↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悩みを抱えた客だけがたどり着く宿で、僕はあなたを守る者の声を聴く ~答えを教えない、不思議な宿の六つの物語~  作者: 牧静
第一章 助けたいだけなのに

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/45

三 林檎のパイ

八時半を少し過ぎたころ、階段を降りると、食堂には誰もいなかった。


食堂の端には、五人も座ればいっぱいになるような、小さなカウンターがあった。もとは誰かの別荘だったのだろうか。夜に酒でも飲むためにつくられたような、古い木のカウンターだった。


主人はその奥で、オーブンの焼き色を確かめていた。


バターと砂糖の匂いが、ゆっくりと木の壁に染みていく。


「よろしければ、そちらへ」


そう言われて、私はカウンターの端に腰を下ろした。


正面に座られるより、ずっとましだった。


けれど、逃げ場がないようにも感じた。


「私だけですか」


思わず聞いた。


主人はオーブンの前でミトンを外しながら、少し首を傾げた。


「そうですね」


「他のお客さんには?」


「なぜか今日は、あなたにしか声をかけませんでした」


「……なぜか?」


「ええ。なぜでしょうね」


主人は本当にわからないような顔で、そう言った。


男の人に、夜、二人きりで食堂に呼ばれる。


普通なら、その時点で私は席を立っていた。


けれど、不思議なことに、嫌な感じがしなかった。


それが一番、嫌だった。


下心がない。優しさを装う気配もない。私を安心させようとする努力すらない。


だから、何を警戒すればいいのかわからなかった。


「私、占い師なんです」


そう言ったのは、聞かれたからではなかった。


むしろ、主人は何も聞いていなかった。


名前も、仕事も、なぜここへ来たのかも。


ただ、パイの焼け具合を見ながら、湯気の立つ紅茶を私の前に置く。


その沈黙に、私の方が耐えられなくなったのだ。


「タロットを使っています。三年くらいになります」


「そうですか」


主人は、驚いた様子もなく、そう言った。


「珍しくないんですか」


「珍しい、とは思います」


「でも、驚いてない」


「驚いた方がよかったですか」


私は返事に困った。


そういうことではない。


ただ、占い師だと名乗った時、人はたいてい何かを返してくる。


すごいですね、とか。何が見えるんですか、とか。私も占ってもらえますか、とか。


けれどこの人は、何も欲しがらなかった。


それ以上、何も聞いてこない。


私は少しだけ苛立った。


「……普通、もう少し何か聞きませんか」


「聞いた方がいいですか」


「いえ、そういうことじゃなくて」


私は紅茶のカップに触れた。まだ熱くて、指先だけが少し逃げた。


「人って、だいたい何か出るんです」


「何か、ですか」


「興味とか、警戒とか、下心とか、作り笑いとか。そういう、細かい揺れです。私は仕事柄、そういうものを感じやすいんです」


主人は黙っていた。


「でも、あなたからは何も感じない」


言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。


けれど、言葉はもう戻らなかった。


「まるで、人じゃないみたいです」


主人は、怒らなかった。


笑いもしなかった。


ただ、パイの焼き色を確かめるように、ほんの少し目を伏せた。


「なるほど。そう見えるんですね」


それだけだった。


「嫌じゃないんですか」


「嫌、とは?」


「人じゃないみたいって言われたら、普通は嫌じゃないですか」


「あなたには、そう見えたんですよね」


私は黙った。


責められていないのに、少しだけ、自分の言葉の荒さが見えた気がした。


「パイを焼くときに一番大切なのは、頃合いを見ることなんです」


主人は、オーブンの中を覗きながら言った。


「林檎の良し悪しもあります。その日の湿度によって、生地の感じも変わります。同じ分量で作っても、同じようには焼けません」


私は黙って聞いていた。


「だから、じっと見るんです。焼き色、膨らみ方、香り、縁の乾き方。ここだ、という頃合いがあります」


主人は、そう言って少し微笑んだ。


「その日その日、林檎の個性があり、パイの個性がある。それをずっと見ている時間が、私はとても好きなんです」


「……それ、パイの話ですか」


「パイの話です」


「人の話にも聞こえます」


「そう聞こえたなら、そうなのかもしれません」


林檎の個性。


生地の個性。


そんなふうに言われても、私には少し大げさに聞こえた。


分量通りに作ればいいのではないか。林檎だって、最初から良いものを選べばいい。レシピの温度と時間を守れば、パイは焼ける。


