第97話 真っ白な方に書くもの
七月七日放課後。
昌志は、圭佑と一緒に教室を出た。
文芸部の部室へ行く。
彼女に、本屋へ付き合ってほしいと頼まれる。
黒い本に書かれていたその言葉が、頭の中に残っている。
教室を出てすぐ、圭佑は少しだけ足を止めた。
「じゃあ、悪いけど俺は少し遅れて行く」
「本当に来るんだろうな」
「行くって言ってるだろ」
「お前の後では信用できない」
「俺を何だと思ってるんだ」
「ただのシスコン」
「違う」
圭佑は即答し、それから別の廊下へ曲がっていった。
昌志は少しだけその背中を見てから、文芸部の部室へ向かった。
そういえば、美月は、今日は早めに行くと言っていた。
けれど、部室の前まで行くと、中から声は聞こえなかった。
戸に手をかける。
鍵は開いていた。
「失礼します」
小さく声をかけてから中へ入る。
部室には、まだ誰もいなかった。
机と椅子。
本棚。
少しだけ紙の匂いがする静かな部屋。
昨日座った席も、そのまま目に入った。
昌志は一度廊下を振り返り、それから部室の中へ入った。
誰もいない。
今なら、少しだけ確認できる。
机の上に鞄を置き、中から黒い本を取り出した。
家で開くのも、学校で開くのも、どちらも落ち着かない。
けれど、確認しないまま放課後を過ごす方が、もっと落ち着かなかった。
昌志は黒い本を開いた。
七月七日のページ。
昨夜、午前零時を過ぎてから浮かんだ文章が、そこに残っている。
文芸部の部室へ行く。
彼女に、本屋へ付き合ってほしいと頼まれる。
昌志が付き合えば、彼女は少しだけ喜ぶ。
昌志が断れば、彼女は一人で本屋へ行く。
そして、夕方。
帰り道で、誰かが倒れるのを見る。
近づけば、少しだけ面倒なことになる。
近づかなければ、昌志はそのまま帰る。
文字を目で追う。
何度読んでも、分かるようで分からない。
彼女。
誰のことなのか。
美月か。
雪か。
それとも、他の誰かか。
文芸部の部室で頼まれるなら、完全に知らない相手ではないはずだ。
けれど、黒い本は名前を書いていない。
昌志はページを戻した。
七月六日の記述。
昨日の文芸部のことが、すでに文章になっている。
美月は、昌志が来たことを喜んだ。
雪も、昌志と本の話をした。
美由紀も、昌志が来て嬉しそうだった。
美由紀。
その名前が、やはり少し引っかかった。
美月。
雪。
そこまでは分かる。
でも、美由紀という名前は、すぐには顔と結びつかなかった。
昨日、部室にいた誰か。
文芸部員の誰か。
そう考えながら、昌志はさらに前のページをめくった。
五月の頃の記述。
六月の記述。
七月に入ってからの記述。
黒い本に書かれた自分の行動が、少しずつ増えている。
ただの予定ではない。
起きたことが、自叙伝のように残っている。
誰かに会ったこと。
誰かを助けたこと。
選ばなかったこと。
見なかったもの。
聞かなかった言葉。
その一つ一つが、文字になっている。
昌志は、いつの間にか夢中でページを追っていた。
だから、戸が開く音にも、すぐには気づかなかった。
「あれ」
声がして、昌志ははっと顔を上げた。
いつの間にか、雪と矢部が部室に入ってきていた。
二人は入口のところで立ち止まり、机の上の黒い本を見ている。
雪は少し驚いた顔をしていた。
矢部も、目を丸くしている。
「昌志くん、もう来てたんだ」
「あ、ああ」
昌志は慌てて黒い本を閉じようとした。
けれど、その動きが逆に不自然だった。
慌てて隠そうとしたせいで、余計に目立つ。
雪が少しだけ首を傾げる。
「何の本を読んでるの?」
「いや、これは」
昌志は黒い本を鞄の方へ寄せかけた。
そこで、さらにおかしいと思い直す。
隠せば隠すほど、怪しくなる。
司の時と同じだ。
慌てるから、余計に見られる。
昌志は黒い本を机の上に置いたまま、少しだけ息を整えた。
「ちょっとした本」
「ちょっとした本?」
