第99話 相沢兄妹
七月七日の夕方。
本屋の中では、本の話をたくさんした。
美月は文庫の棚の前で立ち止まり、矢部や雪から聞いた本の名前を思い出しながら、背表紙を一冊ずつ見ていた。
昌志はその横で、見覚えのある作家名をいくつか教える。
「これは短い話が多いから、最初は読みやすいと思う」
「短編集ですか?」
「うん。一話ずつ読めるから、途中で止めても戻りやすい」
「それは助かります」
美月は真剣に頷いた。
その横で、圭佑は少し離れたところから棚を眺めていた。
退屈そうではある。
けれど、帰りたいという顔でもない。
美月がどんな本を見るのかを、何となく見守っているようだった。
「お兄ちゃんも、何か見る?」
美月が聞いた。
「俺はいい」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、静かにしててね」
「何でだよ」
「今日は小説を見に来たから」
「別に邪魔するつもりはない」
「なら大丈夫」
美月はそう言うと、また昌志の方を向いた。
「昌志先輩、これはどうですか?」
圭佑は何か言いたそうにしていたが、結局黙った。
昌志は少し笑いそうになるのをこらえながら、美月の持っている本を見る。
「それも読みやすいと思う。ただ、最初に読むなら、さっきの方がいいかもしれない」
「そうなんですね」
「こっちは少し雰囲気が暗い話も多いから」
「暗い話」
「嫌いじゃないならいいけど、最初から読むには少し重いかも」
「分かりました。じゃあ、候補にしておきます」
美月は本を棚に戻し、もう一度短編集を手に取った。
その仕草は、思ったより慎重だった。
本を雑に扱わない。
それだけで、昌志は少し安心する。
本屋の中を回りながら、三人はいくつか本を見た。
美月は迷いながらも、昌志がすすめた短編集を一冊手に取った。
「これにします」
「本当にそれでいいの?」
「はい。昌志先輩が読みやすいって言ってくださったので」
「俺の言葉だけで決めなくてもいいんだぞ」
「でも、読んでみたいと思いました」
美月は本を大事そうに持った。
「この本を読んだら、またお話ししに行ってもいいですか?」
「別にいいけど」
昌志は自然に答えた。
「感想、聞かせてくれるなら」
「はい」
美月は嬉しそうに頷いた。
その顔を見て、昌志はまた少しだけ思う。
本が好きになったんだな。
文芸部に入って、昨日今日だけで、こんなに楽しそうにしている。
昌志は棚から別の短編集を一冊抜き、最初の数ページをめくった。
美月も隣で、同じように本を開いている。
圭佑だけは、少し離れたところで、特に読む本も決めずに立っていた。
「お前、本当に本に興味ないな」
昌志が言うと、圭佑は肩をすくめた。
「悪いか」
「悪くはないけど。お前は本より丼だな」
「丼?」
「丼物の方。食い気の方だな」
「勝手に決めるな」
「ついでに鈍い方もある」
「鈍いのはお前だろ」
「何でだよ」
「何でもない」
圭佑は呆れたように言った。
美月は頬を赤くして、買う本を胸の前に抱えていた。
昌志だけが、また何かを間違えたらしいことを薄く感じた。
けれど、何を間違えたのかは分からなかった。
美月が本を買い、三人は本屋を出た。
駅前の通りは、さっきより少し暗くなっている。
人通りはまだ多い。
途中まで三人で歩き、それぞれ帰る方向が分かれるところで別れた。
「今日はありがとうございます」
美月が頭を下げた。
「こちらこそ。ちゃんと読めそう?」
「はい。読みます」
「無理しなくていいからな」
「無理じゃないです」
美月は少しだけ真面目な顔で言った。
「楽しみなので」
「そっか」
昌志が頷くと、美月は嬉しそうに笑った。
圭佑はその横で、少し満足そうにしている。
「じゃあ、また学校で」
「はい。昌志先輩、また文芸部で」
「ああ」
美月と圭佑は並んで歩いていった。
その別れ際、圭佑が美月にだけ聞こえるように、帰ったら話があると告げていた。
それから、圭佑が何か話しかけ、美月が少しだけそっけなく返している。
その様子を見て、昌志は少し笑った。
相沢兄妹は相沢兄妹で、少し面倒らしい。
やがて駅前の通りで、昌志と相沢兄妹は帰る方向が分かれた。
帰り道の途中で、スマホが震えた。
圭佑からだった。
『今日はありがとな』
昌志は歩きながら返信する。
『白けなかっただろ』
少しして、返事が来た。
『いや、いろいろ聞けて面白かった。有益な時間だった』
有益な時間。
圭佑らしくないようで、妙に圭佑らしい言い方だった。
たぶん、美月が文芸部でどうしているかを見られたことが、圭佑にとっては大きかったのだろう。
昌志は、それならいいかと思ってスマホをしまった。
今日の黒い本の予告は、これで一つ終わったことになる。
文芸部の部室へ行く。
彼女に、本屋へ付き合ってほしいと頼まれる。
昌志が付き合えば、彼女は少しだけ喜ぶ。
美月は、少しどころではなく喜んでいた気がする。
それでも、悪いことではなかったはずだ。
少なくとも、今はそう思いたかった。




