顔写真もない。


ただ、その一文だけが、記事の中に置かれていた。


私は、しばらく画面を見つめていた。


話を聞く人。


それは、今の主人のことなのだろうか。

それとも、昔この宿にいた別の誰かなのだろうか。


わからなかった。


けれど、その言葉だけが、他のどんな口コミよりも、主人に近い気がした。


話を聞く人。


そう呼ばれている人が、この宿にはいた。

あるいは、今もいる。


それだけのことなのに、私はなぜか、少し怖くなった。


主人は、何者なのだろう。


ただの宿の主人なのか。

それとも、私がまだ知らない何かを背負っている人なのか。


答えは出なかった。


調べれば、少しはわかると思っていた。

けれど、わかったことはほとんどなかった。


むしろ、知りたい気持ちだけが、前よりも大きくなっていた。


知らないまま会っていた時には、平気だった。

けれど、知ろうとして、わからなかったあとでは、かえって距離が生まれたような気がした。


あの人は、誰なのか。


その問いだけが、静かに胸の中に残った。

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