雪が聞き返す。
矢部が、黒い表紙を見て少し考えた。
「それ、あれですか?」
「あれ?」
「中が真っ白で、自分で物語を書いていく本ですか?」
昌志は一瞬、返事に詰まった。
矢部は、黒い表紙を見ながら続ける。
「白紙の本というか、創作用のノートみたいなものですよね。ありますよね。最初は何も書かれていなくて、自分で文章を書いていくもの」
「ああ」
雪も少し納得したように頷いた。
「日記帳みたいなもの?」
「日記帳というより、物語を書くための本でしょうか」
矢部が言う。
「誰かに送ったりするんですか?」
「送る?」
「はい。自分で物語を書いて、誰かに渡すとか」
雪も、黒い本を見ながら言った。
「それとも、自分で読むための記録として残してるの?」
昌志は、少しだけ迷った。
黒い本は、もちろんそんなものではない。
けれど、今の説明は都合がよかった。
中が真っ白な本。
自分の物語を書く本。
自分で読むための記録。
それは、完全な嘘ではない気もした。
「まあ、そんなところかな」
昌志は曖昧に答えた。
「へえ」
雪は少し興味を持ったようだった。
「誰かに送られるなら、その人は幸せですね」
「そうか?」
「うん。自分のためだけに書いてくれた話って、嬉しいと思う」
雪は静かに言った。
矢部も頷く。
「少し読んでみたいですね。岐阜先輩、どんな話を書いてるんですか?」
「いや、まだ途中だから」
「途中なんですね」
「全然途中」
昌志は適当にごまかした。
物語。
どんな話か。
そんなことを聞かれても困る。
黒い本に書かれているのは、自分のことだ。
でも、それをそのまま言うわけにはいかない。
「主人公は……まあ、高校生かな」
「現代ものですか?」
矢部が聞く。
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ、はっきり決めてない」
「ミステリーとか?」
雪が言った。
「最近、昌志くん、そういうの読んでそう」
「ミステリー……になるかもしれない」
昌志は、少し考えてから言った。
「まだ、途中だけど」
「楽しそうですね」
矢部は素直にそう言った。
「もしできたら、ぜひ読ませてください」
「できたらな」
「はい」
矢部がにこりと笑う。
昌志はそこで、ふと思い出した。
「あ、そういえば」
「何ですか?」
「矢部さんは、部員の名前とか、全員知ってるよな?」
急に話題を変えたせいか、雪が少し不思議そうにした。
矢部はすぐに頷く。
「一応、部長ですから」
「名簿とかもある?」
「ありますよ」
「名簿」
昌志はその言葉に少し反応した。
校長の話を思い出したせいかもしれない。
名簿。
写真。
あの時は少し嫌な響きだった。
けれど、今は違う。
文芸部員の名前を知りたいだけだ。
「見せてもらえたりする?」
「別にいいですよ」
矢部は鞄から薄いファイルを取り出した。
「岐阜先輩も、もう同じ文芸部員ですし。住所とか連絡先も、あとで書いてもらえると助かります」
「ああ。分かった」
矢部はファイルを開き、部員名簿のページを昌志に見せた。
名前が並んでいる。
二年生。
一年生。
そして、新入部員として昌志と美月の名前も追加されている。
昌志は、さりげなく視線を動かした。
美由紀。
その名前を探す。
すぐに見つかった。
矢部美由紀。
昌志は、思わず顔を上げた。
「矢部さんの名前、美由紀って言うんですね」
「そうなんですよ」
矢部は少しだけ苦笑した。
「名字で呼ばれることが多いので、下の名前はあまり出ないんですけど」
「ああ」
「この体格で美由紀って、ちょっと合わない感じしますよね」
矢部が冗談めかして言った。
昌志はすぐに首を横に振った。
「そんなことない」
ほとんど同時に、雪も言った。
「そんなことないです」
二人の声が重なった。
矢部は少し驚いて、それから笑う。
「二人とも、ありがとうございます」
