第107話 また人助け
七月九日の朝。
昌志は目を覚ましてから、しばらく天井を見ていた。
昨日の黒い本の文章が、頭に残っている。
彼女が、昌志にどうしても会いたいと思っている。
彼女は、昨日の礼を言いたいと思っている。
昌志が会えば、彼女は少しだけ安心する。
昌志が会わなければ、彼女はしばらく昌志を探す。
今日は、礼を言われるだけだ。
危ないことが起きるわけではない。
少なくとも、その予告だけを見れば、そうだった。
だから、昨日ほど心配する必要はないはずだった。
彼女。
昨日の予告では、駅前公園で絡まれていたのは、彼女と女子高生だった。
実際にそこにいたのは、遥と加藤あいだった。
加藤あいは、昨日の予告では女子高生と書かれていた。
そう考えれば、今日の彼女も、たぶん遥のことだと思う。
けれど、黒い本の言葉がいつも同じとは限らない。
加藤あいも昨日、昌志と関わった。
だから、完全に決めつけることはできなかった。
黒い本に書かれていたのは、それだけではない。
帰り道で、知らない男子生徒たちの言い争いを見る。
近づけば巻き込まれる。
近づかなければ、言い争いはそのまま続く。
さらに、夜の帰り道で、誰かに後をつけられるとも書かれていた。
振り返れば、その誰かは人混みに紛れる。
振り返らなければ、その誰かは家の近くまでついてくる。
どちらも、選びたくない。
余計なことに関わるつもりはなかった。
できるなら、礼を言いたいという彼女に会うだけで終わらせたい。
それが遥なのか、加藤あいなのかは分からない。
けれど、少なくとも、言い争いに巻き込まれるよりはましだ。
誰かに後をつけられるよりは、ずっといい。
昌志は起き上がり、着替えてから一階へ降りた。
食卓には、母と司がいた。
父もすでに席に着いている。
昌志が椅子を引こうとした時、司がこちらを見た。
「お兄ちゃん」
「何だよ」
「昨日、美月さんから連絡もらったんだけど」
その名前が出た瞬間、昌志は嫌な予感がした。
司は、いつものようにからかう顔ではなかった。
少し眉を寄せて、昌志の顔をじっと見ている。
「男子高校生三人と喧嘩したんだって?」
「……え?」
昌志は、すぐに否定しかけた。
喧嘩なんかしていない。
何を大げさに言っているんだ。
いつもなら、そう返していたと思う。
けれど、言葉が出る前に、昌志は一度だけ息を止めた。
また、いつも通りに返せば同じになる。
また警戒されたり、信用されていないように受け取られたりして、面倒なことになる。
司は言い返してくる。
昌志も言い返す。
それで朝から喧嘩になる。
これでは同じことの繰り返しだ。
前に、圭佑に言われたことを思い出す。
妹にもいろいろある。
美月と司は違う。
同じように考えない方がいい。
美月の話を聞いて、妹への接し方を少し考えたつもりではいた。
けれど、美月には美月の受け取り方がある。
司には司の受け取り方がある。
今までの昌志は、司に対して雑だった。
適当に返す。
軽く流す。
面倒になったら言い返す。
それで何度も喧嘩になっていた。
なら、司には司の対応をしなければいけない。
今までと同じでは駄目だ。
少し優しくする。
心配しているなら、まず礼を言う。
まっすぐ見て、大丈夫だと伝える。
そうすれば、司も少しは落ち着くかもしれない。
少なくとも、余計なところまで踏み込んでこないかもしれない。
それで駄目なら、また対応を考えればいい。
とにかく、このままではいけない。
昌志は、言いかけた否定を飲み込んだ。
「喧嘩はしてない」
できるだけ、声を荒げないように言う。
司がじっとこちらを見ていた。
「本当に?」
「ああ。本当に」
「怪我、してない?」
「してない」
「どこか痛いところとか、ない?」
「ない」
「隠してないよね?」
責めている声ではなかった。
からかっている声でもない。
本当に心配している声だった。
昌志は椅子に座る前に、司の方へ少し近づいた。
