第104話 駅前公園
七月八日の放課後。
教室の中が、帰り支度をする生徒たちの声でざわつき始めた。
昌志は鞄を持ち、圭佑の席へ向かった。
圭佑はすでに鞄を肩にかけていた。
朝、昌志が頼んだことを覚えていたのだろう。
いつものように面倒くさそうな顔ではなく、少しだけ気合いの入った顔をしている。
「圭佑」
「ああ」
「悪い。付き合ってくれ」
「分かってる」
圭佑は短く答えた。
二人は教室を出た。
廊下を歩き、昇降口で靴を履き替える。
校舎を出て、校門を抜けたところで、圭佑がようやく口を開いた。
「それで、どこへ行くんだ?」
昌志は一瞬だけ迷った。
朝の時点では、行き先も理由も言っていない。
けれど、ここまで来たら、行き先だけは言わないわけにはいかなかった。
「駅前公園」
「駅前公園?」
「ああ」
「理由は?」
昌志は答えに詰まった。
何があるのか。
正確には、昌志にも分からない。
ただ、黒い本に書かれていた。
近くの公園。
ベンチのある木立。
彼女と女子高生。
男子高校生数人。
助けなければ、ひどい目に遭う。
それだけだった。
けれど、それをそのまま圭佑に話すわけにはいかない。
「まだ、言えない」
昌志がそう言うと、圭佑は少しだけ黙った。
「行き先は言えるけど、理由は言えないのか」
「ああ」
「なるほどな」
「悪い」
昌志は圭佑を見る。
「それでも、付き合ってくれないか」
圭佑は少しだけ呆れたように息を吐いた。
「当たり前だろ」
「いいのか?」
「いいに決まってる。朝からそのつもりでいた」
圭佑はまっすぐ昌志を見る。
「俺は、お前の役に立つために来たんだ」
「いや、そこまで熱くならなくても」
「なるだろ」
「ならないだろ、普通」
「俺はなる」
圭佑はきっぱり言った。
「お前には借りがある。美月のことも、昨日のこともそうだ。いつ返せるかと思ってた」
「だから、大げさなんだよ」
「大げさじゃない」
圭佑は昌志の横に並んだ。
「今回は、お前が俺を頼った。だったら俺は、お前に借りを返すために行く」
「借りを返すためって」
「駅前公園でも、他の場所でも同じだ。お前が一人じゃ不安だって言うなら、俺は付き合う」
昌志は少しだけ圧倒された。
頼んだのは自分だ。
それなのに、ここまでまっすぐ返されると、逆にどう反応すればいいのか分からない。
「……そうか」
「ああ」
圭佑は迷わず頷いた。
「だから行くぞ。駅前公園だろ」
「ああ」
二人は駅前公園へ向かって歩き出した。
学校から歩いて行ける距離にある、木の多い公園だった。
特別遠いわけではない。
けれど、そこまでの道のりは、いつもより少し長く感じた。
二人の間に、会話はあまりなかった。
昌志は前を見ながら歩いていた。
頭の中では、昨夜の黒い本の文章を何度も思い返している。
近くの公園。
ベンチのある木立。
公園と言われて、まず思い浮かぶのは駅前公園だった。
学校からも駅からも近い。
木も多く、ベンチもある。
黒い本の書き方がぼやけているとはいえ、条件には合っていた。
ただ、誰が来るのかはまだ分からない。
彼女。
女子高生。
それが誰を指しているのか。
遥なのか。
美月なのか。
雪なのか。
あるいは、まったく別の誰かなのか。
考えても答えは出なかった。
横を歩く圭佑も、黙っている。
何か聞きたいことはあるはずだった。
けれど、圭佑はそれを飲み込んでいるように見えた。
昌志はその横顔を見て、少しだけ申し訳なくなった。
何も説明していない。
それでも、圭佑は来てくれている。
だからこそ、失敗できないと思った。
駅前公園の南口に着いた。
入口から中を見ると、夕方の公園には人がちらほらいた。
親子連れ。
犬の散歩をしている人。
学校帰りらしい生徒。
中央には小さな噴水と広場があり、その周囲をつぶれた卵のような形の道が囲んでいる。
さらにその外側にも歩道があり、木が多いせいで、見通しはそこまでよくない。
圭佑が昌志を見る。
「どうするんだ」
昌志は一瞬黙った。
黒い本の文章を思い出す。
ベンチのある木立。
手がかりは、それしかない。
「この公園って、ベンチはどの辺にあった?」
「ベンチ?」
「ああ」
「二か所くらいはあると思うが」
圭佑は公園の中を見た。
「とりあえず、ベンチがあるところまで行ってみるか」
「頼む」
「こっちに一つあったはずだ」
圭佑は入口から左側へ歩き出した。
昌志もそれに続く。
二人は外側の道を回るように歩いた。
公園は大きすぎるわけではない。
けれど、小さな公園というほどでもない。
木が生い茂っているところが多く、少し進むだけで視界が区切られる。
中央の噴水広場から離れると、人の声も少し遠くなった。
南口から入って左へ回り、北口の方へ向かう途中で、一つ目のベンチが見えた。
木の下に置かれている。
だが、そこには誰もいなかった。
「違うか」
圭佑が言った。
「たぶん」
「もう一つ、向こうにもあったはずだ」
「詳しいな」
「たまに来るからな」
「公園に?」
「別にいいだろ」
圭佑は少しだけ気まずそうに言った。
「夏前は、木陰がちょうどいいんだよ。少し座るには」
「なるほど」
「何だよ」
「いや。意外と公園使いこなしてるなって」
「うるさい」
そんな短いやり取りをしながら、二人はもう一つのベンチがある方へ向かった。