そう思ったところで、ふと胸の奥が引っかかった。


私も、同じことをしているのかもしれない。


カードの意味を覚えた。スプレッドの読み方も学んだ。恋愛、仕事、人間関係。相談内容ごとの伝え方も、何度も練習した。


それなのに、時々、お客さんの顔が曇る。


怒らせるつもりなんてないのに、言葉が強すぎたのだと、あとから気づく。


間違ったことを言ったつもりはない。


でも、届かなかった。


もしかすると、レシピ通りに焼けばいい、という考え方そのものが、違うのかもしれない。


主人は、オーブンの前で、ただ焼き色を見ていた。


焦らない。

急かさない。

まだだとも、もういいとも、簡単には決めない。


その横顔を見ているうちに、ふと、変なことを思った。


「少し、変な話をしてもいいですか?」


主人は、オーブンの前で振り返らずに、ただ小さく頷いた。


「私、もしあなたがタロット占い師だったら、あなたみたいな人に占ってほしいなって思いました」


言ってから、自分でもおかしくなった。


「理由は、わかりません。でもなぜそう思ったんでしょう。……変な質問ですね」


主人は少しのあいだ、黙っていた。


パイの焼ける音だけが、小さく食堂に残った。


「答えを急がなそうだから、かもしれませんね」


「答えを、急がない?」


「ええ。占う前に、まず見るでしょうから」


私は、カウンターの木目を見た。


「人は、自分の答えを急がれると、少し固くなります」


「固くなる?」


「はい。まだ焼けていないパイを切られるようなものです」


私は、何度も切ってきたのかもしれない。


まだ言葉になっていない人の気持ちを。


まだ焼けていない誰かの答えを。


主人は、それ以上何も言わなかった。


やがて焼き上がったパイを皿に移し、私の前に置いた。


表面は薄く色づき、縁のあたりだけが少し濃い。林檎の甘い匂いが、湯気と一緒に立ちのぼった。


「熱いうちにどうぞ」


それだけ言って、主人はカウンターの内側に立ったまま、自分の皿にも小さな一切れを取った。


焼きたてのパイは、思っていたよりも甘くなかった。


林檎の酸味がまだ少し残っていて、バターの香りがあとから静かに広がった。縁のあたりは薄く焦げているのに、中の生地はしっとりしている。


「おいしいです」


口に出してから、私は少し驚いた。


社交辞令のつもりではなかった。


主人は、カウンターの向こうで小さく頷いた。


「よかったです」


それだけだった。


もっと誇らしげにしてもいいのに、と思った。


自分で焼いたものを褒められたら、人は少しくらい嬉しそうにする。謙遜する人もいるし、作り方を語り出す人もいる。


けれど主人は、褒められた言葉を受け取り、そこに何も足さなかった。


それがまた、私を落ち着かなくさせた。


フォークでパイの端を切る。皿の上で、薄い生地が小さく音を立てた。


「不思議ですね」


私はぽつりと言った。


「何がですか」


「こういう時間、苦手なはずなんです」


主人は答えなかった。


聞いているのか、いないのか。


その沈黙に、私はまた続きを話してしまう。


「男の人と夜に二人でいるとか、普通は警戒します。私は特に。……いろいろあったので」


そこまで言って、言いすぎたと思った。


けれど主人は、驚きもしなかった。同情もしなかった。


ただ、紅茶のポットを持ち上げた。


「おかわりはいかがですか」


「……いただきます」


カップに紅茶が注がれる。


湯気が立つ。


それだけのことなのに、なぜか少し胸がゆるんだ。


私は、残りのパイを食べた。


もう少し何か話したかった。けれど、何を話していいのかわからなかった。


主人も、何も聞かなかった。


なぜここへ来たのか。誰にこの宿を聞いたのか。占い師として何に困っているのか。


何も。


ただ時々、カップの紅茶が少なくなると、静かに注ぎ足した。


その沈黙は、優しいようで、少し怖かった。


聞かれないということは、こんなにも自分の中の声が大きくなるのかと思った。


「ごちそうさまでした」


ようやくそう言うと、主人はまた小さく頷いた。


「よく眠れるといいですね」


「……眠れるでしょうか」


言ってから、なぜそんなことを聞いたのだろうと思った。


主人は、困ったようにも、面白がるようにも見えない顔で言った。


「眠れなくても、夜は過ぎます」


それは慰めなのか、ただの事実なのかわからなかった。


私はカウンターを離れた。


階段を上がる前に一度だけ振り返ると、主人は皿を片づけていた。さっきまで私が座っていた席には、もう誰もいない。


それなのに、そこにはまだ何かが残っているような気がした。


私の言葉か。


沈黙か。


それとも、私自身が置いてきてしまった何かか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。