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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第106話 七月八日の結果

 七月八日の夜。


 自分の部屋に戻ると、昌志は鞄を机の横に置いた。


 部屋の中は静かだった。


 階下からは、かすかに生活音が聞こえてくる。


 司の声はもう聞こえない。


 さっきまでリビングで話していたのに、部屋に戻ると、その会話が少し遠い出来事のように感じられた。


 昌志は机の前に座り、鞄から黒い本を取り出した。


 今日は、いろいろありすぎた。


 駅前公園。


 遥と加藤あい。


 男子高校生三人。


 入れなかったファミレス。


 帰り道の美月からのメッセージ。


 そして、家に帰ってからの司との会話。


 黒い本に書かれていた七月八日の予告は、すべて何らかの形で終わった。


 なら、結果が浮かび上がっているはずだった。


 昌志は小さく息を吐き、黒い本を開いた。


 七月八日のページには、すでに文字が浮かび上がっていた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――七月八日、夕方。


 駅前公園の、

 ベンチのある木立で、

 遥と加藤あいが、

 男子高校生三人に絡まれていた。


 昌志は、

 圭佑とともにそこへ向かった。


 昌志が声をかけると、

 男子高校生たちは、

 遥と加藤あいから手を離した。


 圭佑が前に出たことで、

 男子高校生たちはそれ以上近づかなかった。


 遥と加藤あいは、

 ひどい目に遭わずに済んだ。


 加藤あいは、

 昌志をまさやんと呼んだ。


 加藤あいは、

 昌志を白馬の王子様みたいだと言った。


 昌志は、

 それを受け入れなかった。


 けれど加藤あいは、

 楽しそうに笑っていた。


 遥は、

 昌志に礼を言った。


 昌志は、

 たまたまだと言った。


 遥も、圭佑も、加藤あいも、

 それをたまたまだとは思わなかった。


 ――七月八日、夕方。


 帰り道で、

 知らない男子生徒たちの言い争いは見なかった。


 昌志は、

 そこへ近づかなかった。


 知らないところで、

 言い争いはそのまま続いた。


 昌志は、

 その言い争いに巻き込まれなかった。


 ――七月八日、夜。


 家で、

 妹に話しかけられた。


 司は、

 不安になっていた。


 司は、

 昌志に嫌われていないかを確かめた。


 司は、

 昌志に警戒されていないかを確かめた。


 司は、

 勝手に部屋へ入ったことを謝った。


 司は、

 文芸部のことで何度も口を出したことを謝った。


 司は、

 昌志を嫌っていないと言った。


 司は、

 昌志を心配していただけだと言った。


 昌志は、

 司を嫌っていないと言った。


 昌志は、

 司を警戒していないと言った。


 司は、

 少しだけ安心した。


 司は、

 明日からは変なことをしないようにすると言った。


 昌志と司は、

 少しだけいつもの兄妹に戻った。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、黒い本の文章をじっと見つめていた。


