第98話 本屋へ行く三人
七月七日の放課後。
文芸部の部室は、すっかりいつもの活動らしい空気になっていた。
一年生の部員たちも席につき、矢部は名簿をファイルに戻してから、部長らしく全体を見回している。
雪は鞄から本を取り出していた。
美月は、事前に用意できなかった茶菓子のことをまだ少し気にしているようだった。
昌志は机の下で、鞄の中の黒い本を意識していた。
黒い表紙の本。
中が真っ白な本。
そこに自分で物語を書く。
さっきは、とっさにそういう話にしてしまった。
けれど、考えてみれば、悪くない言い訳なのかもしれない。
司の時も、少なくとも文字が見えている様子はなかった。
圭佑にも、そう見えた。
雪にも、矢部にも、文字は見えていなかった。
なら、黒い本のことを聞かれた時は、まだ何も書いていない創作用の本だと説明できる。
創作用の本。
そう説明してしまった以上、いざという時に見せるものが必要になるかもしれない。
けれど、そのための偽物なら、もう机の上に置いてある。
朝、学校へ来る前に置いてきた黒い表紙のノート。
帰ったら、あれに少しだけ創作らしい文章を書いておけばいい。
そうすれば、黒い本そのものを見せずに済む。
とっさの言い訳としては、そこまで悪くないのかもしれなかった。
「それでは、今日は各自で読書をしながら、気になる本の話をしていきましょう」
矢部がそう言った。
「夏休み前ですし、休み中に読む本を探しておくのもいいと思います」
「夏休み中に読む本ですか」
美月が少し嬉しそうに顔を上げた。
「はい。長い休みの間に読むなら、普段より少し長い本に挑戦するのもいいですし、逆に短編集を何冊か読んでみるのもいいと思います」
「短編集」
「美月ちゃんには、短編集も合うと思いますよ」
矢部が言うと、美月はすぐに頷いた。
「あ、それ、気になります」
「読みやすいと思います。最初から長編だと少し大変かもしれませんし」
「はい。私も、まずは短いお話から読んでみたいです」
美月は机の上に置かれている本へ目を向ける。
それから、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、もうすぐ夏休みですけど、皆さんはどこかへ行く予定がありますか?」
「夏休みか」
雪が少し考える。
「私は、たぶん家にいることが多いかな。本も読みたいし」
「そうなんですね」
美月は楽しそうに頷くと、今度は矢部を見る。
「矢部さんは、何か予定がありますか?」
「私は、母の実家へ行く予定です。しばらく泊まってくることになると思います」
「いいですね」
「美月ちゃんは?」
「私は、お兄ちゃんと家族で旅行へ行く予定です」
美月がそう言った時、部室の戸が開いた。
「遅れた」
圭佑だった。
美月が振り返る。
「あ、お兄ちゃん」
「本当に来たんだな」
昌志が言うと、圭佑は少し不満そうにこちらを見た。
「来るって言っただろ」
「お前の後では信用できない」
「まだそれを言うのか」
「言うだろ」
「俺を何だと思ってるんだ」
「ただのシスコン」
「違う」
圭佑は即答した。
そのやり取りを見て、美月や他の部員たちも小さく笑った。
けれど、兄が本当に部室に来たことについては、少しだけ複雑そうにも見えた。
「お兄ちゃんも、ここにいるの?」
「ああ。少しだけな」
「……そうなんだ」
美月は笑顔のままだった。
けれど、ほんの少しだけ間があった。
昌志は、その間に気づいた。
圭佑も、さすがに気づいたらしい。
美月の顔を見て、微妙に眉を動かした。
「今、夏休みの話をしていたんです」
美月はすぐに昌志へ視線を戻した。
圭佑には、それ以上何も聞かなかった。
