第96話 シスコンではない?
七月七日の朝。
学校に着くと、教室には圭佑がいた。
昌志が席に着く前に、圭佑がこちらを見た。
「昨日のあれだけどな」
「何だよ」
「俺はシスコンじゃないからな!」
朝一番の言葉がそれだった。
昌志は少しだけ目を細める。
「まだ気にしてたのか」
「気にしてない。訂正してるだけだ」
「分かった分かった」
「その言い方が分かってないだろ」
圭佑は真顔だった。
昌志は椅子に座りながら、昨日の美月を思い出した。
文芸部の部室で、真剣に本の話を聞いていた。
分からないことを素直に聞いていた。
楽しいことを、そのまま楽しそうにしていた。
今日も部活があるから、また来てほしいと言っていた。
そして、昌志にも来てほしいと言った。
「でも、昨日美月ちゃんを見てて、ちょっと分かったよ」
「何が?」
「お前が、あんなに美月ちゃんを大事にする理由」
圭佑の表情が、少しだけ変わった。
どこか得意げな顔になる。
「やっと分かったか」
「その顔がもう駄目なんだよな」
「何がだよ!」
「圭佑、お前親みたいな顔してる」
「兄だ」
「兄の表情じゃない、ほぼ父親」
「違う」
圭佑はきっぱり言った。
昌志は少し笑う。
「それで、美月ちゃんって、元気で、言いたいことがまっすぐで、明るいだろ」
「ああ」
「それで、楽しみにしてることを隠さない」
「まあな」
「そういうところが、可愛いんだろうなって思った」
圭佑は一度、深く頷いた。
「そうなんだよ」
そして、すぐに我に返ったように首を横に振った。
「いや、違うぞ!」
「何が違うんだよ」
「いや、違わないけど、違う。俺はシスコンじゃない」
「今、完全に認めかけただろ」
「認めてない」
「そういうところが、お前をシスコンに導いてるんだろうな」
「導かれてない」
圭佑は少し声を低くした。
「俺は兄として、責任感があるだけだ」
「……責任感」
「そうだ。妹を心配するのは普通だろ」
「普通だな」
「だからシスコンじゃない」
「そういうことにしてやるよ」
「してやるな。事実だ」
圭佑はまだ真剣に反論していた。
その様子がおかしくて、昌志は少し笑った。
昨日から続いている話なのに、圭佑は本気で否定している。
でも、その否定の仕方がすでに美月中心だった。
「まあ、美月ちゃんは可愛いと思うよ」
昌志は言った。
「俺も、そこは分かった」
「だろ?」
「うちの妹とは全然違うな」
「司ちゃん?」
「ああ」
昌志は机に肘をついた。
「美月ちゃんは、楽しみにしてることをそのまま言うだろ。来てほしいなら来てくださいって言うし、嬉しい時はちゃんと嬉しそうにする」
「まあ、美月はそういうところあるな」
「でも、司は違う」
昌志は少しだけ顔をしかめた。
「しょっちゅう何か言ってくるし、こっちが何か言うとすぐ反発するし、何を考えてるのか分からない時がある」
「美月とは、だいぶ違うな」
「だろ」
「でも、兄妹って、家によって全然違うんじゃないか」
「そうか?」
「たぶん。美月は分かりやすい方だと思うぞ」
「分かりやすい妹か」
「ああ。司ちゃんは……少し分かりにくい方なんだろ」
「少しで済むか?」
「そこは俺には分からない」
「それに、何か俺の行動をよく見てる感じがする」
圭佑は一瞬だけ動きを止めた。
けれど、すぐにいつもの顔に戻る。
「見てる感じって?」
「分からない。妙に美月ちゃんと連絡取ってたり、俺が文芸部に行くかどうか気にしたり、何か言いたそうな顔をしてたり」
「それは、美月が楽しみにしてるからじゃないか」
「そうかもしれないけど」
昌志は少し考えた。
「それだけじゃないんだよ」
「他にもあるのか?」
「ああ」
昌志は眉を寄せた。
「この前なんか、部屋に入ったら司がいたんだぞ」
「司ちゃんが?」
「ああ」
「お前の部屋に?」
「俺の部屋に」
「何で?」
「知らない。だから聞いたんだよ。何で俺の部屋にいるんだって」