 やっぱり、全部書かれている。


 駅前公園でのことも。


 加藤あいに変な呼び方をされたことも。


 白馬の王子様みたいだと言われたことも。


 ファミレスに入れなかった後のことまでは細かく書かれていないが、遥と加藤あいが助かったことは、はっきり書かれている。


 そして、司との会話も。


 司が何を不安に思っていたのか。


 昌志が何を言ったのか。


 司が少し安心したことまで、黒い本には書かれていた。


「……気持ち悪いな」


 昌志は小さくつぶやいた。


 今さらだった。


 今さらなのに、やっぱり気持ち悪い。


 自分がしたこと。


 自分が言ったこと。


 相手が思っていたこと。


 それが、終わったあとに文章として浮かび上がる。


 まるで、自分の一日を誰かが見ていて、勝手に記録しているみたいだった。


 いや。


 見ているだけではない。


 黒い本は、あらかじめ予告している。


 起こるかもしれないことを先に書き、その後に結果を書く。


 昌志は、その間を選ばされている。


 そう思うと、背中のあたりが冷たくなった。


 七月八日の予告は、三つあった。


 一つ目は、駅前公園。


 二つ目は、知らない男子生徒たちの言い争い。


 三つ目は、家で妹に話しかけられること。


 駅前公園では、遥と加藤あいを助けた。


 言い争いには近づかなかった。


 司には普通に答えた。


 選んだものも、選ばなかったものも、結果として残っている。


 自分が見なかった場所で、言い争いは続いたらしい。


 そのことまでも、黒い本には書かれている。


「見なかったから、なかったことになるわけじゃないんだな」


 昌志は、そうつぶやいた。


 少し嫌な言葉だった。


 自分が助けたもの。


 自分が避けたもの。


 自分が関わらなかったもの。


 全部が、どこかで結果になっている。


 それを黒い本は淡々と書いてくる。


 昌志はページを閉じようとして、もう一度、駅前公園の部分を見た。


 遥と加藤あい。


 結果の中では、二人の名前が出ている。


 昨日の予告では、彼女と女子高生と書かれていた。


 実際にそこにいたのは、遥と加藤あいだった。


 彼女。


 女子高生。


 黒い本は、どういう基準でそう書いていたのだろう。


 考えても、答えは分からなかった。


 ただ、昨日の予告で彼女と書かれていた方は、たぶん遥だったのだろう。


 加藤あいは、昨日の時点では女子高生と書かれていた。


 そのくらいしか、今の昌志には考えられなかった。


 黒い本を閉じる。


 まだ、午前零時にはなっていない。


 次の日の予告が出るのは、もう少しあとだ。


 それまでの時間、昌志は何をするでもなく過ごした。


 夕食を食べ、風呂に入り、部屋へ戻る。


 司は、もう朝のように変なことはしなかった。


 お茶を冷まそうともしない。


 お菓子を並べることもない。


 ただ、いつもより少しだけ、昌志を見る目が柔らかかった。


 それが安心するような、落ち着かないような、よく分からない感じだった。


 昌志は部屋に戻り、ベッドに座った。


 スマホを見ると、美月からのメッセージが残っていた。


『待ってます』


 その短い言葉を、昌志はもう一度見た。


 明日は文芸部の日だ。


 行くと返事をしたわけではない。


 たぶん行くと思う。


 そう返しただけだ。


 けれど、美月は待っていると言った。


 それを無視するのは、少し難しかった。


 昌志はスマホを伏せ、机の上の黒い本を見た。


 次の予告に、何が書かれるのか。


 それが分かるまで、落ち着かなかった。


 黒い本がない方が普通だったはずなのに。


 今は、黒い本を確認しないまま眠ることの方が怖い。


 そんな自分に気づいて、昌志は少しだけ嫌になった。


 *


 午前零時を過ぎた。


 昌志は机の前に座り、黒い本を開いた。


 七月九日のページに、黒い文字が浮かび上がっていく。


 昌志は、息を止めるようにしてそれを見つめた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――七月九日、夕方。


 彼女が、

 昌志にどうしても会いたいと思っている。


 彼女は、

 昨日の礼を言いたいと思っている。


 昌志が会えば、

 彼女は少しだけ安心する。


 昌志が会わなければ、

 彼女はしばらく昌志を探す。


 ――七月九日、夕方。


 帰り道で、

 知らない男子生徒たちの言い争いを見る。


 昌志が近づけば、

 その言い争いに巻き込まれる。


 昌志が近づかなければ、

 言い争いはそのまま続く。


 ――七月九日、夜。


 帰り道で、

 誰かに後をつけられる。


 昌志が振り返れば、

 その誰かは人混みに紛れる。


 昌志が振り返らなければ、

 その誰かは家の近くまでついてくる。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、しばらく何も言えなかった。


 三つ。


 また、三つだ。


 しかも、どれも夕方以降の話だった。


 一つ目は、彼女が礼を言いたいと思っているというもの。


 二つ目は、知らない男子生徒たちの言い争い。


 三つ目は、誰かに後をつけられること。


 昌志は一つ目の文章に視線を戻した。


 彼女。


 昨日の予告にも、その言葉は出ていた。


 駅前公園で絡まれていたのは、彼女と女子高生。


 実際にそこにいたのは、遥と加藤あいだった。


 なら、彼女は遥のことだろう。


 加藤あいは、昨日の予告では女子高生と書かれていた。


 助けられた彼女が礼を言いたい。


 そう考えれば、遥しかいないように思える。


 けれど、はっきりとは言い切れない。


 黒い本の言葉は、いつも同じとは限らない。


 それに、加藤あいも昨日、昌志と関わった。


 次に書かれる時も、女子高生のままなのかどうかは分からない。


 昌志は、もう一度、一つ目の文章を読み返した。


 会えば、少しだけ安心する。


 会わなければ、しばらく昌志を探す。


 ひどい目に遭うわけではない。


 殴られるわけでも、巻き込まれるわけでもない。


 それだけ見れば、まだましな予告に見えた。


 けれど、安心できなかった。


 二つ目は、昨日も出ていた言い争いに似ている。


 近づけば巻き込まれる。


 近づかなければ続く。


 昨日は見なかった。


 今日もまた出ている。


 昨日の出来事が、そのままどこかで残っているようで嫌だった。


 三つ目は、もっと嫌だった。


 誰かに後をつけられる。


 振り返れば、人混みに紛れる。


 振り返らなければ、家の近くまでついてくる。


 相手が誰なのか分からない。


 何のためについてくるのかも分からない。


 それが一番気持ち悪かった。


「……どうしろっていうんだよ」


 昌志は小さくつぶやいた。


 夕方に、彼女に会う。


 それは、たぶん悪いことではない。


 けれど、その後の帰り道で言い争いを見るかもしれない。


 さらに夜には、誰かに後をつけられるかもしれない。


 どこへ行けばいいのか。


 何を避ければいいのか。


 どれを選べばいいのか。


 黒い本は、答えまでは教えてくれない。


 ただ、選ばせるだけだ。


 昌志は黒い本を閉じた。


 机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。


 今日、木曜日は文芸部の日だ。


 美月は待っていると言った。


 彼女は、昌志にどうしても会いたいと思っている。


 それが遥なのか、別の誰かなのか。


 はっきりしないまま、七月九日が始まろうとしていた。

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