司が不思議そうに瞬きをする。
「司」
「な、何?」
昌志は、食卓の上に出ていた司の手に、軽く手を置いた。
司の指先が、びくっと小さく揺れる。
「心配してくれて、ありがとう」
「……え」
「でも、大丈夫だ。怪我はしてない。痛いところもない」
「……うん」
「喧嘩もしてない。知り合いが絡まれてたから、声をかけただけだ」
司は、昌志の手元を見ていた。
それから、ゆっくりと昌志の顔を見る。
けれど、目が合った瞬間、すぐに視線をそらした。
頬が少し赤くなる。
「そ、そうなんだ」
「ああ」
「じゃあ……よかった」
声が小さかった。
それきり、司は何も言わなくなった。
さっきまであれだけ心配そうに聞いてきたのに、急に言葉が止まったみたいだった。
昌志の方も見ない。
味噌汁の椀を手に取ったまま、少しうつむいている。
耳まで赤くなっていた。
昌志は、それを見て、内心で少しだけ驚いた。
怒らない。
言い返してこない。
それどころか、司は目をそらして黙っている。
この対応でいいのかもしれない。
少なくとも、今までみたいに雑に返すよりは、ずっといい。
心配してくれたら、礼を言う。
できるだけ優しくする。
目を見て、大丈夫だと伝える。
そうすれば、司は余計なことを言わなくなる。
黒い本のことにも、深く踏み込んでこない。
昌志は、そう判断した。
「昌志」
母が先に口を開いた。
「あなた、本当に喧嘩はしてないのね?」
「してないよ」
昌志は母の方を向いて答えた。
「相手が逃げただけ。俺も圭佑も、何もしてない」
「圭佑くんもいたの?」
「うん。一緒だった」
父が味噌汁を置いて、穏やかに言った。
「でも、その人たちは助かったんだろう?」
「うん」
「なら、よかったじゃないか」
父は普通に言った。
責めるでもなく、褒めすぎるでもなく。
その言い方に、昌志は少しだけ救われた気がした。
「ただ、気をつけなさい。相手が三人だったなら、危なかったのは本当だろう」
「うん。分かってる」
昌志は素直に頷いた。
司はまだ、あまり昌志の方を見なかった。
さっきからずっと、少しうつむいたままだ。
ただ、完全に話を聞いていないわけではないらしい。
父の言葉に、小さく頷いていた。
「また人助け?」
司がぽつりと言った。
今度は、いつものように責める響きではなかった。
少し心配そうな声だった。
「そうなるのかな」
「悪いとは言ってないよ」
「分かってる」
「でも、お兄ちゃんが怪我したら嫌だから」
昌志は、もう一度司を見た。
ここで軽く流さない。
雑に返さない。
司には司の対応をする。
「ああ」
昌志は静かに頷いた。
「心配させて、ごめんな」
「……っ」
司がまた目をそらした。
「別に、謝ってほしいわけじゃないし」
「でも、心配したんだろ」
「それは……したけど」
「なら、ありがとう」
「……もういい」
司は小さくそう言って、味噌汁の椀に口をつけた。
顔を隠すように少し下を向いている。
耳が赤いままだった。
昌志は、それ以上は続けなかった。
やりすぎると、逆におかしくなる気がした。
少し優しくする。
少し丁寧に返す。
今は、それくらいでいい。
母が少し不思議そうに昌志を見ていた。
「昌志、今日は素直ね」
「そう?」
「そうよ」
「普通だよ」
昌志はそう言って、ようやく椅子に座った。
朝食を食べ始める。
司は、しばらく何も言わなかった。
昌志の方も見ようとしない。
ただ、時々、何か言いたそうに口を開きかけては、すぐに閉じる。
今までなら、司は言いたいことをそのまま言ってきた。
昌志もそれに雑に返した。
そこから喧嘩になった。
でも、今は違う。
司は黙っている。
強く踏み込んでこない。
昌志は、味噌汁を飲みながら、今朝の対応を頭の中で確かめた。
そこで終わればよかった。
けれど、司がふと思い出したように口を開いた。
「でも、お兄ちゃん」
「何だ?」
「よく、そこに行けたね」
昌志の手が止まった。
