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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第109話 女子高生から彼女へ

七月九日の放課後。


 昌志は、一人で文芸部の部室へ向かった。


 今日は長居するつもりはない。


 最初から、そのつもりだった。


 七月九日の予告は、三つあった。


 一つ目は、夕方のこと。


 昨日の礼を言いたい彼女。


 それは、たぶん遥のことだろう。


 だから昌志は、文芸部には顔だけ出して、早めに昨日の公園へ向かうつもりだった。


 二つ目は、帰り道のこと。


 知らない男子生徒たちの言い争いを見る。


 昌志が近づけば、その言い争いに巻き込まれる。


 昌志が近づかなければ、言い争いはそのまま続く。


 問題は、それがどこで起きるのか分からないことだった。


 正門から出た先なのか。


 裏門から出た先なのか。


 それとも、どちらを選んでも途中で見ることになるのか。


 黒い本は、そこまでは教えてくれない。


 だから昌志は、文芸部を出る時に、正門から帰るか裏門から帰るかを決めるしかなかった。


 三つ目は、夜のこと。


 誰かが、昌志の後をつけてくる。


 振り返れば、その誰かは人混みに紛れる。


 振り返らなければ、家の近くまでついてくる。


 三つとも、まだ終わっていない。


 部室へ入ると、美月がすぐに顔を上げた。


「あ、昌志先輩」


「ごめん。今日はあまり長くはいられない」


「分かってます。来てくださっただけでも嬉しいです」


 美月はそう言って、少しだけ笑った。


 その笑顔を見ると、少し申し訳なくなる。


 矢部と雪も部室にいた。


 部活の日だから、昨日とは違って何人か部員もいる。


 昌志は空いている席に座り、昨日美月が買った本の話を少し聞いた。


「まだ最初の方ですけど、読みやすいです」


「それならよかった」


「はい。昨日、昌志先輩にすすめていただいてよかったです」


「そこまで言われるほどじゃないよ」


 美月は本当に嬉しそうだった。


 それを見ると、圭佑が朝に言っていたことを少し思い出す。


 美月は、昌志が来るのを楽しみにしている。


 そう言われても、まだよく分からない。


 でも、こうして喜ばれると、すぐに帰るのが少し悪いことのように思えた。


 それでも、今日は用事がある。


 昌志は一時間ほど部室で過ごしたあと、鞄を持った。


「じゃあ、そろそろ行く」


「あ、はい」


 美月は少しだけ残念そうにした。


 けれど、すぐに丁寧に頭を下げる。


「来てくださって、ありがとうございました」


「また来るよ」


「はい。待ってます」


 その言葉を聞いてから、昌志は部室を出た。


 廊下を歩きながら、少しだけ息を吐く。


 待ってます。


 その言葉は、思っていたより胸に残った。


 けれど、今考えるべきことは別にある。


 昨日の公園。


 彼女。


 礼を言いたいと思っている相手。


 おそらく、遥だろう。


 それから、帰り道の言い争い。


 昌志は校舎を出る前に、少し足を止めた。


 正門。


 裏門。


 どちらから出るか。


 少し迷ってから、昌志は正門の方へ歩いた。


 正門の方が人は多い。


 人が多いからこそ揉め事に近づく可能性もあるが、人が少ない場所で何かに巻き込まれるよりはましな気がした。


 門の近くで、昌志は一度立ち止まる。


 人だかりはない。


 大きな声も聞こえない。


 言い争っている男子生徒も見えなかった。


 なら、今のうちに出る。


 昌志はそう判断して、正門から外へ出た。


 駅前公園へ向かう道でも、周りには気を配った。


 知らない男子生徒たちの言い争い。


 それがどこで起きるのかは分からない。


 それでも、今はまだ見えていない。


 近づかなければいい。


 見つけても、寄らなければいい。


 そう自分に言い聞かせながら、昌志は駅前公園へ向かった。


*     *


 駅前公園に着くと、昨日と同じ南口から中へ入った。


 夕方の公園は、昨日より少し静かに見えた。


 中央の噴水の周りには、親子連れが数組いる。


 外側の道には、散歩をしている人が何人かいた。


 昌志は昨日のことを思い出しながら、ベンチのある木立の方へ歩いた。


 たぶん、そこに遥がいる。


 昨日の礼を言いたいと思っている。


 黒い本の文章から考えれば、そうなるはずだった。


 けれど、そこにいたのは遥ではなかった。


「まさやん」


 ベンチの近くに立っていたのは、加藤あいだった。


 昌志は足を止めた。


「加藤さん?」


「はい。昨日ぶりです」


 加藤あいは、いつものように笑っていた。


 けれど、その笑い方は少しだけ違った。


 いつもの軽い調子ではない。


 ふざける前に、ちゃんと姿勢を正しているような様子だった。


 昌志は少し戸惑った。


 昨日の予告では、加藤あいは「女子高生」だった。


 なのに、今日の黒い本は「彼女」と書いていた。