木が少し濃くなっている。
道の先が、枝葉の影で少し暗く見えた。
その時だった。
「やめてください」
女の子の声が聞こえた。
昌志は足を止めた。
聞き覚えのある声だった。
加藤あいの声。
続いて、別の男子の声が聞こえた。
「いいじゃん。どうせ暇なんだろ」
「ずっと二人でうろうろしてたじゃん」
「ちょっと付き合えよ」
昌志と圭佑は顔を見合わせた。
次の瞬間、昌志は走り出していた。
圭佑もすぐに続く。
木立の向こう。
ベンチの近くに、遥と加藤あいがいた。
二人を囲むように、男子高校生が三人いる。
一人が遥の手首をつかんでいた。
もう一人が、加藤あいの腕をつかんでいる。
残りの一人は、逃げ道をふさぐように立っていた。
黒い本の文章が、昌志の頭の中で重なる。
彼女と女子高生。
男子高校生数人。
やっぱり。
「圭佑」
「ああ」
「行くぞ」
「分かってる」
圭佑の声には、驚きよりも怒りが混ざっていた。
昌志は男子高校生たちに向かって声を上げた。
「何やってるんだ」
三人がこちらを見る。
遥と加藤あいも、同時に顔を上げた。
「昌志さん」
「まさやん!」
加藤あいが叫ぶように言った。
圭佑が一瞬だけ昌志を見る。
「まさやん?」
「俺のことらしい」
「いつの間にそんな呼び方に」
「俺もよく分かってない」
男子高校生の一人が舌打ちした。
「何だよ。男いるのかよ」
「暇そうだったから声かけただけだろ」
「めんどくさ」
遥の手をつかんでいた男子が、乱暴に手を離した。
加藤あいの腕をつかんでいた男子も、すぐに離す。
圭佑が一歩前に出た。
「声をかけただけで、手首をつかむのか」
「うるせえな」
「行こうぜ」
三人は文句を言いながら、早足で離れていった。
途中からほとんど小走りになる。
喧嘩にはならなかった。
昌志は、胸の奥で大きく息を吐いた。
よかった。
殴り合いにならなかった。
遥も加藤あいも無事だった。
それだけで、少し力が抜けそうになる。
「大丈夫?」
昌志が聞くと、遥はつかまれていた手首を押さえながら頷いた。
「はい。大丈夫です」
「加藤さんは?」
「大丈夫です。ちょっと怖かったですけど」
加藤あいはそう言ったあと、急に表情を明るくした。
「でも、本当に来たんですね」
「え?」
「あ、こっちの話です。まさやんって、ほんとにいいところで来ますよね」
昌志は一瞬、言葉に詰まった。
「いや、たまたま通りかかっただけだから」
「たまたま?」
「声が聞こえたんだよ。それで、偶然助けられただけ」
昌志はそう言った。
圭佑と遥が、ほんの一瞬だけこちらを見る。
たまたまではない。
少なくとも、そう思っている顔だった。
けれど、二人とも何も言わなかった。
「ほんとすごいですよ、まさやん」
「まさやんはやめてくれ」
「白馬の王子様みたいですよね」
「今どき白馬の王子様って」
圭佑が思わず言った。
「いいじゃないですか。特別扱いしてくれて、安心させてくれて、退屈な日常まで変えてくれる人って感じで」
「それは王子様なのか? ただのスパイスでは?」
「細かいですね。じゃあ、スパイスのような人で」
加藤あいは軽く笑った。
「俺、香辛料なのか」
「刺激はありましたよ」
「褒められてる気がしない」
昌志は困ったように顔をそらす。
「とにかく、ここは離れよう。あいつらが戻ってこないとも限らないし」
「そうですね」
遥が頷く。
「私も、その方がいいと思います」
「圭佑」
「ああ」
四人はベンチのある木立から離れ、公園の外側の道へ戻った。
加藤あいはまだ少し興奮しているらしく、昌志に話しかけ続けていた。
「でも、本当にいいところで来ましたよね。どうして分かったんですか?」
「だから、たまたまだって」
「たまたまにしては完璧すぎません?」
「そんなことない」
「ありますよ。完全に助けに来た人のタイミングでした」
「偶然だよ」
昌志ははぐらかす。
加藤あいは納得していないようだったが、それ以上強くは聞かなかった。
圭佑と遥は、何か言いたげだった。
けれど、昌志が何も説明しないからか、二人ともその場では深く踏み込んでこなかった。
公園の南口が見えてきた。
外の通りに出ると、加藤あいがくるりと振り返った。
「このまま帰るのも何ですし、またファミレス行きません?」
「また?」
昌志が聞き返す。
「はい。助けてもらったお礼もしたいですし。ちょっと落ち着きたいですし」
「お礼とかは別に」
「じゃあ、落ち着くためです」
加藤あいはそう言って、遥の方を見た。
「みつみんもいいよね?」
「私は大丈夫です」
遥は頷いた。
圭佑も、少し考えてから言った。
「俺も行く」
「じゃあ決まりですね」
加藤あいが明るく言った。
昌志は少しだけ迷った。
けれど、このまま二人を帰すのも気になった。
さっきまで男子高校生に絡まれていたのだ。
少し落ち着ける場所へ行くのは悪くない。
「分かった。少しだけな」
「やった」
加藤あいは嬉しそうに笑った。
疑問は残っている。
圭佑にも、遥にも、何も説明できていない。
昌志自身も、黒い本がどうしてここまで当てたのか、まだ何も分かっていない。
それでも、遥と加藤あいは助かった。
今は、それだけでいいことにしたかった。
四人は、駅前のファミレスへ向かうことになった。
夕方の駅前通りを、昌志たちは並んで歩き出した。