司は何気なく言ったように見えた。
けれど、その言葉は少しだけ鋭かった。
母も父も、そこまでは考えていなかったらしい。
二人の視線が昌志に向く。
昌志は、すぐに答えなかった。
ここでも、いつも通りに返せば駄目だ。
雑に否定すれば、司は引っかかる。
強く言えば、余計に怪しまれる。
昌志は一拍置いてから、できるだけ穏やかに言った。
「たまたまだよ」
「たまたま?」
「ああ。近くを通ったら、声が聞こえた。それだけ」
「そうなの?」
「そうだよ」
昌志は司の目を見た。
逃げるように見えないように。
でも、強く押し返さないように。
「俺たちが近くにいて、向こうがすぐ逃げて、二人も怪我しなかった。運がよかったんだよ」
「……そう」
司はそれ以上追及しなかった。
納得したのかどうかは分からない。
けれど、強く聞き返してはこなかった。
昌志は胸の奥で、少しだけ息を吐いた。
朝食を終え、昌志は席を立った。
「ごちそうさま」
「はい。行ってらっしゃい」
母が言う。
父も新聞から顔を上げた。
「気をつけてな」
「うん」
昌志は玄関へ向かった。
靴を履いていると、後ろから足音がした。
司だった。
「お兄ちゃん」
「何だ?」
「本当に、気をつけてね」
今朝、何度も聞いた言葉だった。
けれど、司の声はまだ心配そうだった。
昌志は靴紐を結び終え、立ち上がる。
それから、司の方を向いた。
「司」
「……何?」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
昌志は、もう一度司の手を軽く取った。
今度は、さっきより少しだけ自然にできた。
「心配してくれて、ありがとう」
「……っ」
司が目をそらした。
頬が赤くなる。
それから、昌志の方を見ないまま、小さく言った。
「別に、そういうのじゃないし」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「でも、気にしてくれてるんだろ」
「……知らない」
司はそう言って、横を向いた。
その後は、もう何も言わなかった。
昌志の方も見ない。
昌志はそれを見て、今日の朝を振り返る。
司は、強く言い返してこなかった。
余計なことも、それ以上は聞いてこなかった。
顔を赤くして、目をそらして、黙った。
今朝は、うまくいった。
昌志はそう思った。
今までのように雑に返すのではなく、優しくする。
丁寧に話す。
心配してくれたら礼を言う。
そうすれば、司は言葉に詰まる。
目をそらす。
それ以上、強く踏み込んでこない。
司には、このやり方でいこう。
「今日は無茶しない」
「……うん」
「行ってくる」
司はまだ少し心配そうな顔をしていた。
それでも、最後は小さく頷いた。
「……行ってらっしゃい」
昌志は玄関を出た。
朝の空気は少し湿っていた。
歩き出してから、昌志はさっきの司の反応をもう一度思い返した。
手を取る。
目を見て話す。
心配してくれてありがとう、と言う。
それだけで、司は顔を赤くして黙った。
いつものように言い返してこなかった。
よく、そこに行けたね。
あの一言は、少し鋭かった。
ただの軽口ではなかった気がする。
火事の時もそうだった。
昨日の公園のことも、美月から聞いたとはいえ、すぐに引っかかっていた。
司は、何かを感じているのかもしれない。
だからこそ、今までみたいに雑に返してはいけない。
雑に返せば、司は余計に食い下がる。
喧嘩になれば、こちらも余計なことを言いかねない。
でも、優しくすればいい。
丁寧に言えばいい。
心配しているなら、ちゃんと礼を言えばいい。
そうすれば、司は戸惑って黙る。
それ以上、踏み込んでこない。
黒い本のことにも近づかない。
昌志は鞄の肩紐を握り直した。
今日の朝は、うまくいった。
これからも、司にはこの対応でいけばいい。
黒い本のことを、誰かに知られるわけにはいかない。
少なくとも、今はまだ。