 彼女が、昌志にどうしても会いたいと思っている。


 その彼女が、加藤あいだった。


 それに、今までの加藤あいのイメージとあまりに様子が違う。


 それも、昌志を動揺させた。


「何かあったんですか?」


 昌志は聞いた。


「いつもと違う感じだけど」


「昨日、みつみんに注意されまして」


「遥に?」


「はい。助けてもらった時まで、ああいうふざけた感じはよくないって」


 加藤あいは少しだけ肩をすくめた。


「だから、今はちゃんと真面目にお礼を言おうと思ってます」


「それじゃあ、遥に言われて来たのか?」


「違います」


 加藤あいは、そこだけはすぐに首を振った。


「みつみんには注意されましたけど、ここに来たのは私が勝手に来ました」


「そうなのか」


「はい。ちゃんとお礼を言いたかったので」


「それで、ここにいたの?」


「はい」


「たまたまですけど」


「たまたま?」


「もしかしたら、またまさやんが来るかなって思って」


「それは、たまたまとは言わないんじゃないか」


「じゃあ、来ると思って少しだけ待ってました」


 加藤あいは素直に言い直した。


 昌志はどう返せばいいか分からなかった。


「でも、びっくりしました。ほんとに来るんですもん」


「こっちもびっくりした」


「まさやんは、私がここにいるって思ってたんですか?」


「いや」


 昌志は一瞬だけ迷った。


「何気なく寄っただけだよ」


「本当に?」


「そうしたら、昨日のお礼を言いたい人がいた」


「それ、私です」


「みたいだな」


 加藤あいは少し嬉しそうに笑った。


「すごいですね」


「何が?」


「私が会いたいなって思ったら、本当に来るんですもん」


「それは偶然だよ」


「みつみんだけじゃなくて、私にとってもあれなんですかね」


「あれ?」


「白馬のなんとか」


「違うと思う」


「即答ですね」


「じゃあ、騎士ですね」


「それも、違うと思うから」


「じゃあ、これもたまたま?」


「偶然だと思う」


 昌志がそう言うと、加藤あいは少しだけ笑った。


 けれど、その後すぐに表情を整えた。


「あ、そうじゃなかった」


「何?」


「ちゃんとお礼を言うんでした」


 加藤あいは、いつもより少し背筋を伸ばした。


「昨日は、助けてくれてありがとうございました」


 そう言って、頭を下げる。


 昌志は少し驚いた。


 加藤あいが真面目に頭を下げている。


 昨日までの軽さとは違う。


 その姿を見ると、いつもの調子で流すのも違う気がした。


「別に、そんなに」


「そこは受け取ってください」


「……分かった」


 昌志は小さく頷いた。


「無事でよかった」


「はい」


 加藤あいは顔を上げた。


 その目には、少しだけ照れがある。


 でも、ちゃんと真面目だった。


「それで、もう一つあるんです」


「もう一つ?」


「私とみつみんで、ちゃんとお礼がしたいんです」


「昨日も言ってたけど、お礼とかは本当にいいよ」


「よくないです」


「そうか」


「はい。なので、明日また会えませんか?」


「明日?」


「はい。ここで待ち合わせでもいいんですけど、ここだとあれなので、昨日入れなかったファミレスにしませんか?」


「ファミレス」


「今度はちゃんと予約します」


「予約できるのか?」


「できると思います。私がしておきます」


「俺がしてもいいけど」


「だめです。お礼する側が予約します」


 加藤あいは真面目な顔で言った。


「あと、けいちゃんも連れてきてください」


「けいちゃんって、圭佑か」


「はい」


「圭佑の連絡先は?」


「まだ聞いてないです。明日聞くつもりです」


「順番がおかしくないか」


「だから、まさやんから伝えてください」


「俺から?」


「はい。明日の四時に、昨日のファミレスでお願いしますって」


「四時?」


「はい。遅いとまた混むかもしれないので」


 昌志は少し考えた。


 明日、圭佑が来られるかは分からない。


 けれど、昨日一緒に助けたのは圭佑だ。


 礼を言いたいと言われれば、伝えないわけにもいかない。


「分かった。圭佑には言っておく」


「ありがとうございます」


「でも、来られるかどうかは圭佑次第だぞ」


「それで大丈夫です」


 加藤あいはほっとしたように笑った。


「みつみんにも、伝えておきます」


「遥は知ってるんじゃないの?」


「一応、私がちゃんと決めてから言おうと思って」


「そうか」


「はい」


 二人は公園を出る方へ歩き出した。


 途中まで、同じ道だった。


 加藤あいは真面目な話を終えると、少しずついつもの調子に戻っていった。


「でも、まさやんが本当に来るとは思いませんでした」


「だから偶然だって」


「偶然でここまで来るなら、もう運命ですね」


「違うと思う」


「また即答」


「違うから」


「じゃあ、白馬のヒーロー」


「それも違う」


「厳しいですね」


「ただの都合のいい存在だよ」


「でも、その自分への厳しさもいいスパイスです」


「何の話だよ」


