第102話 何でも言え
七月八日の朝。
学校に着いた昌志は、教室に入るなり圭佑を探した。
圭佑はもう来ていた。
自分の席に座って、スマホを見ている。
いつも通りの顔だった。
少なくとも、昨夜なかなか眠れず、今朝は妹の様子に振り回された昌志とは違う。
昌志は鞄を机に置き、そのまま圭佑の席へ向かった。
「圭佑」
「おう。どうした?」
「妹がおかしくなった」
圭佑は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し笑った。
「いきなり何だよ」
「笑うな。真面目な話だ」
「いや、悪い。妹がおかしくなったって言われたら、普通は笑うだろ」
「笑えないんだよ」
「何があった?」
圭佑はまだ少し笑っていた。
昌志は今朝のことを順番に話した。
リビングに入ったら、司が妙に丁寧な声で挨拶してきたこと。
いきなり「お兄様」と呼ばれたこと。
朝食の横に、大量の菓子が並んでいたこと。
父の分はなかったこと。
『いつもありがとう』と突然言われたこと。
それから、いつもなら見ているだけで怒るセーラー服を、自分からひらりと見せてきたこと。
話しているうちに、昌志自身も改めて思った。
やっぱりおかしい。
どこを切り取っても、今朝の司はおかしかった。
「それで、最後に『行ってらっしゃい。気をつけてね』って言われた」
「いい妹じゃないか」
「違う。そこだけ聞けばいい妹だけど、違うんだよ!」
「何が違うんだ?」
「お茶を出された」
「いいことじゃないか」
「熱いからって、ふうふうされたんだぞ」
圭佑の笑いが止まった。
「……ふうふう?」
「ああ。俺の湯のみを持って、ふうふうされた」
「それは……なかなかだな」
「なかなかじゃない。かなりだ」
「まあ、かなりだな」
「しかも、パウンドケーキを食べさせてあげるって言われた」
「司ちゃんに?」
「ああ」
圭佑は今度こそ少し吹き出した。
「笑うなって言ってるだろ」
「悪い。でも、それは笑うだろ」
「こっちは本気で困ってるんだよ」
「分かった。悪い」
圭佑は口元を押さえながら、どうにか笑いを引っ込めた。
けれど、その笑い方は、どこか中途半端だった。
いつものように、遠慮なく笑っている感じではない。
笑っていい話なのか、迷っているようにも見えた。
昌志には、その理由までは分からない。
ただ、圭佑の笑いが少しだけ引っかかったせいで、余計に落ち着かなかった。
「しかも、父さんが同じことを言ったら、自分で食べてって即答してた」
「そこはいつもの司ちゃんっぽいな」
「だから余計に分からないんだよ」
昌志はため息をついた。
「昨日までの司なら、俺が見ただけで文句を言ってきたんだぞ。それが今日は、自分から見せてくるんだ」
「まあ、変化ではあるな」
「変化どころじゃない」
「でも、悪い方に変わったわけじゃないだろ」
圭佑がそう言った。
昌志は眉を寄せる。
「悪い方じゃない?」
「ああ。嫌味を言われたわけでもない。怒鳴られたわけでもない。お菓子を作って、お茶を出して、気をつけてって言ったんだろ」
「そう言われると、いい妹みたいに聞こえるな」
「実際、いい妹なんじゃないか?」
「いや、違う。何かが違う」
昌志は即答した。
それだけは分かる。
司は悪いことをしたわけではない。
むしろ、たぶん優しくしようとしていた。
でも、優しすぎた。
しかも、その優しさの方向が妙だった。
「安心して、って言われたんだぞ」
「ああ」
「安心できるか?」
「しにくいな」
「だろ?」
昌志は圭佑の机に手を置いた。
「お前は妹とどう付き合ってるんだよ」
「美月とか?」
「他に誰がいるんだよ」
「普通に話してるだけだ」
「その普通が分からないから聞いてる」
「妹にもいろいろあるんだろ」
「いろいろで片づけるな」
「じゃあ、司ちゃんにも司ちゃんなりの考えがあるんだろ」
「それは分かるけど」
昌志は納得できなかった。
考えがあるのは分かる。
司が何かを変えようとしているのも、たぶん分かる。
けれど、なぜ急にああなったのかが分からない。
お菓子を作る。
お茶を冷ます。
食べさせようとする。
セーラー服を自分から見せる。
一つ一つだけなら、優しさと言えなくもない。
