幕間11 家に帰った後で
七月八日の夜。
家に帰ってからも、遥の手はまだ少し震えていた。
玄関で靴を脱いだ時も。
洗面所で手を洗った時も。
自分の部屋に入って、鞄を机の横に置いた時も。
何度も、もう大丈夫だと自分に言い聞かせた。
実際、怪我はしていない。
あいも無事だった。
あの男子高校生たちも、結局はどこかへ行った。
だから、大丈夫。
そう思おうとしているのに、駅前公園の木立の暗さを思い出すたび、背中が冷たくなった。
まさか、あんな場所で、あんなふうに男子高校生に囲まれるとは思わなかった。
それも、自分一人ではない。
あいまで巻き込んでしまった。
あいは明るく振る舞っていた。
途中からは、いつもの調子に戻っていたようにも見えた。
けれど、怖くなかったはずがない。
あいとは、ただ二人で買い物に行こうと話していただけだった。
駅前の方なら、店も多い。
少し歩いて、どこかで休んで、それから帰る。
そのくらいのつもりだった。
途中で駅前公園に寄ったのも、特別な理由があったわけではない。
それなのに、駅前公園の木立の近くで、あんなことになってしまった。
「間抜けな話ですね……」
遥は、ぽつりとつぶやいた。
昌志の役に立ちたいと思っていた。
助けられるばかりではなく、自分も何かしたいと思っていた。
だから、圭佑とも話した。
昌志が何を隠しているのか。
どうして危ない場所に現れるのか。
それを少しでも知ろうとしていた。
それなのに、今日もまた助けられてしまった。
ただ、あいと買い物に行こうとしただけだった。
駅前の方へ行って、店を見て、少し歩いて、どこかで休んで、それから帰る。
そのくらいのつもりだった。
それなのに、男子高校生三人に囲まれた。
あいまで巻き込んでしまった。
昌志のことを知りたい。
昌志の助けになりたい。
そう思っていたはずなのに、結局、自分はまた助けられる側に戻っている。
これでは、何をしているのか分からない。
そして、実際に昌志は来てくれた。
圭佑と一緒に。
あの人は、また助けに来てくれた。
「……昌志さん」
名前を口にした瞬間、遥は自分で固まった。
今、自分は自然にそう呼んだ。
昌志さん。
口の中で、勝手にその呼び方が出てきた。
胸の奥が、変に熱くなる。
「……何を考えているんですか、私は」
誰も見ていないのに、遥は少し顔を伏せた。
けれど、分かってしまう。
これだけ助けられたら、何かを返したいと思うのは当然だ。
それは、ただの義理だけではない。
感謝でもある。
申し訳なさでもある。
そして、もっと奥の方にある、自分でもまだ名前をつけられない気持ちでもある。
今まで、何回助けられただろう。
遥は、机の前に座って、ゆっくり数えた。
はっきり助けられたと言えるもの。
細かいことまで入れていいのか迷うもの。
昌志本人は、たまたまだと言いそうなもの。
それでも、遥にとっては助けられたとしか思えないもの。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
「五回……」
声に出した瞬間、胸が苦しくなった。
五回も助けられている。
それなのに、自分はまだ一回も返していない。
ありがとうと言うことはできる。
でも、それだけだ。
それだけで返せるようなものではない。
どうすればいいのか。
どうすれば、昌志のために何かできるのか。
考えているうちに、遥は一つのことに気づいた。
机の上に置いていたスマホを手に取る。
連絡先を開く。
相沢圭佑。
この前、電話番号を交換した相手だ。
一度電話した時、圭佑はすぐに出てくれた。
今回のことも、何か知っているかもしれない。
遥は少し迷ってから、通話ボタンを押した。
呼び出し音は、長く続かなかった。
『はい、相沢です』
「あ、瑞美です。今、大丈夫ですか」
『大丈夫です。瑞美さんも、もう家ですか?』
「はい。今日は、ありがとうございました」
『いえ。俺は大したことしてないです。昌志が行くって言ったから、付き合っただけですし』
その言葉に、遥は少しだけ息を止めた。
「……昌志さんが、行くって言ったんですか」
『はい。最初は詳しいことは聞いてませんでした。夕方に少し付き合ってほしい、一人だと不安だって、それだけです』
「そう、なんですね」