圭佑は少しだけ目を丸くした。
もちろん、その話は知っていた。
美月から聞いている。
司が昌志の部屋に入り、黒い本を見たことも知っている。
けれど、ここで知っている顔をするわけにはいかなかった。
「それで、司ちゃんは何て言ったんだ?」
「寝ぼけて入ったとか言い出した」
圭佑は少しだけ口元を押さえた。
「寝ぼけて?」
「おかしいだろ」
「まあ……少しな」
「少しじゃないだろ」
昌志はさらに顔をしかめる。
「挙げ句の果てには、道に迷ったみたいなことまで言い出したんだぞ」
圭佑はこらえきれず、少し笑った。
「家の中で?」
「そう。家の中で」
「相変わらず面白いな、司ちゃん」
「面白くない」
「いや、ちょっと面白いだろ」
「面白くないって。こっちは本気で意味が分からないんだから」
昌志は机に肘をついたまま、少し低い声で言った。
「自分の家の中で道に迷うって何だよ。しかも俺の部屋で」
「まあ、たしかに分からないな」
「だろ」
「それで、お前はどうしたんだ?」
「どうもしてない。変な言い訳されたから、それ以上聞く気もなくなった」
昌志はため息をついた。
「最近、そういうのが多いんだよ。何か言おうとしても先に強く返されるし、こっちが見ただけで嫌そうな顔されるし、かと思えば美月ちゃんと連絡取って、文芸部には行けって何度もしつこく言ってくるし」
「なるほどな」
「理解不能だろ」
「まあ、分かりやすくはないな」
圭佑は軽く答えながらも、内心では少し笑えなくなっていた。
昌志は、ただ司の言動が分からないと言っているだけではない。
かなり警戒している。
司の言い訳も、文芸部へ行けと言われることも、美月と連絡を取っていることも、全部つながって見え始めている。
しかも、その間に美月の名前が挟まることで、余計にこじれているようにも見えた。
これは、少しまずい。
「もしかして、俺のこと嫌ってるんじゃないかと思う時がある」
「司ちゃんが?」
「ああ」
昌志は少し間を置いた。
「それか、信用されてないのかもしれない」
「信用?」
「何度も言われるんだよ。美月さんが楽しみにしてるから、文芸部に行けって」
「まあ、司ちゃんも美月と連絡取ってるみたいだからな」
「それは分かる。でも、何度も言われると、俺が美月ちゃんをがっかりさせると思われてるみたいだろ」
「そういう意味じゃないと思うぞ」
「そうか?」
「たぶんな」
「美月ちゃんのために言ってるのかもしれないけど、そのせいで、逆に司が俺を信用してないみたいに見えるんだよ」
圭佑は言葉に詰まった。
司は、昌志を心配している。
美月も、司も、たぶん悪気はない。
けれど、その結果として、昌志が司に対して不信感を持ち始めている。
美月の名前を出して文芸部へ行かせようとするほど、昌志の中で司の印象が悪くなっている。
それは、完全に逆効果だった。
「嫌ってるなら、わざわざ文芸部行けなんて言わないだろ」
「そうか?」
「たぶんな」
圭佑は軽く答えた。
「司ちゃんは司ちゃんなりに、お前のこと気にしてるんじゃないか」
「そういうものか?」
「少なくとも、どうでもいいと思ってるなら、そこまで気にしないだろ」
「それならいいけどな」
「たぶん、大丈夫だと思うぞ」
「たぶんか」
「兄妹のことなんて、外から見たら分からないからな」
「お前が言うと説得力あるのかないのか分からない」
「ある」
「本当かよ」
「ある」
圭佑は強めに言った。
昌志は少しだけ笑った。
その顔を見て、圭佑は内心でため息をつく。
これは、後で美月に言った方がいい。
司が少し踏み込みすぎているかもしれない。
それに、美月の名前を出して昌志を動かそうとするのも、今は逆効果かもしれない。
心配して動いているはずなのに、そのせいで昌志が家族を警戒し始めている。
それでは本末転倒だった。
授業が始まってからも、休み時間になるたびにその話は少しずつ続いた。
圭佑はシスコンではない。