「昌志先輩は、どこかへ行く予定がありますか?」
「俺は水野東駅に行く」
昌志が答えると、部室の空気が一瞬だけ止まった。
美月は目を瞬かせる。
雪も矢部も、昌志の言葉の意味を考えるようにこちらを見た。
「……駅ですか?」
「ああ」
「夏休みの旅行で?」
「旅行へ行くなら、最初に駅へ行くだろ」
昌志は当然のことのように答えた。
「だから、まず水野東駅に行く」
「その先を聞いてるんだよ」
圭佑が呆れたように言った。
「でも、間違ってないだろ。電車で行くなら、最初は駅だ」
「お前、相変わらずだな」
「何がだよ」
「美月は旅行先を聞いてるんだ」
「だったら、最初からそう聞けばいいだろ」
「普通は分かるんだよ」
圭佑がため息をつく。
美月は少し困ったような顔をしたあと、こらえきれなかったように笑った。
「昌志先輩らしいです」
「何で俺が変なことを言ったみたいになってるんだ?」
「変なことは言っていません」
美月は笑いを残したまま答える。
「ただ、私が聞きたかった答えとは、少し違いました」
「ほら、違うんじゃないか」
圭佑が言う。
「でも、駅には行くだろ」
「まだ言うのかよ」
雪も矢部も、口元を押さえるようにして笑っていた。
その空気が少しだけ落ち着いてから、美月が昌志の方を見た。
「あの、昌志先輩」
「何?」
「さっき話に出ていた短編集を、実際に本屋で見てみたいんです」
「本屋?」
「はい」
美月は少しだけ背筋を伸ばした。
「面白そうな本とか、欲しい本がないか見たくて。それで……よければ、昌志先輩に一緒に来ていただきたいんです」
その言葉を聞いた瞬間、昌志は黒い本の文章を思い出した。
文芸部の部室へ行く。
彼女に、本屋へ付き合ってほしいと頼まれる。
昌志が付き合えば、彼女は少しだけ喜ぶ。
昌志が断れば、彼女は一人で本屋へ行く。
やはり、美月だった。
断れば、美月は一人で本屋へ行く。
つまり、圭佑を誘うわけではない。
昌志は、横にいる圭佑をちらりと見た。
自分が断れば、美月は一人で行く。
圭佑は表面上は平気な顔をするかもしれない。
けれど、内心では少し泣くかもしれない。
それを見るのは、少し面白いかもしれない。
そんな意地の悪い考えが、一瞬だけ浮かんだ。
だが、美月は真剣な顔で昌志を見ていた。
楽しみにしていることを、隠さずにそのまま向けてくる目だった。
昌志は小さく息を吐く。
「うん。いいよ。一緒に行こう」
美月の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「本当。せっかくだし、本屋でいろいろ見よう」
「ありがとうございます」
美月は本当に嬉しそうに笑った。
その喜び方が、入部届を出した時と同じだった。
隠しきれないというより、そもそも隠す気がない。
昌志はそれを見て、少しだけ笑ってしまう。
「美月ちゃん、すごいな」
「何がですか?」
「文芸部に入ったばかりなのに、もうそんなに本を好きになってるんだなって。ちょっと羨ましいよ。俺なんて、最近はあんまり読めてないからさ」
そう言うと、美月が一瞬だけ止まった。
圭佑も、同じように少し黙る。
雪と矢部も、顔を見合わせた。
「……昌志先輩」
「何?」
「いえ」
美月は何かを言いかけ、少しだけ頬を赤くした。
「本も、好きになりたいです」
「いいことだと思う」
「はい」
美月は小さく頷いた。
圭佑が横で、やれやれというように息を吐く。
「昌志」
「何だよ」
「お前、相変わらずだな」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
圭佑はそれ以上言わなかった。
矢部も少しだけ笑っている。
