第101話 妹がおかしくなった
七月八日の朝。
昌志は、机の上の黒いノートを見ていた。
黒い本ではない。
昨夜、昌志はそのノートに少しだけ文章を書いた。
高校生の少年は、黒い本を買った。
少年は、その本に書かれた言葉を信じて、少しずつ行動を変えていった。
書けたのは、それだけだった。
続きはまだ書けない。
ただ、こうしておけば、黒い本を見られてもごまかせる。
文芸部でそういう話になった以上、少しぐらいは実際に書いておいた方がいい。
そう思っただけだ。
昌志は黒いノートを閉じる。
これを続ければ、少なくとも黒い本を見られた時の言い訳にはなる。
黒い表紙の本に、物語を書いている。
そういうことにしておけばいい。
そう思っても、気は晴れなかった。
書こうとしているのは、自分の話だ。
でも、自分でもまだ、その話がどこへ向かっているのか分からない。
それに、黒い本には、今夜また司と話すことになると書かれていた。
昌志はしばらく黒いノートを見ていたが、やがて諦めて立ち上がった。
制服に着替え、部屋を出る。
階段を下りる。
リビングに入った瞬間、昌志は足を止めた。
「おはようございます、お兄様」
司が、妙に丁寧な声で言った。
昌志はしばらく黙った。
「……誰だよ」
「司です」
「知ってる」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
司はいつもより早く席についていた。
制服姿で、背筋を伸ばしている。
それだけなら、まだ普通だった。
けれど、表情が妙にきちんとしている。
いつものように少し不機嫌そうでもない。
こちらを見て、ちゃんと笑おうとしている。
その時点で、かなり変だった。
「お兄ちゃん、こちらをどうぞ」
「もう呼び方戻すのか」
「お兄様の方がいい?」
「いや、戻していい」
「分かった」
司は素直に頷いた。
その素直さも、やっぱり少し変だった。
テーブルの上には、小皿がいくつも並んでいる。
クッキー。
マドレーヌ。
小さなパウンドケーキ。
なぜか一口サイズのゼリーまであった。
朝食の横に置く量ではない。
「何だこれ」
「余りましたので」
「何が?」
「お菓子が」
昌志は皿を見た。
どう見ても、余ったという量ではなかった。
それに、司の前には何も置かれていない。
父が新聞を畳みながら、不思議そうに聞いた。
「父さんの分は?」
「作ってない」
司は即答した。
父が黙った。
昌志も黙った。
「余ったんじゃなかったのか?」
「余りました」
「誰の分が?」
「お兄ちゃんの分」
「それは余ったとは言わないだろ」
司は少しだけ目をそらした。
「細かいことは気にしないで」
「気にするだろ」
司は言い返さなかった。
いつもなら、ここで何か返してくるはずだった。
それなのに、今日は黙っている。
言葉を飲み込んでいるようにも見える。
そのせいで、昌志は余計に落ち着かなかった。
母が台所から出てきて、テーブルの上を見た。
「あら、すごいわね。司が作ったの?」
「うん。少しだけ」
「少しだけ?」
昌志は思わず聞き返した。
母は少し笑った。
「朝ご飯のあとに、少しだけ食べればいいじゃない」
「朝からこんなに?」
「疲れている時は甘いものもいいわよ」
「疲れてる前提なのかよ」
昌志は椅子に座った。
朝食の皿の横に、お菓子の皿が並んでいる。
その横には、湯気の立つお茶まで置かれていた。
「お茶もあるのか」
「うん。熱いから、待って」
「待つ?」
司は湯のみを両手で持つと、顔を近づけた。
そして、ふう、ふう、と息を吹きかける。
昌志は固まった。
「……何してるんだ?」
「冷ましてる」
「見れば分かる」
「熱いと、やけどするから」
「俺は幼児か」
「違うけど」
司は真面目な顔で、湯のみをこちらへ差し出してきた。
「はい。どうぞ」
昌志は、受け取るべきか逃げるべきか、一瞬本気で迷った。
優しい。
たぶん、これは優しい行動なのだと思う。
でも、優しすぎる。
兄妹の朝食で、妹にお茶を冷まされて差し出されるのは、何かが違う。
「……ありがとう」
昌志は、とりあえずそう言って湯のみを受け取った。
司の表情が、ほんの少し明るくなる。
「うん」
その顔は、少しだけいつもの司に近かった。
けれど、やっていることはまったくいつも通りではなかった。
昌志は、ひとまずクッキーを一枚取った。
食べる。
普通にうまい。
そこがまた困った。
「……うまい」
昌志が言うと、司の表情がまた少し明るくなった。
「本当?」
「ああ」
「よかった」
その反応は、少しだけいつもの司に近かった。
昌志は少し安心しかけた。
けれど、次の瞬間、司は小さなパウンドケーキを一つ手に取った。
「お兄ちゃん、これも食べる?」
「いや、自分で取るけど」
「食べさせてあげる」
「何でだよ」
「安心して」
「何を安心すればいいんだよ」
司は真面目な顔で、パウンドケーキを差し出してくる。
昌志は、今度こそ逃げるべきかもしれないと思った。
その時、父が横から口を挟んだ。
「父さんにも食べさせてくれるのか?」
「自分で食べて」
司は即答した。
「そこは冷たいんだな」
「お父さんは自分でできるでしょ」
「昌志も自分でできると思うけどな」
「お兄ちゃんは最近疲れてるから」