『学校を出る時に、駅前公園へ行くとは聞きました。でも、そこで何があるのかまでは聞いてませんでした』
圭佑の声は、どこか複雑だった。
『だから、何かあるんだろうとは思ってました。でも、まさか本当に瑞美さんと加藤さんがいるとは思いませんでした』
「相沢さんは、まだ偶然だと思いますか」
遥がそう聞くと、電話の向こうで少し間が空いた。
『……正直、偶然だけで片づけるのは難しくなってきたと思ってます』
圭佑の声は、前よりも慎重だった。
『前に瑞美さんが言ってましたよね。昌志には、未来が見えているんじゃないかって』
「はい」
『今回のことだけ見れば、そう考えたくなる気持ちは分かります。あいつは、何かあると分かっていたみたいでした。だから俺を連れてきたんだと思います』
遥は、スマホを握る手に少し力を込めた。
「では、相沢さんもそう思うんですか」
『分かりません』
圭佑はすぐに答えた。
『本当に未来が見えているなら、もっと早く助けられたんじゃないかとも思うんです。今日だって、瑞美さんたちが男子高校生に囲まれる前に止めればよかったはずです』
「……そうですね」
『だから、全部が見えているわけじゃないのかもしれません。あるいは、見えていても細かいところまでは分からないのかもしれない』
「細かいところまでは、分からない……」
『ただ、何かを知っていたのは確かだと思います。あいつは、何もない場所に俺を連れていくようなやつじゃないので』
その言葉に、遥は小さく息を呑んだ。
未来が見えている。
そう決めつけるのは、まだ早い。
けれど、何も知らなかったとも思えない。
昌志は、何かを知っている。
そして、その何かを誰にも話していない。
「昌志さんが、相沢さんを頼ったことは、どう思いましたか」
『嬉しかったですよ』
「嬉しかった、ですか」
『はい。あいつ、あんまり人に頼らないので。危ないことなら余計に。だから、俺に一緒に来てくれって言ってくれたのは、正直嬉しかったです』
遥は、その気持ちが少し分かった。
自分も、昌志に頼られたいと思っている。
助けられるばかりではなく、何かを任せてほしいと思っている。
けれど、現実にはまだ何もできていない。
「では、今回は相沢さんが望んでいた通り、昌志さんの手助けができたんじゃないですか」
『……それが、そうでもないんです』
「そうでもない?」
『帰りに、昌志から言われたんです。お前の彼女が助かってよかった、って』
遥は、言葉を失った。
彼女。
親友の彼女。
それはつまり、自分のことだ。
『俺としては、あいつの役に立てたつもりだったんです。でも、あいつからすると、俺の彼女を助けたみたいになってるんですよ』
「……そうなりますね」
『だから、何というか。借りを返したつもりだったのに、また助けてもらったような形になったというか』
圭佑は、電話の向こうで苦笑したようだった。
『自分が助けたのか、助けてもらったのか、よく分からない感じになりました』
「すみません」
『いや、瑞美さんが謝ることじゃないです。そもそも、あの誤解をそのままにしているのは俺たちですし』
「はい……」
『ただ、あいつらしいとは思いました。自分が助けたことより、俺の彼女が無事だったことを先に考えるんですから』
その言葉に、遥は少しだけ胸が苦しくなった。
昌志は、また自分のことを後回しにしている。
そして、自分はまた助けられた側にいる。
「私は、助けられてばっかりです」
『そのうち、逆に頼られることもありますよ』
「そうでしょうか」
『あると思います。昌志は、たぶん自分で思ってるより無茶するやつなので』
その言い方は、親友のものだった。
呆れているのに、信頼している。
心配しているのに、突き放してはいない。
遥は少しだけ羨ましくなった。
「相沢さん」
『はい』
「少し、別の方向から昌志さんのことを知っていった方がいいのかもしれません」
『別の方向、ですか』
「はい。昌志さん本人に聞いても、たぶん話してくれません。だから、昌志さんに気づかれないように、別の友達から話を聞く方法があればと思って」
『それなら……鳴沢がいいかもしれません』
「鳴沢さん?」
『俺と昌志の友達です。最近は、俺より昌志と話してるかもしれません』
「そんな方がいるんですね」
