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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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110/121

第100話 彼女と女子高生

七月七日の夜。


 家に帰ると、玄関で靴を脱いでいる時に司が顔を出した。


「お兄ちゃん、今日遅いね」


「お前は早いな」


「帰りは早いんだよ」


「今日、早く出てただろ。帰りも遅いのかと思った」


「行く時間と帰る時間は別でしょ」


「そういうものか」


「そういうもの」


 司は当然のように言った。


「学校の時間は決まってるんだから」


「学校を仕事みたいに言うな」


「私にとっては仕事みたいなものなの」


「学生だろ」


「学生にも仕事はあるの」


 司はそう言い残して、リビングの方へ戻っていった。


 昌志はその背中を見送る。


 別に、司が嫌いなわけではない。


 ただ、最近の司は、こっちを見る時も、話す時も、どこか引っかかる言い方をしてくる。


 もしかして、俺は本当に嫌われているんじゃないか。


 そんなことを考えてしまうくらいには、最近の司は分かりにくかった。


 昌志は小さく息を吐き、自分の部屋へ向かった。


 部屋に入り、鞄を置く。


 机の上には、黒いノートが置いてある。


 本物の黒い本ではない。


 司に見られてもいいように置いてある、偽物の黒いノートだった。


 今日、文芸部で黒い表紙の本に物語を書いているような話になった。


 雪も、矢部も、そういうものだと思ってくれた。


 美月も、読んでみたいと言っていた。


 誰に読ませるのか気になるとも言われた。


 あれは余計な話になったと思った。


 けれど、考えようによっては、都合がいい。


 黒い本は、物語を書くための本。


 そういうことにしてしまえばいい。


 そのためには、少しぐらい本当に書いておいた方がいい。


 昌志は机に向かい、黒いノートを開いた。


 真っ白なページが見える。


 何を書けばいいのか、すぐには思いつかなかった。


 物語。


 自分の話。


 黒い本を手に入れた男の話。


 そう考えて、昌志はシャーペンを持った。


 少し迷ってから、一行目を書く。


 高校生の少年は、古本屋で黒い本を買った。


 それだけ書いて、手が止まった。


 そこから先が続かない。


 黒い本を買った少年は、どうなるのか。


 その本には何が書かれているのか。


 少年は、その本をどう使うのか。


 いくつか考えてみる。


 未来のことが書かれている本。


 自分の行動で文章が変わる本。


 良いことも悪いことも書かれていて、選ばなければならない本。


 それは、物語にすれば少し面白いのかもしれない。


 けれど、自分が今その中にいると思うと、まったく面白くなかった。


 昌志は、もう一行だけ書いた。


 少年は、その本に書かれた言葉を信じて、少しずつ行動を変えていった。


 そこで、また手が止まる。


 続きを書く気にはなれなかった。


 昌志は黒いノートを開いたまま、しばらく眺めた。


 これで、少なくとも何かを書いているふりにはなる。


 そう思うと、少しだけ安心した。


 時計を見る。


 まだ午前零時にはなっていない。


 本物の黒い本に、今日の結果が出るには早い。


 昌志は黒いノートに、美月が買った本のタイトルを書き足した。


 その下に、今日の本屋でのことも少しだけ書きそうになって、やめた。


 書いたところで、何になるわけでもない。


 それでも、少しだけ笑いそうになった。


 圭佑は本にはあまり興味がなさそうだった。


 それなのに、最後まで帰りたいとは言わなかった。


 あれはあれで、美月のことを見ていたのだろう。


 昌志は黒いノートを閉じた。


 そして、引き出しの奥にしまってある本物の黒い本のことを考える。


 昨日の結果には、美由紀という名前が出ていた。


 今日、文芸部の部室で名簿を見て、それが矢部の下の名前だと分かった。


 矢部美由紀。


 部長の名前だった。


 それ自体は、もう分かった。


 けれど、分かったからといって、すっきりしたわけではない。


 どうして黒い本は、ある時は名前を書くのか。


 どうして、ある時は彼女とだけ書くのか。


 美月は、今日の予告では彼女と書かれていた。


 けれど、昨日の結果には美月と書かれていた。


 雪の名前も出た。


 美由紀の名前も出た。


 その違いに、何か意味があるのか。


 それとも、ただ黒い本の書き方がそうなっているだけなのか。


 考えても分からない。


 だから、今は考えるのをやめた。


 どうせ、午前零時を過ぎれば、また何かが浮かんでくる。


 最近、昌志はそれを、頭の中で予告と呼ぶようになっていた。


 翌日に起きることを、先に知らせる文章。


 選ぶものと、避けるものを並べる文章。


 黒い本の予告。


 そう呼ぶのが、一番近い気がした。


 *


 午前零時を過ぎた。


 昌志は、引き出しの奥から本物の黒い本を取り出した。


 表紙を開く。


 七月七日のページに、新しい文字が浮かんでいる。


━━━━━━━━━━━━━━


 ――七月七日、放課後。


 文芸部の部室へ行った。


 美月に、

 本屋へ付き合ってほしいと頼まれた。


 昌志が付き合うと、

 美月は少しだけ喜んだ。


 美月は、

 昌志にすすめられた本を一冊買った。


 その本を読んだら、

 また昌志と話したいと言った。


 ――七月七日、夕方。


 帰り道で、

 誰かが倒れるところを見なかった。


 近づかなかったことで、

 少しだけ面倒なことにはならなかった。


 昌志は、

 そのまま帰った。


━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、文章を読み終えてから、しばらくページを見つめていた。


