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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第108話 妹にもいろいろある

七月九日の朝。


 学校へ向かいながら、昌志は今朝の司のことを考えていた。


 心配してくれて、ありがとう。


 心配させて、ごめんな。


 そう言ったあと、司は顔を赤くして黙った。


 何かを言い返してくることもなく、こちらを問い詰めてくることもなかった。


 少なくとも、今朝はうまくいった。


 昌志は、ほんの少しだけ自画自賛した。


 ただ、司がどうして黙ったのかまでは、昌志には分かっていなかった。


 教室に入ると、圭佑がすぐに昌志を見た。


「昨日は大変だったな」


「ああ」


「でも、助けられてよかったじゃないか」


「そうだな」


 昌志は頷いた。


 それは本心だった。


 遥と加藤あいは助かった。


 男子高校生三人とも、喧嘩にならずに済んだ。


 結果だけを見れば、よかったと言える。


 けれど、心の中はまだ複雑だった。


 あの雰囲気、多分圭佑に疑われている。


 遥にも疑われている。


 加藤あいにも、たまたまだとは思われていないだろう。


 そして今朝は、司にまで妙なところを突かれた。


 昌志は自分の席に鞄を置いた。


 それから、圭佑を見る。


「まあ、(よう)を助けられてよかったよ」


 圭佑が少しだけ目を細めた。


瑞美(みつみ)さんを?」


「ああ。お前の大切な彼女だからな」


「……お前な」


「何だよ」


「いや」


 圭佑は少し言いかけて、そこで言葉を止めたようだった。


 それから、軽く息を吐く。


「一応、礼は言っておく。ありがとうな」


「何だよ、急に」


「瑞美さんを助けてもらったからな」


 圭佑はそう言ってから、少しだけ視線を外した。


 ただの礼にしては、少し声が重かった。


 昨日も、圭佑はどこか歯がゆそうだった。


 昌志に呼ばれて、昌志についてきて、昌志が先に動いた。


 圭佑もその場にいた。


 声もかけた。


 それなのに、圭佑はどこか納得していないように見えた。


 何に引っかかっているのかまでは、昌志には分からない。


 ただ、礼だけは言っておきたい、そんな感じだった。


「親友のためだからな」


 昌志は、少しだけ軽く言った。


 圭佑はその言葉を聞いて、また何か言いかけた。


 どうして分かったんだ。


 どうしてあそこで、ああなると思ったんだ。


 そんなことを聞こうとしているように見えた。


 けれど、圭佑はすぐに口を閉じた。


 聞いても、昌志が答えないと思ったのかもしれない。


 少しだけ間が空く。


 昌志は、それに気づかないふりをした。


「そっちは?」


「俺?」


「昨日、遥と加藤さんを送ったんだろ?」


「ああ。途中までな」


「何か言ってた?」


 圭佑は少しだけ考えた。


「加藤さんはずっと喋ってた」


「だろうな」


「瑞美さんは、少し考え込んでた」


「……そうか」


 昌志はそれ以上聞かなかった。


 聞けば、余計に自分の首を絞める気がした。


 圭佑も、そこで一度黙った。


 けれど、昌志の方には、もう一つ聞きたいことがあった。


「そういえば、圭佑」


「何だ?」


「お前、美月ちゃんにちゃんと伝えたのか?」


「何を?」


「昨日のこと」


「伝えたというか、美月が聞いてきたから、少し話したけど」


「今日の朝、司に言われたぞ」


「司ちゃんに?」


「ああ。男子高校生三人と喧嘩したんだって、って」


 圭佑はそこで、少し気まずそうな顔をした。


「悪い」


「お前が言ったのか?」


「俺が司ちゃんに直接言ったわけじゃない。たぶん、美月から司ちゃんに伝わったんだと思う」


「やっぱりか」


「でも、それもう、全然違う話になってるな」


「だろ、驚いたぞ」


「俺の伝え方も悪かったかもしれない。美月が聞いたら、司ちゃんにも言うだろうし」


「まあ、美月ちゃんと司は連絡取ってるからな」


「それに、司ちゃんの学校は女子校だろ。男子高校生三人と喧嘩したなんて聞いたら、そりゃ驚く」


「……そう言われると、そうか」


「救助の話じゃなくて、完全に喧嘩の話になってるからな。悪かった」


 圭佑は素直に謝った。


 昌志は少しだけ肩をすくめる。


「別にいいけどな。怪我してないって言えば済む話だったし」


「済んだのか?」


「実は、危うく済まないところだった」


「何があったんだよ」


「また司と仲が悪くなりそうになった」


「またか」


「でも、今日からは大丈夫かもしれない」


「何でだよ」


「司とのこと」


 昌志がそう言うと、圭佑は少しだけ眉を上げた。


「どういうことだ?」


「今日から対応を変えた」


「対応?」


「ああ。今までみたいに雑に返すのをやめた」


「それはいいことだな」


「司が心配してくれたから、ちゃんと手を取って、目を見て、丁寧に話してみた」


「手を取って?」