昌志は名簿にもう一度目を落とした。
美由紀。
矢部美由紀。
黒い本に書かれていた美由紀は、矢部のことだった。
それは分かった。
けれど、どうして黒い本が矢部のことを美由紀と書いたのかは、分からないままだった。
美由紀も、昌志が来て嬉しそうだった。
そう書かれていた。
矢部は、部長として場を整えていただけに見えた。
嬉しそうだったかどうかまでは、昌志にはみて分からなかった。
けれど、黒い本はそう書いた。
自分が気づかなかった表情や感情まで、黒い本には残る。
そう思うと、少し落ち着かなくなった。
「岐阜先輩」
矢部の声で、昌志は顔を上げる。
「さっきの話に戻るんですけど」
「さっきの話?」
「物語の話です。どんな話なんですか?」
「ああ」
戻された。
昌志は少し困った。
「まだ、本当に決めてないんだけど」
「はい」
「高校生が主人公で、何か変なことに巻き込まれる話……かな」
「変なこと?」
「うん。自分でもよく分からないことが起きて、それをどうにかしようとする」
「確かにミステリーっぽいですね」
雪が言った。
「そうかもな」
「事件が起きるんですか?」
矢部が聞く。
「事件というほどじゃないかもしれない」
「じゃあ、不思議な出来事?」
「そんな感じ」
昌志は曖昧に頷いた。
嘘をついている。
でも、全部が嘘ではない。
自分でもよく分からないことが起きている。
どうにかしようとしている。
そこだけは本当だった。
「今、どの辺まで書いてるんですか?」
矢部が黒い本の方へ視線を向ける。
雪も、少しだけ興味ありげに見ていた。
昌志は一瞬、黒い本を閉じようかと思った。
だが、さっきと同じだ。
隠せば怪しまれる。
それに、司にも圭佑にも真っ白に見えた。
なら、この二人にも見えない可能性が高い。
昌志は、黒い本を少しだけ開いた。
雪と矢部の視線がページに落ちる。
「あれ」
雪が小さく言った。
「まだ真っ白なんだね」
「本当ですね」
矢部も少し意外そうに頷いた。
「これから書き始める感じですか?」
「ああ。まだ、書き始めだから」
昌志はできるだけ自然に答えた。
「構想だけ先に考えてる」
「なるほど」
矢部は納得したようだった。
雪も、それ以上不思議がる様子はない。
やっぱり、見えていない。
昌志は黒い本を閉じながら、そう思った。
司にも見えなかった。
圭佑にも見えなかった。
雪にも、矢部にも見えていない。
この文字が見えているのは、自分だけ。
その事実が、少しだけ重く感じられた。
その時、部室の戸が開いた。
「失礼します」
美月の声だった。
美月は部室に入ると、昌志を見てぱっと表情を明るくした。
「あ、昌志先輩。もう来てくださってたんですね」
「ああ」
「今日も来てくれたんですね。ありがとうございます」
「礼を言われることじゃないだろ」
「でも、嬉しいので」
美月は素直にそう言った。
それから、部室の中を見回す。
雪と矢部がいることに気づくと、少しだけ残念そうな顔をした。
「あれ。もう皆さん来てたんですね」
「私たちも今来たところ」
雪が答える。
「そうなんですね」
美月は鞄を抱え直し、少しだけ肩を落とした。
「早く来て、お茶とお菓子を用意しておこうと思ってたんですけど」
「お茶とお菓子?」
昌志が聞くと、美月は少し照れたように頷いた。
「はい。この前のお礼も兼ねて、少しだけですけど」
「別に、そこまでしなくてもいいのに」
「でも、来てくれたら嬉しいので」
美月はそう言ってから、また少しだけ部室を見回した。
「先に用意して、何でもない感じで出そうと思ってたんですけど」
「何でもない感じって」
「その方が、あまり気を遣わせないかなと思って」
そう言われると、昌志は少し返事に困った。
気を遣わせないように、気を遣われている。
それはそれで、少しむずがゆい。
「十分、気を遣ってる気がするけど」
「そうですか?」
「そうだろ」
