三 林檎のパイ
八時半を少し過ぎたころ、階段を降りると、食堂には誰もいなかった。
食堂の端には、五人も座ればいっぱいになるような、小さなカウンターがあった。もとは誰かの別荘だったのだろうか。夜に酒でも飲むためにつくられたような、古い木のカウンターだった。
主人はその奥で、オーブンの焼き色を確かめていた。
バターと砂糖の匂いが、ゆっくりと木の壁に染みていく。
「よろしければ、そちらへ」
そう言われて、私はカウンターの端に腰を下ろした。
正面に座られるより、ずっとましだった。
けれど、逃げ場がないようにも感じた。
「私だけですか」
思わず聞いた。
主人はオーブンの前でミトンを外しながら、少し首を傾げた。
「そうですね」
「他のお客さんには?」
「なぜか今日は、あなたにしか声をかけませんでした」
「……なぜか?」
「ええ。なぜでしょうね」
主人は本当にわからないような顔で、そう言った。
男の人に、夜、二人きりで食堂に呼ばれる。
普通なら、その時点で私は席を立っていた。
けれど、不思議なことに、嫌な感じがしなかった。
それが一番、嫌だった。
下心がない。優しさを装う気配もない。私を安心させようとする努力すらない。
だから、何を警戒すればいいのかわからなかった。
「私、占い師なんです」
そう言ったのは、聞かれたからではなかった。
むしろ、主人は何も聞いていなかった。
名前も、仕事も、なぜここへ来たのかも。
ただ、パイの焼け具合を見ながら、湯気の立つ紅茶を私の前に置く。
その沈黙に、私の方が耐えられなくなったのだ。
「タロットを使っています。三年くらいになります」
「そうですか」
主人は、驚いた様子もなく、そう言った。
「珍しくないんですか」
「珍しい、とは思います」
「でも、驚いてない」
「驚いた方がよかったですか」
私は返事に困った。
そういうことではない。
ただ、占い師だと名乗った時、人はたいてい何かを返してくる。
すごいですね、とか。何が見えるんですか、とか。私も占ってもらえますか、とか。
けれどこの人は、何も欲しがらなかった。
それ以上、何も聞いてこない。
私は少しだけ苛立った。
「……普通、もう少し何か聞きませんか」
「聞いた方がいいですか」
「いえ、そういうことじゃなくて」
私は紅茶のカップに触れた。まだ熱くて、指先だけが少し逃げた。
「人って、だいたい何か出るんです」
「何か、ですか」
「興味とか、警戒とか、下心とか、作り笑いとか。そういう、細かい揺れです。私は仕事柄、そういうものを感じやすいんです」
主人は黙っていた。
「でも、あなたからは何も感じない」
言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。
けれど、言葉はもう戻らなかった。
「まるで、人じゃないみたいです」
主人は、怒らなかった。
笑いもしなかった。
ただ、パイの焼き色を確かめるように、ほんの少し目を伏せた。
「なるほど。そう見えるんですね」
それだけだった。
「嫌じゃないんですか」
「嫌、とは?」
「人じゃないみたいって言われたら、普通は嫌じゃないですか」
「あなたには、そう見えたんですよね」
私は黙った。
責められていないのに、少しだけ、自分の言葉の荒さが見えた気がした。
「パイを焼くときに一番大切なのは、頃合いを見ることなんです」
主人は、オーブンの中を覗きながら言った。
「林檎の良し悪しもあります。その日の湿度によって、生地の感じも変わります。同じ分量で作っても、同じようには焼けません」
私は黙って聞いていた。
「だから、じっと見るんです。焼き色、膨らみ方、香り、縁の乾き方。ここだ、という頃合いがあります」
主人は、そう言って少し微笑んだ。
「その日その日、林檎の個性があり、パイの個性がある。それをずっと見ている時間が、私はとても好きなんです」
「……それ、パイの話ですか」
「パイの話です」
「人の話にも聞こえます」
「そう聞こえたなら、そうなのかもしれません」
林檎の個性。
生地の個性。
そんなふうに言われても、私には少し大げさに聞こえた。
分量通りに作ればいいのではないか。林檎だって、最初から良いものを選べばいい。レシピの温度と時間を守れば、パイは焼ける。
そう思ったところで、ふと胸の奥が引っかかった。
私も、同じことをしているのかもしれない。
