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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第105話 四人の帰り道

 七月八日の夕方。


 駅前公園を出た四人は、近くのファミレスへ向かった。


 加藤あいが言い出したことだった。


 少し落ち着きたい。


 お礼もしたい。


 そう言われると、昌志も強く断れなかった。


 ただ、店の前に着いてすぐに、予定は崩れた。


「満席みたいですね」


 遥が店内を見て言った。


 入口近くには、順番待ちの客が何組かいた。


 加藤あいが店の中へ入り、すぐに戻ってくる。


「だめみたいです。四人だと、しばらく席ないって言われました」


「そうか」


 昌志は少しだけほっとした。


 ファミレスに入れば、きっとまたいろいろ聞かれる。


 さっきのこと。


 なぜ助けに来られたのか。


 なぜ駅前公園にいたのか。


 そのあたりを聞かれても、昌志には答えようがない。


 店に入れなかったのは、少し都合がよかった。


 四人はファミレスの前から少し離れ、駅前の歩道脇に立った。


 夕方の人通りは多い。


 駅へ向かう人。


 買い物帰りの人。


 制服姿の生徒。


 その中に紛れてしまえば、さっきの出来事も少し遠く感じた。


 昌志はスマホで時刻を確認する。


 もう五時半を過ぎていた。


「今日はもう遅いし、解散でいいんじゃないか」


「えー」


 加藤あいが不満そうな顔をした。


「まさやんとけいちゃんに、お礼したかったんですけど」


「けいちゃん?」


 圭佑が眉を動かした。


「俺のことか?」


「そうです。可愛いでしょ」


「可愛いかどうかは知らない」


「じゃあ、けいすけさん?」


「普通に相沢でいい」


「つまんないですね」


 加藤あいはそう言って笑った。


 圭佑は困ったように黙る。


 昌志はその様子を横目で見ながら、軽く手を振った。


「お礼とかはいいよ。たまたま助けられただけだし」


「たまたまって、まだ言うんですか」


「実際、たまたまだろ」


「全然たまたまに見えませんでしたけど」


「声が聞こえたから行っただけだよ。何もしてない」


「いや、してましたよ」


 加藤あいははっきり言った。


「二人とも、助けてくれました」


「無事だったなら、それでいいよ」


 昌志がそう言うと、加藤あいは少し目を丸くした。


「すごいですね」


「何が?」


「みつみんが言ってた通りです」


 昌志は遥を見る。


 遥は少しだけ困ったように視線をそらした。


「どういうこと?」


「人を助けても、威張らないし、お礼も求めないんだって」


「そんな話してたのか」


「してました」


 加藤あいはあっさり頷いた。


「すごい美点なんですけど、悪いところでもあるって」


「悪いところ?」


 昌志が聞き返すと、遥が小さく息を吐いた。


「ここでは話しづらいです」


「そうか」


「帰りながら、あいさんには話します」


「え、私にですか?」


「はい。あいさんには、少し説明しておいた方がいいと思います」


 加藤あいはぱっと顔を明るくした。


「じゃあ、みつみんと一緒に帰りながら、まさやんのこといろいろ教えてください」


「俺のことは教えなくていい」


「大丈夫です。勝手に聞きます」


「大丈夫じゃないだろ」


 昌志が嫌そうな顔をすると、加藤あいは楽しそうに笑った。


 圭佑が昌志を見る。


「どうする?」


「俺は一人で帰る」


「いいのか?」


「ああ。圭佑は二人を途中まで送ってやってくれよ」


 昌志は遥と加藤あいを見る。


「さっきのこともあるし、二人だけで帰すのは少し気になる」


「分かった」


 圭佑はすぐに頷いた。


「途中まで送る」


「ありがとうございます、けいちゃん」


「相沢でいい」


「じゃあ、相沢さん」


 加藤あいはあっさり言い直した。