昌志だけが、何を笑われているのかよく分からなかった。
「では、行きましょう」
美月は鞄を持った。
「すぐ行くのか?」
「はい。すぐ出かけるつもりで準備していました」
「ずいぶん早いな」
「できるだけ本屋で、いろいろお話ししたかったので」
「そっか。じゃあ行こう」
昌志がそう言って部室を出ようとした時、圭佑も当然のように鞄を持った。
「俺も行く」
美月の動きが、今度ははっきり止まった。
「お兄ちゃんも?」
「ああ」
「……」
美月はすぐには返事をしなかった。
昌志はその反応を見て、思わず圭佑を見る。
「圭佑、本当に来るのか?」
「行く」
「本屋だぞ」
「分かってる」
「美月ちゃんと本を見に行くだけだぞ」
「分かってる」
圭佑は当然のように答えた。
美月は少しだけ視線を落とす。
「美月ちゃん?」
昌志が声をかけると、美月はすぐに顔を上げた。
「いえ。お兄ちゃんが来るなら、別にいいです」
「本当に?」
「はい」
言葉では、そう答えた。
けれど、少しだけ残念そうだった。
昌志は、美月が本屋へ行きたい理由が、本だけではないことに気づきかけた。
けれど、はっきりとは分からない。
ただ、圭佑が来ることで、美月の予定が少し変わったらしいことだけは分かった。
矢部が三人を見て、少し困ったように笑った。
「私はここに残って、最後に鍵を閉めておきます。三人で行ってきてください」
「すみません」
昌志が言うと、矢部は小さく首を振った。
「いえ。お気をつけて」
「ありがとうございます」
美月が頭を下げる。
昌志と圭佑も軽く頭を下げ、部室を出た。
校舎を出て、三人で駅前の方へ歩く。
美月は自然に昌志の隣を歩いた。
圭佑は、その少し横にいる。
夕方の校門前には、帰宅する生徒がまだ何人もいた。
美月は鞄を両手で持ち、少し楽しそうに歩いている。
「文芸部、どうだ?」
圭佑が聞いた。
「楽しいよ」
美月は答えた。
けれど、そのあとすぐに昌志の方を向く。
「昌志先輩は、文芸部に入ってみて、どうでしたか?」
「俺?」
「はい。嫌ではありませんでしたか?」
「ああ。思ってたより楽しいよ」
「本当ですか?」
「本当。美月ちゃんも楽しそうだったし」
そう言うと、美月は嬉しそうに笑った。
「よかったです。矢部さんも、雪先輩も、優しくしてくださいました」
「そっか」
昌志は頷きながら、少しだけ考えた。
矢部美由紀。
黒い本に、下の名前で書かれていた人物。
名簿で確認したから、あの美由紀が矢部のことだというのは分かった。
けれど、昌志はまだ、矢部がどういう人なのかをよく知らない。
「美月ちゃんから見て、矢部ってどんな人?」
「矢部さんですか?」
「ああ。部長だし、これから関わることも増えるだろうから」
黒い本に名前が出ていたから気になった、とは言えるはずがない。
美月は少し考える。
「しっかりしている人だと思います。話し方も丁寧ですし、私が入ったばかりだから、いろいろ気にしてくださいました」
「そうか」
「はい。優しい人だと思います」
「分かった。あとで雪にも聞いてみる」
「雪先輩にですか?」
「うん。矢部のこと、もう少し知ってるかもしれないし」
美月は不思議そうにしながらも、小さく頷いた。
そのまま少し歩いてから、昌志はふと思い出した。
「そういえば、美月ちゃん」
「はい」
「司とも、たまに電話してるんだよな」
「はい。少しだけですけど」
「文芸部のことも話した?」
「はい。昌志先輩が文芸部に入ったことは、話しました」
「そっか」
司がその話をどう受け取ったのかは、よく分からない。
そもそも最近の司は、何を考えているのか分からないことが増えていた。
「今日も圭佑に話したけどさ、最近、あいつのことが少し分からないんだよ」