カードの意味を覚えた。スプレッドの読み方も学んだ。恋愛、仕事、人間関係。相談内容ごとの伝え方も、何度も練習した。
それなのに、時々、お客さんの顔が曇る。
怒らせるつもりなんてないのに、言葉が強すぎたのだと、あとから気づく。
間違ったことを言ったつもりはない。
でも、届かなかった。
もしかすると、レシピ通りに焼けばいい、という考え方そのものが、違うのかもしれない。
主人は、オーブンの前で、ただ焼き色を見ていた。
焦らない。
急かさない。
まだだとも、もういいとも、簡単には決めない。
その横顔を見ているうちに、ふと、変なことを思った。
「少し、変な話をしてもいいですか?」
主人は、オーブンの前で振り返らずに、ただ小さく頷いた。
「私、もしあなたがタロット占い師だったら、あなたみたいな人に占ってほしいなって思いました」
言ってから、自分でもおかしくなった。
「理由は、わかりません。でもなぜそう思ったんでしょう。……変な質問ですね」
主人は少しのあいだ、黙っていた。
パイの焼ける音だけが、小さく食堂に残った。
「答えを急がなそうだから、かもしれませんね」
「答えを、急がない?」
「ええ。占う前に、まず見るでしょうから」
私は、カウンターの木目を見た。
「人は、自分の答えを急がれると、少し固くなります」
「固くなる?」
「はい。まだ焼けていないパイを切られるようなものです」
私は、何度も切ってきたのかもしれない。
まだ言葉になっていない人の気持ちを。
まだ焼けていない誰かの答えを。
主人は、それ以上何も言わなかった。
やがて焼き上がったパイを皿に移し、私の前に置いた。
表面は薄く色づき、縁のあたりだけが少し濃い。林檎の甘い匂いが、湯気と一緒に立ちのぼった。
「熱いうちにどうぞ」
それだけ言って、主人はカウンターの内側に立ったまま、自分の皿にも小さな一切れを取った。
焼きたてのパイは、思っていたよりも甘くなかった。
林檎の酸味がまだ少し残っていて、バターの香りがあとから静かに広がった。縁のあたりは薄く焦げているのに、中の生地はしっとりしている。
「おいしいです」
口に出してから、私は少し驚いた。
社交辞令のつもりではなかった。
主人は、カウンターの向こうで小さく頷いた。
「よかったです」
それだけだった。
もっと誇らしげにしてもいいのに、と思った。
自分で焼いたものを褒められたら、人は少しくらい嬉しそうにする。謙遜する人もいるし、作り方を語り出す人もいる。
けれど主人は、褒められた言葉を受け取り、そこに何も足さなかった。
それがまた、私を落ち着かなくさせた。
フォークでパイの端を切る。皿の上で、薄い生地が小さく音を立てた。
「不思議ですね」
私はぽつりと言った。
「何がですか」
「こういう時間、苦手なはずなんです」
主人は答えなかった。
聞いているのか、いないのか。
その沈黙に、私はまた続きを話してしまう。
「男の人と夜に二人でいるとか、普通は警戒します。私は特に。……いろいろあったので」
そこまで言って、言いすぎたと思った。
けれど主人は、驚きもしなかった。同情もしなかった。
ただ、紅茶のポットを持ち上げた。
「おかわりはいかがですか」
「……いただきます」
カップに紅茶が注がれる。
湯気が立つ。
それだけのことなのに、なぜか少し胸がゆるんだ。
私は、残りのパイを食べた。
もう少し何か話したかった。けれど、何を話していいのかわからなかった。
主人も、何も聞かなかった。
なぜここへ来たのか。誰にこの宿を聞いたのか。占い師として何に困っているのか。
何も。
ただ時々、カップの紅茶が少なくなると、静かに注ぎ足した。
その沈黙は、優しいようで、少し怖かった。
聞かれないということは、こんなにも自分の中の声が大きくなるのかと思った。
「ごちそうさまでした」
ようやくそう言うと、主人はまた小さく頷いた。
「よく眠れるといいですね」
「……眠れるでしょうか」
言ってから、なぜそんなことを聞いたのだろうと思った。
主人は、困ったようにも、面白がるようにも見えない顔で言った。
「眠れなくても、夜は過ぎます」
それは慰めなのか、ただの事実なのかわからなかった。
私はカウンターを離れた。
階段を上がる前に一度だけ振り返ると、主人は皿を片づけていた。さっきまで私が座っていた席には、もう誰もいない。
それなのに、そこにはまだ何かが残っているような気がした。
私の言葉か。
沈黙か。
それとも、私自身が置いてきてしまった何かか。




