↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第三章 透明な器

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/45

七 朝の光

朝が来ても、昨夜のことは、まだ身体の奥に残っていた。


眠れたのか、眠れなかったのか、自分でもよくわからない。


ただ、気づくと窓の外が薄く明るくなっていて、山の輪郭が、夜の黒さの中から少しずつ戻ってきていた。


私は布団の上でしばらく動けずにいた。


藍色の布の向こう。


何もない部屋。



深く身体を預ける椅子。


椅子に沈んでいく倉橋さんの呼吸。


そして、言葉になる前にこちらへ触れてきた、潮の匂いと炉の熱。


それらが、夢のように遠くもあり、今もすぐそばにあるもののようにも感じられた。


ヒプノセラピーという方法で、過去の記憶や、本人の奥にあるイメージへ入っていくことがある。


そのくらいの知識は、私にもあった。


占い師として、そういう話を聞いたことがないわけではない。


本で読んだこともあるし、体験談を耳にしたこともある。


けれど、知っていることと、目の前で起こることは違っていた。


倉橋さんは、ただ物語を作っていたのではない。


少なくとも、私にはそう見えなかった。


言葉が出る前に、風景の気配がこちらにも触れていた。


 潮の匂い。

 炉の赤さ。

 天井から降る、細かな光。


あれを、ただの想像として片づけることはできなかった。


主人は、ずっとああいうものを見ていたのだろうか。


見る、というより、受け取る。


受け取っても、すぐには自分の言葉にしない。


相手自身の口から出てくるまで、待つ。


私は昨夜、その端に少しだけ触れたのかもしれない。


そう思うと、怖かった。


でも、その怖さは、嫌なものではなかった。


自分の中に、まだ扱いきれない場所があると知った時の怖さだった。


私はゆっくり起き上がった。


部屋の隅に置いた鞄の上には、スマートフォンがある。


白石さんからのメールは、そこに入ったままだった。


 企画、通りました。

 占いコーナーの件です。

 水瀬さんにお願いしたいです。


昨日まで、その言葉は私を試しているようにも見えた。


 期待されている。

 失敗できない。

 認められなければならない。


けれど今朝は、少し違っていた。


白石さんは、私に結果を差し出せと言ったのではないのかもしれない。


場所を渡してくれたのかもしれない。


そして私は、その場所を受け取る前に、すぐ自分の価値へ結びつけようとしていた。


 認められるために。

 失望されないために。

 今度こそ、必要な人間だと思われるために。


それは、倉橋さんが職人の美しさを、貴族に認めさせようとしていたことと、どこか似ていた。


私は、すでに受け取っていたのだと思う。


白石さんからの信頼。


これまで私の前で話してくれた人たちの言葉。


届かなかった鑑定。


怒らせてしまった相談者の沈黙。


それでも、もう一度人の話を聞きたいと思ってきた自分の願い。


受け取っていなかったのではない。


受け取ったものを、すぐに「私を認めてください」という形に変えようとしていた。


だから、手が閉じていたのかもしれない。


受け取ったものを、そのまま渡す。


その言葉が、胸の中で静かに動いた。


朝食の時間になり、私は部屋を出た。


二階の廊下は、昨夜とはまるで違っていた。


藍色の布は、いつものように廊下の奥に垂れているだけだった。


夜には、あの布の向こうにすべてが集まっているように見えた。


けれど朝の光の中では、ただの布に見える。


だからといって、昨夜のことが消えたわけではなかった。


私は、その布の前を通る時、少しだけ足を止めた。


何かに頭を下げるような気持ちになったが、実際には何もしなかった。


ただ、静かに息を吸い、階段を下りた。