 遥も頭を下げる。


「お願いします」


「はい」


 圭佑は少しだけ真面目な顔で答えた。


「じゃあ、また」


 昌志が言うと、遥がこちらを見る。


「昌志さん」


「何?」


「今日は、本当にありがとうございました」


「だから、たまたまだって」


「それでもです」


 遥は静かに言った。


「ありがとうございました」


 加藤あいも続ける。


「まさやん、ありがとうございました」


「だから、その呼び方」


「慣れてください」


「慣れたくない」


 加藤あいは笑った。


 その笑い声を聞きながら、昌志は三人と別れた。


 一人で家の方へ歩き出す。


 駅前の通りを抜け、人通りが少しずつ減っていく。


 昌志は歩きながら、今日のことを思い返していた。


 圭佑には、たぶんいろいろ感づかれた。


 遥も同じだ。


 加藤あいも、たまたまだとは思っていない。


 自分の言い訳は、あまり通じていない。


 それでも、仕方がなかった。


 二人は無事だった。


 遥も加藤あいも、ひどい目に遭わずに済んだ。


 黒い本に書かれていたことは避けられた。


 それだけでいい。


 何かを疑われても、今はそれで構わない。


 昌志はそう思うことにした。


 帰り道の途中で、スマホが震えた。


 美月からだった。


『明日は部活の日なので、ぜひ来てください』


 短い文章だった。


 けれど、文面だけで、美月が少し楽しみにしているのが分かる気がした。


 昌志は少し迷ってから返事を打った。


『たぶん行くと思う』


 すぐに返事が来る。


『待ってます』


 昌志はスマホを見つめた。


 待っている。


 その言葉が、少しだけ胸に残った。


 行けば、美月は喜ぶ。


 雪もいるかもしれない。


 文芸部の部室で、本の話をする。


 それは悪いことではないはずだ。


 少なくとも、普通なら。


 昌志はスマホをしまい、家へ向かった。


 *


 家に帰ると、司がリビングにいた。


 その姿を見た瞬間、昌志は黒い本の文章を思い出した。


 夜、家で妹に話しかけられる。


 普通に答えれば、妹は少しだけ安心する。


 避ければ、何かを隠されていると思う。


 駅前公園のことは終わった。


 商店街の言い争いには近づかなかった。


 あとは、この予告だけだった。


 昌志は、リビングにいる司を見ながら、少しだけ身構えた。


 朝とは違って、妙に背筋を伸ばしているわけではない。


 お菓子の皿もない。


 湯のみをふうふう冷まそうともしていない。


 けれど、昌志を見ると、司は少しだけ迷うような顔をした。


 けれど、昌志を見ると、少しだけ迷うような顔をした。


「おかえり、お兄ちゃん」


「ああ。ただいま」


 昌志はそのまま階段へ向かおうとして、足を止めた。


 司が、こちらを見ていた。


 何か言いたそうだった。


 黒い本に書かれていたことを思い出す。


 家で、妹に話しかけられる。


 普通に答えれば、妹は少しだけ安心する。


 避ければ、何かを隠されていると思う。


 昌志は一度だけ息を吐いた。


「何かあるのか?」


 そう聞くと、司は少しだけ目を伏せた。


「……昨日、少し不安になったの」


「不安?」


「うん」


 司は小さく頷いた。


「お兄ちゃん、私のこと、嫌ってないよね」


 昌志はすぐに答えられなかった。


 予想していない言葉だった。


 司は続ける。


「警戒してるわけでも、ないよね」


「警戒って」


「私、勝手に部屋に入ったし。文芸部のことも、何度も言ったし。お兄ちゃんの気持ちを考えずに、いろいろ言いすぎたと思う」


 司の声は、いつもより少し弱かった。


「だから、今日は……その、お詫びのしるしというか」


「お詫び?」


「勝手に部屋に入ったこととか、いろいろ迷惑をかけたこととか」


 司はそこで少し言葉を詰まらせた。


「許してほしかったの」


 昌志は黙った。


 朝の司を思い出す。