けれど、全部まとめて朝からやられると、優しいというより、距離の取り方を間違えているようにしか見えなかった。
「今朝のあれを見たあとだと、家に帰ってからどう接すればいいのか分からない」
昌志が言うと、圭佑は少しだけ考えるような顔をした。
「まあ、悪い方に変わったわけじゃないなら、少し様子を見てもいいんじゃないか」
「様子を見る?」
「ああ。司ちゃんにも、何か考えがあるんだろ」
「それが分からないから困ってるんだよ」
「妹にもいろいろあるんだよ」
「だ・か・ら、いろいろで片づけるな」
昌志が言うと、圭佑は少しだけ苦笑した。
圭佑に聞いても、やはり妹との付き合い方はよく分からない。
ただ、司が自分を嫌っているわけではない。
そう見てもいいのかもしれない、とは少しだけ思った。
それでも、うまく話せる自信はなかった。
「まあ、妹のこともあるんだけど」
昌志は声を落とした。
「本題はそっちじゃない」
圭佑の目つきが変わった。
さっきまで少し笑っていた顔が、すっと真面目になる。
「何かあるのか?」
「ああ」
昌志は周囲を確認した。
教室には少しずつ生徒が増えている。
大きな声では話せない。
それに、詳しく話していいことでもない。
「今日の夕方、少し付き合ってくれないか」
昌志はできるだけ小さな声で言った。
圭佑はすぐには答えなかった。
「どこに?」
「まだ、はっきり言えない」
「何をするんだ?」
「それも、今は言いにくい」
「危ないことか?」
昌志は答えに詰まった。
危なくないとは言えない。
けれど、危ないと決まったわけでもない。
「たぶん、何かある」
「何か」
「ああ」
昌志は圭佑を見る。
「俺一人だと、不安なんだ」
そう言うと、圭佑は黙った。
詳しく聞き返してもよさそうだった。
どこへ行くのか。
何が起きるのか。
なぜ今言えないのか。
聞こうと思えば、いくらでも聞けるはずだった。
けれど、圭佑はそれ以上聞かなかった。
「分かった」
「いいのか?」
「ああ」
圭佑は迷わず頷いた。
「付き合う」
あまりにも早い返事だった。
昌志は少しだけ拍子抜けする。
「もう少し考えなくていいのか?」
「考える必要あるか?」
「あるだろ。場所も理由も言ってないんだぞ」
「お前が頼んできた」
圭佑はまっすぐ昌志を見た。
「それで十分だ」
「重いな」
「重くていい」
「いや、こっちは頼みにくくなるんだけど」
「もう頼んだだろ」
「頼んだけど」
「なら決まりだ」
圭佑はそう言って、少しだけ笑った。
その顔は、困っているというより、どこか嬉しそうだった。
「お前には借りがある」
「借り?」
「美月のことだ」
圭佑は声を落としたまま続ける。
「お前が美月を助けてくれた。文芸部のことも、本屋のこともそうだ。俺は、借りをちゃんと返したいと思ってた」
「いや、そんな大げさな」
「大げさじゃない」
圭佑はきっぱり言った。
「いつ返せるかと思ってたんだ。だから、頼まれたなら行く」
「そんなに熱くならなくていい」
「ならずにいられるか」
「本当に頼みにくいんだよ」
「だから、もう頼んだだろ」
圭佑は少しだけ身を乗り出した。
「俺にできることなら何でも言え。夕方だろ。必ず空けておく」
「本当にいいんだな?」
「ああ」
「危ないと思ったら逃げるからな」
昌志はしっかり確認する。
「当然だ」
「そこは当然なんだな」
「助けるために無茶をする必要はないだろ」
圭佑は真面目に言った。
その言葉には、少しだけ頼もしさがあった。
昌志は小さく息を吐く。
「じゃあ、頼むよ」
「ああ。任せろ」
圭佑は迷いなく頷いた。
その顔は、本当に嬉しそうだった。
頼まれて困っている顔ではない。
むしろ、ようやく自分の番が来たと思っているような顔だった。
昌志は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
妹がおかしくなった。
家に帰れば、その妹とまた顔を合わせる。
夕方には、何かが起きるかもしれない。
考えなければいけないことは多い。
けれど、少なくとも夕方のことは、一人ではなくなった。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。