食堂には、まだ誰もいなかった。


主人は、カウンターの奥で朝食の支度をしていた。


パンの香りと、温かいスープの匂いがした。


「おはようございます」


主人が言った。


「おはようございます」


私は答えた。


それだけの挨拶だった。


けれど、昨日よりも少しだけ、自分の声が静かに聞こえた。


席に着こうとした時、廊下の方から足音がした。


倉橋さんだった。


黒いケースを持っている。


けれど、その持ち方は昨日とは違っていた。


昨日は、壊れやすいものを守るように抱えていた。


今朝は、少し違う。


守っているというより、受け取った重さを確かめながら持っているように見えた。


「おはようございます」


倉橋さんは、私と主人に向かって静かに頭を下げた。


「おはようございます」


私は少し緊張しながら返した。


昨夜のことを、どう扱えばいいのかわからなかった。


あれは何だったのか。


どう言葉にすればいいのか。


そもそも、言葉にしてよいものなのか。


けれど倉橋さんは、昨夜の話をすぐにはしなかった。


ただ、カウンターの席に腰を下ろし、黒いケースを自分の足元に置いた。


置き方は、やはり丁寧だった。


でも、昨日のような張りつめた緊張はなかった。


主人が、温かいお茶を出した。


倉橋さんはそれを受け取り、今度はすぐに飲まなかった。


両手で湯呑みを包み、立ちのぼる湯気を少し見ていた。


それから、ゆっくり一口飲んだ。


その動きだけで、私は昨夜の酒のことを思い出した。


味わわずに飲み干した酒。


受け取らずに押し流したもの。


今朝の倉橋さんは、少なくとも、その湯呑みを通り過ぎてはいなかった。


しばらくして、倉橋さんはスマートフォンを取り出した。


画面を見つめ、何かを少し考えているようだった。


昨日なら、その顔にはすぐ苛立ちが出ていたと思う。


けれど今朝は、違った。


 迷いはある。

 不安もある。


それでも、誰かを責める言葉を探している顔ではなかった。


倉橋さんは、短い文章を打ち始めた。


私は見ないようにした。


けれど、すぐ近くに座っていたので、指の動きだけは見えていた。


 打って、止まる。

 少し消す。

 また打つ。


その繰り返しだった。


やがて倉橋さんは、送信ボタンを押した。


それから、湯呑みをもう一度手に取った。


「社員に、今朝の確認を送りました」


倉橋さんが言った。


私に向けた言葉なのか、主人に向けた言葉なのか、少しわからなかった。


主人は静かに聞いていた。


「今日は、価格で押すのではなく、職人の仕事をきちんと見てもらうところから始めようと思います」


倉橋さんは、ゆっくりと言った。


「もちろん、商談ですから、価格も数量も必要です。ホテル側の事情もあります。こちらの理想だけを押しつけるわけにはいきません」


そこで一度、言葉を切った。


「でも、わからせようとするのは、少し違うのかもしれません」


その声は、低かった。


「わからせるのではなく、渡す。

 受け取るかどうかは、相手の手に委ねる」


主人は頷いた。


「はい」


それだけだった。


倉橋さんは、少しだけ苦笑した。


「それが一番、難しいですね」


私は、その言葉に胸の奥が揺れた。


本当にそうだと思った。


相手に渡す。


でも、どう受け取られるかまでは決められない。


言葉も、仕事も、グラスも、占いも、たぶん同じなのだ。


倉橋さんは、足元の黒いケースに目を落とした。

「職人からは、ずいぶんたくさん受け取っていたんだと思います」


その言葉は、とても静かだった。


「技術だけではありません。時間も、信頼も、任せますという言葉も。あの人たちが黙って作り続けてきた姿も」


倉橋さんは、少しだけ息を吐いた。


「それを、私は売上で証明しようとしていました。ホテルに認めさせようとしていた。職人のためだと言いながら、どこかで、自分の価値も一緒に証明したかったのだと思います」


