第103話 確認する
七月八日の昼休み。
昼休みになると、教室の中が一気に騒がしくなった。
弁当を広げる者。
購買へ向かう者。
机を寄せて話し始める者。
いつもの昼休みだった。
けれど、昌志はすぐには弁当を出さなかった。
鞄の中に手を入れる。
指先が、黒い本の表紙に触れた。
硬い。
冷たい。
ただの本のはずなのに、触れるたびに少しだけ息が詰まる。
昌志は周囲を確認してから、机の下で黒い本を開いた。
もう何度も見たはずの七月八日の欄を、もう一度確認する。
夕方の予告は二つあった。
一つは、商店街の方。
知らない男子生徒たちが言い争いをしている。
近づけば止められるかもしれないが、巻き込まれるかもしれない。
もう一つは、公園の方。
彼女と女子高生が、男子高校生数人に絡まれている。
助けなければ、ひどい目に遭う。
昌志は本を見下ろしたまま、少しだけ唇を噛んだ。
同じ夕方に二つ。
両方を確かめるのは無理だ。
商店街の方も気にはなる。
けれど、そちらは近づけば巻き込まれるかもしれないと書かれていた。
もちろん、無視していいとは思わない。
でも、もう一つの方は違う。
公園の方は、はっきり事件に近い。
誰かが転ぶとか、物を落とすとか、そういうものではない。
男子高校生数人に絡まれる。
助けなければ、ひどい目に遭う。
その言葉を見てしまった以上、そちらを後回しにはできなかった。
だから、夕方に行くなら公園の方だ。
商店街は、たぶん無理だ。
昌志はそう決めるしかなかった。
圭佑には、朝のうちに頼んである。
今日の夕方、少し付き合ってほしい。
詳しいことは言えない。
一人だと不安だから。
言えたのは、それだけだった。
場所も、理由も、黒い本に書かれていた内容も言っていない。
それでも、圭佑は付き合うと言ってくれた。
今できる準備としては、それで十分なのかもしれない。
本当は、もっとちゃんと説明できればいい。
でも、できない。
黒い本のことをどこまで話していいのか、昌志自身にもまだ分からない。
予告の内容をそのまま口に出してしまえば、それはもうただの相談では済まない気がした。
昌志はページを戻そうとして、別の予告に目を止めた。
夜。
家で、妹に話しかけられる。
昌志は小さく息を吐いた。
司のことも、考えなければならない。
朝の司は、明らかに変だった。
お菓子を作る。
お茶を冷ます。
食べさせようとする。
セーラー服を自分から見せる。
いつもありがとうと言う。
悪いことをされたわけではない。
むしろ、たぶん優しくしようとしていた。
圭佑も、悪い方に変わったわけではないなら、少し様子を見てもいいと言っていた。
それは、たぶん正しい。
今すぐ問い詰めるよりは、少し放っておいた方がいい。
変に騒げば、また余計にこじれるかもしれない。
ただ、夜に何か聞かれる可能性はある。
その時に、露骨に避けないようにする。
変な顔をしすぎない。
できるだけ普通に答える。
心構えだけはしておいた方がいい。
普通に答える。
それが一番難しい気もした。
昌志は黒い本を閉じようとして、もう一度だけ夕方の欄を見た。
彼女と女子高生。
その言い方が、どうしても引っかかる。
女子高生は、女子ではないのか。
いや、女子高生も女子だ。
それなのに、黒い本はわざわざ分けて書いていた。
彼女と女子高生。
彼女。
女子高生。
その違いに、意味があるのか。
それとも、昌志が気にしすぎているだけなのか。
「何してるんだ?」
声がして、昌志は反射的に黒い本を閉じた。
顔を上げると、圭佑が立っていた。
「別に」
「別にって顔じゃないぞ」
「そうか?」
「ああ。難しい顔してた」
圭佑は昌志の机の横に立ったまま、手に持った弁当袋を軽く持ち上げる。
「昼飯、食いに行こうぜ」
「ああ」
昌志は黒い本を鞄に戻した。
立ち上がろうとして、ふと圭佑を見る。
「圭佑」
「何だ?」
「女子と女子高生って、何が違うと思う?」
圭佑は動きを止めた。
それから、怪訝そうに昌志を見た。
「……何だそれ」
「いや、ちょっと気になっただけだ」
「謎かけか?」
「違う」
「女子高生も女子だろ」
「そうだよな」
「何を確認してるんだよ」
「俺も分からない」
「分からない質問をするな」
圭佑は呆れたように笑った。
昌志も、少しだけ苦笑する。
やっぱり、そうだ。
女子高生も女子だ。
それなのに、黒い本はわざわざ分けて書いていた。
彼女と女子高生。
その言い方が、どうしても引っかかる。
「お前、たまに変なこと聞くよな」
「たまにか?」
「わりと」
「それは悪かったな」
「別に悪くはない」
圭佑はそう言って、教室の出口の方へ顎を向けた。
「行くぞ。昼飯食う時間なくなる」
「ああ」
昌志は弁当を持って立ち上がった。
実際に夕方、何が起きるのかは分からない。
予告の場所が本当に公園なのかも、そこにいるのが誰なのかも、まだ分からない。
商店街の方を放っておいていいのかも、本当は分からない。
それでも、全部を選ぶことはできない。
なら、今できることをするしかない。
夕方には、圭佑が一緒に来てくれる。
一人ではない。
二人なら、何とかなるかもしれない。
そう思えるだけでも、朝よりは少しだけましだった。
昌志は圭佑と並んで、昼飯を食べに教室を出た。