「父さんも疲れてるぞ」
「知らない」
父が黙った。
昌志も黙った。
司は何事もなかったように、もう一度こちらへパウンドケーキを差し出してくる。
「お兄ちゃん、どうぞ」
「……自分で食べる」
「そう」
司は少し残念そうに、パウンドケーキを皿に戻した。
昌志は結局、自分の手でそれを取った。
普通にうまい。
やっぱり、そこが困った。
司は本当に、悪いことをしているわけではない。
ただ、優しくしようとしている。
それは分かる。
分かるのに、いつもの司と違いすぎて、どう反応すればいいのか分からなかった。
昌志はお茶を飲み、少し落ち着こうとした。
その時、司がまた姿勢を正した。
「それと」
「まだ何かあるのか」
「いつも、ありがとう」
「何が?」
「いろいろ」
「いろいろって何だよ」
「分からないけど、いろいろ」
司は少しだけ困ったように言った。
「お兄ちゃんには、たぶん、いつも少し迷惑をかけてるから」
昌志は何も言えなくなった。
司の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
怒っているわけではなさそうだった。
嫌味を言っているわけでもなさそうだった。
ただ、優しくしようとしている。
たぶん、それは分かる。
分かるのに、どうしてそうなったのかが分からない。
だから、余計に落ち着かなかった。
「お兄ちゃん」
「何だよ」
「今日の私は、どう?」
「どうって……何が」
「全体的に」
「全体的に?」
「制服とか、髪とか、そういうの」
司は少しだけ立ち上がり、スカートの裾を軽くつまんだ。
それから、セーラー服の襟元を整えるようにして、こちらに見せてくる。
昔ながらのセーラー服が、ひらりと揺れた。
昌志は返答に困った。
いつもの司だった。
いつものセーラー服だった。
いつもの髪型だった。
なのに、司はいつもと違う顔で、答えを待っている。
昨日までなら、見ているだけで文句を言ってきたはずだ。
下手をすれば、気持ち悪いと言われた。
それなのに今日は、自分から見せてくる。
何がどうなっているのか、もう分からなかった。
「……普通じゃないか」
「普通?」
「ああ。いつも通り」
「いつも通り」
司は少しだけ考えた。
「変じゃない?」
「変ではない」
「そっか」
司は小さくうなずいた。
その顔は、少し安心したようにも見えた。
昌志はますます分からなくなった。
朝食を終える頃には、すっかり疲れていた。
甘いものを食べたはずなのに、疲れが増えた気がする。
支度をして、鞄を持つ。
玄関へ向かうと、司が後ろからついてきた。
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
「ああ」
「気をつけてね」
昌志は靴を履きながら、司を見た。
いつもの司なら、そんなことはあまり言わない。
でも、言われた言葉そのものは悪くない。
悪くないから、余計にどう反応すればいいのか分からない。
「……行ってきます」
昌志はそう言って、玄関を出た。
外の空気を吸って、ようやく少し息ができた気がした。
司は怒っていなかった。
嫌味を言っているようにも見えなかった。
たぶん、何かを変えようとしている。
それは分かる。
けれど、何をどう変えようとしているのかは分からない。
そして、分からないものは、どうしても落ち着かない。
しかも、黒い本には書かれていた。
七月八日の夜。
家で、妹に話しかけられる。
昌志が普通に答えれば、妹は少しだけ安心する。
昌志が避ければ、妹は昌志に何かを隠されていると思う。
あの妹と、夜に普通に話す。
今朝の司を見たあとだと、それが思った以上に難しいことに思えた。
普通に答えるとは、何なのか。
どこまで普通に話せばいいのか。
そもそも、司が何を聞いてくるのかも分からない。
昌志は鞄を肩にかけ直し、学校へ向かう。
考えなければいけないことは、それだけではなかった。
夕方には、公園で彼女と女子高生が男子高校生数人に絡まれる。
助けなければ、彼女たちはひどい目に遭う。
これは、事故ではない。
誰かが転ぶとか、物を落とすとか、そういうものとは違う。
はっきり事件に近いものだった。
そう思うと、背中が少し冷たくなる。
近くの公園。
ベンチのある木立。
その書き方だけでは、場所もはっきりしない。
彼女が誰なのかも分からない。
女子高生が誰なのかも分からない。
それでも、行かなければならないのだろう。
放っておけば、ひどい目に遭う。
そう書かれていた以上、見なかったことにはできない。
商店街の言い争いの方も気にはなる。
けれど、巻き込まれるかもしれないと書かれていた。
それに、どちらも夕方に起きるなら、両方を確かめるのは無理だ。
わざわざ近づくのは怖い。
それに、公園の方は、放っておける内容ではなかった。
学校に着いたら、圭佑に聞こう。
妹とは、どう付き合えばいいのか。
圭佑は、美月とどういう距離で話しているのか。
それから、夕方の公園のことも、少し相談した方がいい。
ただ、圭佑に聞いて参考になるかどうかは分からなかった。
それでも、誰かに聞かずにはいられなかった。
妹がおかしくなった。
そのうえ、夕方には事件が起きるかもしれない。