『はい。あいつなら、昌志から何か聞いてる可能性があります。美月たちとも同じ文芸部なので、学校での昌志の様子も見てると思いますし』
文芸部。
美月。
そして、鳴沢。
遥の知らない場所で、昌志の周りには少しずつ人が増えている。
それはいいことのはずなのに、なぜか焦りに近いものを感じた。
「相沢さんが、その鳴沢さんに話を聞いてくださるんですか」
『そのつもりです。俺がまず話して、昌志のことで何か知らないか聞いてみます』
「私も、鳴沢さんと話してみたいです」
『瑞美さんもですか?』
「はい。昌志さんのことを知っている人なら、私も話を聞いてみたいです」
『分かりました。鳴沢と話してみます。三人で話せる場所を作れないか、こっちで調整します。昌志には分からないように』
「ありがとうございます」
『鳴沢は、たぶん瑞美さんとも話は合うと思いますよ。本が好きですし。昔から昌志と、そういう話をしていたみたいなので』
「昌志さんと……」
『今は、美月と鳴沢と昌志の三人でよく話してるみたいです。文芸部でも、その三人でいることが多いみたいで』
その言葉を聞いた瞬間、遥の胸の奥が少しざわついた。
美月。
相沢圭佑の妹。
昌志と同じ学校にいて、同じ文芸部にいて、鳴沢という友人とも一緒に話している。
遥の知らないところで、昌志の周りにはちゃんと居場所がある。
そう思っただけで、なぜか焦りに近いものが生まれた。
「美月さんは、本が好きなんですね」
遥がそう言うと、電話の向こうで圭佑が少し笑った。
『いや、あいつは本が好きなわけじゃないんですよ』
「え?」
『あいつが好きなのは、昌志です』
あまりにあっさり言われて、遥は言葉を失った。
『もちろん、本人に直接確認したわけじゃないですけど。兄である俺から見ると、そう見えます。美月が文芸部に入ったのも、たぶん本が読みたいからじゃなくて、昌志と同じ場所にいたいからです』
「……そう、なんですか」
『はい。昌志本人は全然気づいてませんけどね』
圭佑は笑っていた。
兄として少し呆れているような、でも妹を責めてはいないような声だった。
遥は、うまく笑えなかった。
美月は、昌志と同じ場所にいられる。
同じ学校で、同じ部活で、同じ本の話ができる。
それも、昌志本人は気づいていない。
気づいていないからこそ、たぶん自然に近くにいられる。
そのことが、遥には少し羨ましかった。
「……羨ましいです」
『え?』
「あ、いえ。今のは間違えました」
『……そうですか』
圭佑は、それ以上何も言わなかった。
何も言わないでいてくれた。
その沈黙が、少しありがたかった。
「でも、私も何もしないままではいたくありません」
『はい』
「昌志さんが何を隠しているのか、無理に暴きたいわけではないんです」
遥は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「でも、危ないことに関わっているなら、何か知っておきたいんです。今度は、助けられるだけじゃなくて、少しでも力になりたいので」
『分かります』
圭佑の声は、真面目だった。
『俺も同じです。あいつが話したくないなら、無理に聞くつもりはありません。でも、危ないことを一人で抱えてるなら、止めたいとは思ってます』
「はい」
『だから、鳴沢には俺から話してみます。瑞美さんと会わせられそうなら、連絡します』
「お願いします」
『こちらこそ。今日は本当に無事でよかったです』
「……はい。ありがとうございました」
通話を切ったあと、遥はしばらくスマホを見つめていた。
まだ手は少し震えている。
今日のことを思い出すと、怖い。
あいを巻き込んだことも、申し訳ない。
昌志にまた助けられたことも、情けない。
それでも。
何かが動き始めた気がした。
圭佑がいる。
鳴沢という人もいる。
そこから、昌志のことを少しでも知ることができるかもしれない。
昌志がどうして、あんなふうに助けに来るのか。
どうして、危ない場所に間に合ってしまうのか。
そして、自分はいつか、昌志に何かを返せるのか。
まだ分からない。
けれど、何もしないまま助けられ続けるのは嫌だった。
遥はスマホを机の上に置き、ゆっくり息を吐いた。
「今度は、私が……」
そこまで言って、言葉を止めた。
何ができるのかは分からない。
でも、何かしたい。
その気持ちだけは、もうごまかせなかった。