 今日も、悪いものは取らなかった。


 帰り道で誰かが倒れる。


 近づけば、少しだけ面倒なことになる。


 近づかなければ、そのまま帰る。


 そう書かれていた方は、取らなかった。


 たぶん、それでよかったのだと思う。


 でも、最近は悪いものだけではない。


 良いものも、はっきりと良いとは言い切れなくなっている。


 本屋へ付き合う。


 文芸部へ行く。


 誰かを安心させる。


 誰かと話す。


 そういうことばかりが増えている。


 昔のように、分かりやすく得をするものが出てこない。


 雨を避ける。


 小テストの範囲を知る。


 スクラッチが当たる。


 そういうものではない。


 どこかへ行く。


 誰かと関わる。


 誰かを助ける。


 そんなものばかりになっている。


 できれば、そろそろ別のものが欲しかった。


 分かりやすく、これを選べば得をする。


 これを選ばなければ損をする。


 そういうものが。


 けれど、黒い本はもう、そういう書き方をしてくれない。


 昌志はページの下へ視線を落とした。


 そこに、さらに新しい文字が浮かんでいた。


 七月八日の予告だった。


━━━━━━━━━━━━━━


 ――七月八日、夕方。


 近くの公園の、

 ベンチのある木立で、

 彼女と女子高生が、

 男子高校生数人に絡まれている。


 昌志が助ければ、

 彼女たちはそこから逃げられる。


 昌志が助けなければ、

 彼女たちはひどい目に遭う。


 ――七月八日、夕方。


 帰り道、

 商店街で、

 知らない男子生徒たちが言い争いをしている。


 昌志がその場に近づけば、

 言い争いを止められる。


 しかし、

 その言い争いに巻き込まれるかもしれない。


 ――七月八日、夜。


 家で、

 妹に話しかけられる。


 昌志が普通に答えれば、

 妹は少しだけ安心する。


 昌志が避ければ、

 妹は昌志に何かを隠されていると思う。


━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、しばらく文字を見つめたまま動けなかった。


 商店街の方は、近づく気になれない。


 巻き込まれるかもしれないと書かれているのに、わざわざ近づくのは怖い。


 家で妹に話しかけられる方も、正直あまり気が進まなかった。


 普通に答える。


 避ける。


 そんなものまで予告に出されると、家の中にいても気が休まらない。


 しかも、相手は司だ。


 最近の司は、何を考えているのか分からない。


 普通に答えたつもりでも、また妙な方向に話が転がるかもしれない。


 けれど、避ければ避けたで、何かを隠していると思われる。


 どっちにしても、面倒だった。


 けれど、問題は、やはり一つ目だった。


 これは、事件なのではないか。


 そう思った。


 今までのような、小さな遅れや、少しだけ嫌なものを見るという話ではない。


 男子高校生数人。


 彼女と女子高生。


 絡まれている。


 助けなければ、ひどい目に遭う。


 文面だけで、嫌な感じがした。


 火事の時とは違う。


 でも、放っておける内容ではない。


「彼女と女子高生……」


 昌志は小さく呟いた。


 これは、一人なのか。


 二人なのか。


 彼女と、女子高生。


 そう書かれているなら、二人のようにも見える。


 けれど、黒い本の書き方は、最近かなりぼやけている。


 彼女とは誰なのか。


 女子高生とは誰なのか。


 近くの公園とは、どこのことなのか。


 ベンチのある木立。


 それだけでは、場所もはっきりしない。


 それでも、行かなければいけないのだろう。


 助ければ、彼女たちは逃げられる。


 助けなければ、彼女たちはひどい目に遭う。


 そんなものを見て、何もしないでいられるはずがない。


 昌志は黒い本を閉じた。


 閉じても、文字は頭の中に残っている。


 彼女と女子高生。


 男子高校生数人。


 近くの公園。


 ベンチのある木立。


 それから、妹。


 商店街の知らない男子生徒たち。


 考えなければいけないことが、一気に増えた。


 でも、考えても分からない。


 それでも、考えずにはいられなかった。


 その夜、昌志はなかなか眠れなかった。


 布団に入って目を閉じても、黒い本の文字がまぶたの裏に浮かんでくる。


 明日の夕方、何が起きるのか。


 彼女とは誰なのか。


 女子高生とは誰なのか。


 公園とはどこなのか。


 自分は、どこへ行けばいいのか。


 分からないまま、昌志は深夜にようやく眠りについた。

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