二 何も感じない人
「いらっしゃい」
玄関の奥から現れた男は、そう言って、静かに微笑んだ。
その瞬間、私は返事を忘れた。
怖かったわけではない。
むしろ、穏やかな人だと思った。
けれど、いつもなら人と会った瞬間に感じるはずのものが、何もなかった。
緊張も、警戒も、期待も、媚びも、探るような視線も。
人は誰でも、笑うときに少しだけ自分を作る。私はそれを、仕事柄、嫌というほど見てきた。
けれど、その人の微笑みには、作った気配がなかった。
だから私は、ほんの一瞬だけ思ってしまった。
この人は、本当に人なのだろうか。
男は、私が何者なのかを知りたがらなかった。
職業も、年齢も、ここへ来た理由も、尋ねなかった。
ただ、靴を脱ぐ場所を示し、荷物を持ちましょうかと聞き、夕食の時間を静かに告げた。
それだけだった。
なのに私は、落ち着かなかった。
人は普通、目の前の相手に少しは興味を持つ。興味がなくても、興味があるふりをする。
けれど、この人には、そのどちらもなかった。
私を無視しているわけではない。かといって、私を見ているわけでもない。
まるで、私がここに来ることも、来ないことも、どちらでもよかったみたいに。
夕食は、古い食堂で出された。
宿泊客は私を含めて三人いた。年配の夫婦と、ひとり旅らしい若い男性。主人は必要なことだけを静かにこなし、誰にも踏み込みすぎなかった。
料理は素朴だった。
派手さはないが、ひとつひとつがちょうどよかった。味も、量も、出されるタイミングも。
食事の後、主人が片づけをしながら何気なく言った。
「今、林檎のパイを焼いているんです」
私は顔を上げた。
「八時半ごろには焼き上がると思います。もしお時間があれば、あとで下へいらしてください」
その言い方は、あまりにも普通だった。
誘っているというより、天気を告げるような声だった。
だから私は、曖昧に頷いた。