「司ちゃんのことですか?」
「ああ。もともと素直じゃないのは分かってるけど、最近は、何か考えてるように見えるのに、それが俺には分からない」
美月は少し真面目な顔になった。
「司ちゃんは、昌志先輩のことを心配しているんだと思います」
「心配?」
「はい。司ちゃんと話していると、そう思います」
昌志はすぐには答えられなかった。
圭佑が横から言う。
「俺もそう思う」
「お前まで何だよ」
「嫌ってたら、そこまで気にしないだろ」
「そういうものか?」
「そういうものだろ」
圭佑は短く言った。
昌志は少し考えた。
司が何を考えているのかは、まだ分からない。
けれど、二人がそう言うなら、少なくとも完全に嫌われているわけではないのかもしれなかった。
「この前なんて、俺がぼーっとしてたら、司に『何考えてるの?』って聞かれたんだよ」
昌志は話を少し変えるように言った。
「それで、特に何も考えてないって答えたら」
昌志は少し顔をしかめる。
「『何も考えてないなんて、馬鹿みたいだね』って言われた」
美月が一瞬だけ固まった。
それから、吹き出すように笑った。
圭佑は前に聞いた話を思い出したように、肩を揺らしている。
「お前、その話、まだ根に持ってたのか」
「根に持つだろ」
「いや、何回聞いても面白い」
「全然面白くない」
「司ちゃん、なかなか言うよな」
「だから面白くないって」
昌志が言うと、圭佑はまた少し笑った。
美月も、普段の丁寧な笑いではなく、少し崩れた笑い方をしていた。
「本当に、仲がいいんですね」
「どこを聞いてそう思ったんだよ」
「喧嘩できるのは、仲がいいからだと思います」
「そうかな」
「そうです」
美月は自信ありげに言った。
昌志は反論しようとして、やめた。
司と仲がいいのかどうかは分からない。
ただ、何も言えない相手ではない。
言い返せるし、向こうも言ってくる。
それを仲がいいと言うのかどうかは、昌志には少し分からなかった。
「でも、美月ちゃんと圭佑も仲いいよな」
昌志が言うと、美月と圭佑が同時にこちらを見た。
「そう見えますか?」
「そう見える」
「どの辺が?」
「圭佑がついてきても、ちゃんと文句言えるところ」
「それは、言わないと伝わらないので」
「かなり伝わってると思うぞ」
昌志がそう言うと、圭佑が不満そうに眉を寄せた。
「俺は邪魔しに来たわけじゃない」
「分かってるよ」
「本当か?」
「美月ちゃんが心配なんだろ」
「だから、それだけじゃない」
「じゃあ何だよ」
「いろいろだ」
圭佑はそれ以上言わなかった。
美月はその横で、小さく息を吐く。
「お兄ちゃんは、心配しすぎなんです」
「悪いか?」
「悪くはないけど、今日は昌志先輩と本を見に行くので」
「俺もいる」
「だから言ってるの」
圭佑は少し黙った。
昌志は二人を見て、少し面白いと思った。
相沢兄妹は相沢兄妹で、うまく噛み合っていないところがある。
それでも、互いに遠慮がない。
たぶん、それも兄妹なのだろう。
駅前が近づいてくる。
夕方の通りには、人が多かった。
学校帰りの生徒。
買い物帰りの人。
駅へ急ぐ会社員。
その流れの先に、いつもの本屋が見えてきた。
昌志は少しだけ足を緩める。
ここは、遥と会ったことのある場所だった。
駅前の本屋。
黒い本を手に入れてから、何度も足を運んだ場所。
遥と偶然会い、本の話をしたこともある。
けれど、美月と圭佑の三人で来ることになるとは思わなかった。
「着きましたね」
美月が少し弾んだ声で言った。
「ああ」
昌志は本屋の入口を見上げた。
今日、黒い本に書かれていた出来事は、ここから続いていくのだろう。
三人は、そのまま本屋の中へ入っていった。