「心配してくれてありがとうとか、心配させてごめんなとか、怪我してないから大丈夫だとか」


「お前が?」


「俺が」


「へえ」


「何だよ、その反応」


「いや。お前にしては、かなりまともな対応だと思って」


「お前、俺を何だと思ってるんだ」


「鈍いやつ」


「否定しづらい言い方をするな」


 圭佑は少し笑った。


「でも、よかったじゃないか。司ちゃんと少し落ち着いたなら」


「ああ。妹にもいろいろあるって言われたからな。美月ちゃんと司は違うんだろ」


「まあ、違うだろうな」


「だから、司には少し丁寧に話した方がいいのかもしれない。雑に返すより、ちゃんと安心させた方がうまくいく」


「それはそうかもな」


「今朝は、結構うまくいった」


 昌志は少し得意げに答えた。


「調子に乗るなよ」


「乗ってない」


「顔が乗ってる」


「どんな顔だよ」


 昌志は少しだけむっとした。


 けれど、心の中では、やっぱり少しだけうまくいった気がしていた。


「司、さっきまで心配してたのに、最後は急に黙ったからな」


「黙った?」


「ああ。耳まで真っ赤にしてた」


「……耳まで?」


「顔も赤かった。目もそらしてた」


 昌志は少し笑いながら答えた。


「……」


「何だよ」


「いや」


 圭佑は少しだけ考え込んだ。


「それ、本当にうまくいったのか?」


「うまくいっただろ。静かになったし」


「驚いて、今日は黙っただけかもしれないぞ」


「驚いた?」


「さっきも言ったけど、司ちゃん女子校だろ。手を取られて、目を見てまっすぐ言われることに慣れてなかったんじゃないか」


「俺は兄だぞ」


「兄でも、急にそんなことされたら驚くんだよ」


「……そういうものか?」


「そういうものだと思うぞ」


 昌志には、何が問題なのか分からなかった。


 司は静かになった。


 それ以上、問い詰めてもこなかった。


 なら、少なくとも今はうまくいっている。


「まあ、とにかく、今はうまくいってるんだよ」


「今はな」


「だから、このままやる」


「顔に出るくらい調子に乗るなよ」


「乗ってない」


「そこが心配なんだよ」


 圭佑は呆れたように言った。


「妹って、難しいんだよ」


「お前が言うと重いな」


「実感だからな」


「シスコンの?」


「違う」


 圭佑は即答した。


 昌志は少し笑いそうになった。


 圭佑は本気で言っている。


 けれど、昌志にはまだ、司の反応がどう危ないのかよく分からなかった。


 少なくとも今朝は、うまくいった。


 そう思うことにした。


 圭佑はそこで話題を変えた。


「それで、今日はどうするんだ?」


「放課後は、とりあえず文芸部に行く」


「美月から連絡来たのか」


「ああ。昨日、今日は部活の日だから来てくださいって」


「そうか」


「でも、その後ちょっと用事があるから、あんまり長くはいられないと思う」


「言っておいてやろうか?」


「頼めるか?」


「昌志が言った方が喜ぶんじゃないか」


「同じだろ」


「同じじゃないと思うけどな」


「長くいられないって連絡するだけだろ」


「まあ、そうだけど」


 圭佑は少し呆れたように言ってから、スマホを取り出した。


「じゃあ、そう送るぞ」


「ああ」


 圭佑は美月へメッセージを打った。


『昌志は今日文芸部に行く。でも、あまり長くはいられないらしい』


 送信して少し待つ。


 すぐに返事が来た。


 圭佑は画面を見て、少しだけ笑った。


「何だって?」


 昌志が聞く。


「分かりました。でも、昌志先輩が来てくださるなら楽しみにしています、だってさ」


「……丁寧だな」


「喜んでるんだろ」


「文芸部に人が増えるのが嬉しいんだろ」


「まだそれ言うのか」


 圭佑が呆れたように見る。


「寂しかったんだな」


「誰が?」


「美月が」


「何でだよ」


「昨日、お前が来なかったからだろ。今日は来るって聞いて、嬉しかったんじゃないか」


「昨日は仕方ないだろ」


 昌志は少しだけ眉を寄せた。


「お前を誘って、遥と加藤さんを助けに行ったんだから」


「ああ。それはそうだな」


 圭佑も頷いた。


「あの事件があったからな」


「だから、昨日行けなかったのは仕方ないだろ」


「仕方ないのと、美月が寂しがるのは別だろ」


「別なのか?」


「別だ」


 圭佑は少し笑った。


「お前がちゃんと行けば、美月は喜ぶ。それだけだ」


「さすが美月ちゃんのお兄様だな」


「変な言い方をするな」


「褒めてるんだよ」


「絶対に違うだろ」


 圭佑はスマホをしまった。


 美月は、文芸部で待っている。


 それなら、行こう。


 ただ、長居はできない。


 夕方には、礼を言いたいと思っている彼女に会うことになる。


 それはたぶん遥だと思う。


 黒い本の文章は、昌志の頭の奥に残っていた。


 今日も、何かが起きる。


 それが危ないことでないだけ、昨日よりはましだ。


 昌志はそう思うことにして、授業の準備を始めた。

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