一 新月の夜
月のない夜に、ひとりで山道を登るものではない。
そんな当たり前のことを、私は宿の看板を見つけてから思い出した。
駅前から乗ったタクシーは、途中の細い坂道の手前で止まった。運転手はバックミラー越しに私を見て、「この先は入れないことはないけど、戻るのが面倒でね」と申し訳なさそうに笑った。
私は曖昧に頷いて、荷物を抱えて車を降りた。
観光地から、それほど離れているわけではない。昼間であれば、土産物屋や旅館の灯りも見えたのかもしれない。
けれど新月の夜の山道は、妙に静かだった。
スマホの地図では、宿までもう五分ほどのはずだった。だが、その五分がやけに長い。舗装された道の脇には、古い石垣と濡れた木々が続いている。風が吹くたび、葉のこすれる音が耳の奥で大きくなった。
どうして私は、こんなところに来ているのだろう。
そう思ったとき、三日前の鑑定が脳裏に浮かんだ。
「先生も、一度行ってみるといいと思います」
そう言ったのは、数少ないリピーターのひとりだった。
彼女は半年ほど前から、月に一度、私の鑑定を受けに来ていた。いつも同じような相談だった。職場の人間関係、母親との距離、恋人に言えない本音。私はそのたびにカードを並べ、できるだけ丁寧に読んだ。
彼女はいつも、納得したように頷いて帰った。
でも、変わったようには見えなかった。
それなのに、その日の彼女は違っていた。
背筋が少し伸びていた。声が落ち着いていた。悩みがなくなったわけではないのに、何かに追われている感じが薄くなっていた。
「何かありましたか」
私が尋ねると、彼女は少し迷ってから言った。
「山の宿に行ったんです」
「宿?」
「はい。知り合いに教えてもらって。小さな宿なんですけど、不思議なところで」
彼女はそれ以上、詳しくは語らなかった。
ただ、最後にこう言った。
「占い師さんのあいだでも、少し噂になっているみたいです。新月の夜に、ひとりで泊まると、鑑定が変わるって」
私は笑った。
「鑑定が変わる、ですか」
「当たるようになる、というより……見え方が変わる、みたいな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さくざらついた。
私の鑑定では変わらなかった人が、どこか別の場所で変わってしまった。
もちろん、そんなふうに思うのはおかしい。クライアントが少しでも楽になったなら、それでいいはずだった。
それなのに私は、少しだけ傷ついていた。
私はタロット占い師になって、三年になる。
もともとは会社員だった。毎日、同じ電車に乗り、同じようなメールに返信し、同じような会議で、同じような顔をしていた。
そんな時期に、ある人のセッションを受けた。
その人は、私の未来を派手に言い当てたわけではなかった。ただ、私がずっと見ないようにしていた感情を、静かに言葉にしてくれた。
そのとき私は、こんなふうに人の人生に触れられる仕事があるのだと思った。
それから会社を辞め、タロットを学び、鑑定を始めた。
うまくいっていないわけではない。
ありがたいことに、信頼して通ってくれる人も二、三人いる。カードの意味も読める。相談者の表情や声の揺れから、言葉にしていない感情を拾うこともある程度はできる。
けれど、広がらない。
一度来て、それきりになる人も少なくなかった。
理由は、たぶんわかっている。
私は、話を聞いているようで、途中からアドバイスをしたくなってしまう。
特に、男性に傷つけられた話になるとだめだった。恋人、夫、上司、父親。相手が誰であっても、相談者の言葉の中に支配や搾取の匂いを感じると、私の中の何かが先に反応してしまう。
「それは危険です」
「すぐに距離を置いた方がいいです」
「あなたは利用されています」
間違ったことを言っているつもりはなかった。
けれど、正しさがその人に届くとは限らない。
前にも、一人の相談者を怒らせてしまったことがある。彼女は既婚男性との関係で悩んでいた。私は強く言いすぎた。彼女は最後まで丁寧に笑っていたが、その笑顔は、もう二度とここには来ない人のものだった。
その夜、私は自分のためにカードを引いた。
塔。
ここ数日、そのカードばかりが出ていた。
崩壊。破壊。古いものが壊れる。
だから、というわけではない。
けれど、リピーターが教えてくれた宿の予約ページを開いたとき、次の新月の夜に一室だけ空きがあった。
偶然だと思った。
思おうとした。
道の先に、小さな灯りが見えた。
近づくと、石垣の上に古い木造の建物があった。旅館というより、誰かの別荘をそのまま宿にしたような佇まいだった。大きな看板はない。門柱のそばに、控えめな木札がかかっているだけだった。
こんなところに宿があったのか。
そう思わせる場所だった。
私は深く息を吸い、玄関の引き戸を開けた。