兄として普通に心配しているだけ。
美月が楽しみにしているなら確認するのは当然。
昌志が文芸部に行くかどうか気にするのも、別に美月のためだけではない。
そういう説明を、圭佑は何度もした。
昌志はそのたびに、分かった分かった、と返した。
分かったと言いながら、あまり分かっていない顔をしていたせいか、圭佑は少しずつむきになっていった。
昼休みになって、昌志がスマホを見ると、美月からメッセージが来ていた。
『今日、文芸部室に来られそうですか?』
短い文章なのに、美月の声で聞こえる気がした。
昌志は少し考えて、返信する。
『一応、行くつもり』
すぐに返事が来た。
『よかったです。私、先に行って用意してますね』
用意。
何の用意なのかは分からない。
けれど、美月が本当に楽しみにしていることだけは伝わってきた。
昌志は画面を見ながら、少しだけ笑った。
『分かった』
そう返してスマホを置こうとした時、横から圭佑の声がした。
「美月だろ」
昌志は思わず圭佑を見る。
「何で分かるんだよ」
「何となく」
「何となくで当てるな」
「当たってたか」
「……当たってた」
圭佑は少しだけ得意そうな顔をした。
昌志はため息をつく。
「やっぱりシスコンなんじゃねえか」
「違う」
「今のはかなりそれっぽかったぞ」
「違う。美月が昨日から文芸部のことを楽しみにしていたのを知ってるから、自然に分かっただけだ」
「それをシスコンって言うんじゃないのか」
「言わない」
圭佑は即答した。
昌志はスマホを鞄にしまう。
「文芸部室で、放課後会いましょうって感じらしい」
「今日、文芸部あるのか?」
「あるらしい。火曜だから、普通に活動日みたいだ」
「入ったばかりだもんな」
「ああ。まだ細かいことはよく分かってないけど」
圭佑は少し考えた。
美月が文芸部を楽しみにしていることは分かっている。
それだけなら、昌志に任せておけばいい。
けれど、さっきの司の話が引っかかっていた。
今のままだと、美月も司も、昌志を心配しているつもりで、逆に昌志を追い詰めてしまうかもしれない。
後で美月に伝える必要がある。
そう思った。
「なあ」
「何だよ」
「今日、文芸部に行くなら、後で少し顔出すかもしれない」
「は?」
「時間があったらな」
「何でだよ」
「少し気になるから」
「何が」
「美月がちゃんとやれてるかとか」
「ほら、シスコン」
「違う」
「今のは完全にシスコンだろ」
「違う。兄として普通に心配してるだけだ」
「それをシスコンって言うんじゃないのか」
「言わない」
圭佑はすぐに否定した。
「それに、文芸部の様子も見てみたい」
「つまらないぞ。たぶん本の話ばっかりだ」
「別にいい」
「野球は?」
「今日はやることない」
「本当に来るのか」
「時間があったらな」
「美月ちゃんの兄として?」
「親友としてだ」
「それもシスコンの言い換えじゃないか?」
「違う」
圭佑は真顔で言った。
昌志は少しだけ笑う。
「まあ、来るなら来ればいいけど」
「じゃあ、行けたら行く」
「その言い方、だいたい来ないやつだぞ」
「行く時は行く」
「どっちだよ」
「分からん」
圭佑はそう言って、少しだけ視線を落とした。
本当は、美月だけが気になっているわけではない。
昌志も、司も気になっている。
ただ、それを今ここで昌志に言うわけにはいかなかった。
その後も、休み時間になるたびに、文芸部へ行くのか行かないのかという話になった。
圭佑は、時間があれば行くと言う。
昌志は、つまらないかもしれないと言う。
圭佑は、それでも一度見てみたいと言う。
昌志は、美月ちゃんの兄としてか、と聞く。
圭佑は、親友としてだ、と言う。
昌志が、それもシスコンの言い換えじゃないかと言うと、圭佑は違うと返す。
そんな会話が、結局一日中続いた。
午後の授業が終わる頃には、昌志も、圭佑が来るなら来るで仕方ないと思うようになっていた。