美月は少しだけ考えてから、小さく笑った。
「じゃあ、次はもっと自然にします」
「次があるのか」
「あります」
美月はすぐに答えた。
その素直さに、昌志は少しだけ言葉を詰まらせる。
雪がふと思い出したように言った。
「そういえば、美月ちゃん」
「はい?」
「昌志くん、今、物語を書いてるらしいよ」
「え?」
美月が、ぱっと昌志の方を見る。
昌志は思わず、雪を見た。
「雪」
「え、言っちゃ駄目だった?」
「駄目っていうか」
駄目ではない。
さっき自分で、そんな話にしてしまった。
中が真っ白な本に物語を書いている。
自分で読むためか、誰かに渡すためか。
そういうことにして、ごまかした。
だから雪がそう言うのも、別におかしくはない。
おかしくはないが、余計なことを言ってくれたとは思った。
矢部も、少し楽しそうに補足する。
「黒い表紙の本でした。今はもうしまっちゃいましたけど、そこに物語を書くみたいです」
「黒い表紙の本……」
美月が、小さく繰り返した。
その反応を見て、昌志は少しだけひやりとした。
美月は黒い本のことを知っているわけではない。
けれど、黒い表紙の本という言葉に、少し興味を引かれたようだった。
「昌志先輩が、物語を」
「まだ全然書いてない」
昌志は先に言った。
「構想だけ」
「そうなんですか?」
「ああ」
「でも、読んでみたいです」
美月は笑顔で言った。
「昌志先輩がどんなお話を書くのか、気になります」
「期待されても困るんだけど」
「それに」
美月は少しだけ首を傾げる。
「誰かにプレゼントするのかも、気になりますね」
「プレゼントって」
「雪さんが、誰かに送るなら幸せですねって言っていたので」
雪は少し照れたように笑った。
「うん。自分のために書いてくれた話って、嬉しいと思うから」
「分かります」
美月は素直に頷いた。
「私も、そう思います」
昌志は、鞄の中にしまった黒い本を意識した。
余計なことを言ってくれた。
そう思った。
けれど、同時に、これはこれで都合がいいのかもしれないとも思った。
黒い表紙の本。
中が真っ白な本。
そこに自分で物語を書く。
誰かに見せるためか、渡すためか。
そういうことにしてしまえば、黒い本についての不自然さは少し薄れる。
司に見られた時も、中身は真っ白だった。
圭佑にも、そう見えた。
雪にも、矢部にも、文字は見えていなかった。
なら、あの黒い本は、まだ何も書いていない創作用の本。
そう説明できる。
実際に、黒い本とは別に何か物語を書いておけば、もっと自然になるかもしれない。
昌志は、少しだけ考えた。
今日は、面倒なことになったと思った。
けれど、もしかすると、これは黒い本への疑いをそらすチャンスなのかもしれない。
そう思うと、さっきまでの焦りが少しだけ薄れた。
「まあ、完成したら、読ませるかもしれない」
昌志は曖昧に答えた。
その瞬間、美月の表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「かもしれないって言っただけだぞ」
「はい。でも、楽しみにしています」
「期待されると困るんだけど」
「期待してます」
「聞いてたか?」
「聞いてました」
美月は嬉しそうに頷いた。
その反応を見ると、今さら何も言えなくなった。
昌志は小さく息を吐く。
「……考えておく」
「はい」
美月は、また嬉しそうに頷いた。
部室の中が、少しずつにぎやかになっていく。
一年生の部員たちも入ってきて、矢部は名簿をファイルに戻した。
雪は自分の本を鞄から出す。
美月は、事前に用意できなかった茶菓子のことをまだ少し気にしているようだった。
昌志は机の下で、鞄の中の黒い本を意識する。
文芸部の部室へ行く。
彼女に、本屋へ付き合ってほしいと頼まれる。
今日の出来事が、少しずつ黒い本の文章に近づいていく。
その時は、もうすぐ来るのかもしれない。