 お兄様と呼ばれたこと。


 お菓子を並べられたこと。


 熱いお茶をふうふう冷まされたこと。


 食べさせてあげると言われたこと。


 セーラー服を自分から見せてきたこと。


 正直、何が何だか分からなかった。


 けれど、それが全部、司なりの謝罪だったのだとしたら。


 変ではあった。


 でも、悪いものではなかったのかもしれない。


「俺も」


 昌志は少しだけ視線をそらした。


「いろいろ言いすぎたかもしれない」


「お兄ちゃんが?」


「ああ。司の気持ちを考えずに、面倒くさいとか、放っておいてほしいとか、そういう態度を取ってたと思う」


「……そうかな」


「そうだろ」


 昌志は苦笑した。


「今日の朝のことは、正直よく分からなかったけど」


「それは忘れて」


「忘れるのは難しい」


「忘れて」


「無理だろ。熱いからって、ふうふうされたんだぞ」


 司の顔が一気に赤くなった。


「それは、もういいでしょ」


「よくはないだろ」


「あんなこと、いつもしないから」


「それは分かる」


「分かってるなら言わないで」


 司は少しだけむっとした顔をした。


 その顔は、朝よりずっといつもの司に近かった。


 昌志は少し安心する。


「まあ、圭佑にも言われたんだ」


「相沢さんに?」


「ああ。悪い方に変わったわけじゃないなら、少し様子を見てもいいんじゃないかって」


「……そう」


「だから、今日は別に何か言うつもりはなかった」


「本当に?」


「ああ。よく分からないとは思ってたけどな」


「それは言わなくていい」


「悪い」


 昌志が言うと、司は少しだけ息を吐いた。


「私は、お兄ちゃんのこと嫌ってないから」


「ああ」


「心配してただけだから」


「分かった」


「だから、お兄ちゃんも、私のこと嫌わないで」


 昌志は少しだけ目を細めた。


 司がそんなことを言うとは思わなかった。


 けれど、言葉にしてもらえると、胸の奥に引っかかっていたものが少しだけ軽くなった。


「嫌ってないよ」


 昌志は言った。


「警戒も、してない」


「本当?」


「ああ」


「そっか」


 司は小さく頷いた。


 その顔は、少しだけ安心したように見えた。


 黒い本に書かれていた通りだ。


 妹は少しだけ安心する。


 そう思った瞬間、昌志は少しだけ嫌になった。


 でも、今の言葉が嘘ではないことも確かだった。


「じゃあ、明日からは、変なことはしないようにする」


「変なこと?」


「うん」


「戻るのか」


「戻る。たぶん」


「たぶんか」


「すぐには無理かもしれないけど、朝みたいなことはしない」


「そうか」


 昌志は少しだけ考えたあと、わざと言った。


「少し残念だな」


「何が」


「いや。お菓子とか」


「作らない」


「お茶とか」


「冷まさない」


「食べさせてくれるのは?」


「絶対にしない」


 司は即答した。


 顔がまだ少し赤い。


「あんなこと、いつもしないから」


「分かったよ」


「本当に分かった?」


「分かった」


 昌志がそう言うと、司はようやく少しだけ笑った。


 朝の作ったような笑顔ではない。


 いつもの司に近い、少しだけ呆れたような笑い方だった。


「お兄ちゃん」


「何だよ」


「明日からは、ちゃんと普通にするから」


「ああ」


「でも、嫌ってないから」


「分かってる」


「それならいい」


 司はそう言って、リビングへ戻っていった。


 昌志は階段の前でしばらく立っていた。


 今日の司は、最後までよく分からなかった。


 けれど、少なくとも一つだけ分かったことがある。


 司は、昌志を嫌っていたわけではない。


 昌志も、司を嫌っていたわけではない。


 それだけ分かれば、今夜は十分なのかもしれない。


 昌志は小さく息を吐き、自分の部屋へ向かった。

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