 加藤あいは笑った。


 その笑い方は、いつもの軽さに戻っていた。


 けれど、さっきの真面目な表情も嘘ではなかったのだと思う。


「まさやん」


「何?」


「今日の私、どうでした?」


「今日の加藤さん?」


「はい。真面目にお礼を言う加藤あいです」


 加藤あいは少しだけ胸を張った。


 けれど、すぐに不安そうに昌志を見る。


「変でしたか?」


「変っていうか、少し驚いた」


「やっぱり変でしたか」


「悪い意味じゃないよ」


「じゃあ、いい意味ですか?」


「真面目にお礼を言われたのは、ちゃんと伝わった」


「それなら、よかったです」


 加藤あいはほっとしたように笑った。


 けれど、どこか物足りなさそうでもあった。


「でも、まさやんはどっちがいいですか?」


「どっち?」


「今日みたいに真面目な私と、いつもの私です」


 昌志は少し考えた。


 今日の加藤あいも悪くない。


 真面目に礼を言おうとしているのは分かったし、昨日のことを軽く考えていないのも伝わった。


 けれど、ずっとそうしている加藤あいは、どこか無理をしているようにも見えた。


「いつもの加藤さんの方が、俺は好きだけど」


 そう答えると、加藤あいが一瞬固まった。


「……え?」


「何?」


「今、かなりすごいこと言いましたよ」


「そうか?」


「言いました」


 加藤あいは少しだけ顔を赤くして、目をそらした。


 さっきまでの軽い調子が、ほんの少しだけ止まっている。


 昌志は、自分の言い方が少しまずかったのかもしれないと思った。


「別に、そういう意味じゃなくて」


「そういう意味じゃないんですか」


「いつもの方が話しやすいって意味だよ」


「なるほど。話しやすい女、加藤あい」


「悪く言ってないだろ」


「分かってます。今のは、ちょっと心臓に悪かっただけです」


 加藤あいはそう言ってから、わざとらしく胸に手を当てた。


「まさやん、急にそういうこと言うのは反則ですよ」


「反則って何だよ」


「白馬のヒーローから、急に恋愛イベントを差し込んでくるところです」


「差し込んでない」


「じゃあ、スパイスですね」


「それも違う」


 加藤あいは笑った。


 今度の笑い方は、もういつもの加藤あいにかなり近かった。


 公園を出て、駅前の通りに差しかかったところで、加藤あいが手を振った。


「じゃあ、まさやん。また明日」


「ああ」


「けいちゃんにもよろしくお願いします」


「言っておく」


「お願いします」


 加藤あいはそう言って、駅の方へ歩いていった。


 昌志はその背中を見送ってから、家の方へ向かった。


 歩きながら、黒い本の文章を思い返す。


 昨日の予告では、加藤あいは女子高生だった。


 今日の予告では、彼女になっていた。


 女子高生から、彼女へ。


 これは、たぶん偶然ではない。


 黒い本の書き方が変わったのだ。


 いや、黒い本の中での扱いが変わった。


 加藤あいとは、昨日のことで少し親しくなった。


 だから、女子高生ではなく、彼女になった。


 最初は、そう考えた。


 けれど、それだけだと矢部美由紀のことがいまいち分からない。


 黒い本の書き方には、まだ分からないことがある。


 今は、そういうことにしておくしかなかった。


「女子高生が、彼女になった」


 昌志は小さく呟いた。


 一つ分かった。


 黒い本の書き方には、意味がある。


 昨日は助けるために来た。


 今日は礼を言われるために来た。


 それだけではない。


 黒い本の表記が変わる瞬間を見た。


 それだけでも、今日ここへ来た意味はあった。


 七月九日の予告は、三つあった。


 一つ目は、夕方のこと。


 昨日の礼を言いたい彼女。


 それは、加藤あいだった。


 その一つ目は、もう終わった。


 二つ目は、帰り道の言い争い。


 それも、回避できたはずだ。


 正門から出る前に周りを確認した。


 大きな声は聞こえなかった。


 人だかりもなかった。


 駅前公園へ向かう道でも、昌志は周囲に気を配った。


 知らない男子生徒たちの言い争いには近づかない。


 見かけても、足を止めない。


 そう決めて歩いてきた。


 その結果、昌志は言い争いに巻き込まれなかった。


 残っているのは、三つ目だけだ。


 夜、誰かに後をつけられること。


 振り返れば、その誰かは人混みに紛れる。


 振り返らなければ、家の近くまでついてくる。


 なら、振り返らない方がいい。


 それに、できれば後をつけられないうちに帰ってしまいたい。


 昌志はそう考えて、少しだけ歩く速度を上げた。


 わざわざ後をつける方も、ずっと待っているのは大変だろう。


 それに、つけられたところで、自分にやましいことがあるわけでもない。


 それでも、面倒なことは避けたい。


 今日はもう寄り道をしない。


 人通りの多い道を選んで、できるだけ早く帰る。


 昌志は鞄の紐を握り直し、駅前の通りを歩いていった。

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