主人は、何も言わなかった。


「だから、結果がついてこなかったのかもしれません」


倉橋さんは言った。


けれど、その言い方は、自分を罰するものではなかった。


「結果が悪かったというより、私の手が、どこか閉じていた。受け取ったものを渡す前に、見返りの形を決めていたんです」


私は、その言葉を聞きながら、自分の手を見た。


私も、同じだった。


占いコーナーの話をもらった。


信頼を受け取った。


これまでの出会いも、失敗も、痛みも、全部、私の中にあった。


それなのに私は、それをすぐに「認められる結果」に変えようとしていた。


 読者に喜ばれたい。

 白石さんに頼んでよかったと思われたい。

 価値ある占い師だと思われたい。


そう思うことが、すべて悪いわけではないのだと思う。


でも、その気持ちが強くなりすぎると、渡すものが濁る。


受け取ったものを、そのまま渡す。


私は、もう一度その言葉を胸の中で繰り返した。


朝食が運ばれてきた。


 パン。

 スープ。

 小さな皿に盛られた果物。

 林檎のジャム。


昨日までと同じような朝食だった。


けれど、今朝は一つひとつが、少し違って見えた。


急いで意味にしなくていいもの。


ただ、そこに差し出されているもの。


私は、温かいうちにスープを飲んだ。


倉橋さんも、黙って朝食を食べていた。


沈黙はあった。


けれど、昨日のような張りつめた沈黙ではなかった。


それぞれが、それぞれの中で、受け取ったものを確かめているような沈黙だった。


食事を終えると、倉橋さんは立ち上がった。


黒いケースを持ち上げる。


その動きに、昨日のような焦りはなかった。


「行ってまいります」


倉橋さんは主人に言った。


主人は静かに頷いた。


「お気をつけて」


それだけだった。


倉橋さんは、私の方へも軽く頭を下げた。


「水瀬さん」


「はい」


「昨夜は、ありがとうございました」


私は少し慌てた。


「私は、何もしていません」


そう言うと、倉橋さんは、ほんの少し笑った。


「そうですね」


その返事に、私は一瞬戸惑った。


けれど、倉橋さんは続けた。


「でも、いてくださった」


その言葉に、胸の奥が静かに震えた。


何かを言ったからではない。


助けたからでもない。


正しい答えを渡したからでもない。


ただ、そこにいた。


それが、何かになっていたのだとしたら。


私は、どう返していいかわからず、小さく頭を下げた。


「行ってらっしゃいませ」


そう言うと、倉橋さんはもう一度軽く頭を下げ、玄関へ向かった。


外の光が、開いた戸の隙間から入ってくる。


倉橋さんの背中は、最初に宿へ入ってきた時とは少し違って見えた。


大きくなったわけではない。


自信に満ちたわけでもない。


商談が成功すると決まったわけでもない。


ただ、背負っているものを、誰かのせいにせずに持っていこうとしている背中だった。


戸が閉まると、食堂には静けさが戻った。


私は、しばらくその戸を見ていた。


主人が、空いた皿を静かに片づけている。


何事もなかったように。


でも、何もなかったわけではない。


私は鞄からスマートフォンを取り出した。


白石さんのメールを開く。


画面には、昨日と同じ文章が並んでいた。


『企画、通りました。占いコーナーの件です。水瀬さんにお願いしたいです』


けれど、もう同じ言葉には見えなかった。


認められるための依頼ではない。


失敗してはいけない試験でもない。


すでに渡されていたもの。


私は、返信欄を開いた。


何度も書き直したくなる気持ちは、まだあった。


ちゃんとした言葉にしたい。


期待に応えているように見せたい。


この人に任せてよかったと思われる返事をしたい。


その気持ちは、消えていなかった。


けれど、その奥で、もう一つの思いが静かに動いていた。


受け取ったものを、そのまま渡そう。


私をよく見せるためではなく。


私の価値を証明するためでもなく。


白石さんから受け取った信頼を、できるだけ曇らせずに、次の人へ渡していこう。


そう思いながら、私は短い返事を書いた。


送信ボタンを押したあと、すぐに胸が落ち着いたわけではなかった。


これでよかったのだろうか。


本当に、受け取ったものを渡せたのだろうか。


そんな不安は、まだ残っていた。


けれど、その不安を消すために、もう一通、言葉を足そうとは思わなかった。


私は、スマートフォンを伏せた。


窓の外には、朝の光があった。


昨夜は見えなかった山の輪郭が、静かにそこに戻っていた。


何かが完全に変わったわけではない。


それでも私は、自分の手が少しだけ開いていることに気づいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。