第95話 妹がわからない
七月七日の朝。
朝、目が覚めてから、昌志はしばらく布団の中で天井を見ていた。
すぐに起きる気になれなかった。
眠かったわけではない。
体が重かったわけでもない。
ただ、考えがまとまらなかった。
最近、自分は悪い方の選択肢を選ばないようにしている。
火事の時のように、明らかに誰かを助けなければいけないものは別だ。
けれど、それ以外はできるだけ避けている。
嫌なものを見る。
面倒なことになる。
疑われる。
痛みが残る。
そう書かれているものは、なるべく選ばない。
それ自体は間違っていないはずだった。
でも、最近は、明らかに良い選択肢も選ばなくなっている気がする。
いや、選ぼうとしている。
選ぶつもりではいる。
けれど、本当にそれが良い選択肢なのか分からなくなっている。
文芸部へ行けば、彼女たちが喜ぶ。
本屋へ付き合えば、彼女が少しだけ喜ぶ。
そう書かれているなら、良い方に見える。
でも、その結果、次の出来事が増えていく。
人が増えていく。
関わる相手が増えていく。
それは本当に良いことなのか。
悪いものを避けて、良いものを選んでいるつもりでいる。
でも、その選び方が正しいのかどうか、もう自分にはよく分からなかった。
昌志は寝返りを打った。
机の上には、黒い本がある。
閉じている。
それでも、昨日の夜に見た文字は頭に残っている。
文芸部の部室へ行く。
彼女に、本屋へ付き合ってほしいと頼まれる。
付き合えば、彼女は少しだけ喜ぶ。
断れば、彼女は一人で本屋へ行く。
そして、もう一つ。
帰り道で、誰かが倒れるのを見る。
近づけば、少しだけ面倒なことになる。
近づかなければ、昌志はそのまま帰る。
考えても、分からない。
分からないことは、いつまでも考えても分からない。
昌志は布団から起き上がった。
とりあえず、今日の予定だけを考えることにした。
悪い方は、取らない方がよさそうだ。
倒れている誰かを見る。
面倒なことになる。
その書き方は、どう考えても嫌な方だった。
文芸部の方は、取るつもりでいい。
彼女が誰なのかは分からない。
でも、文芸部の部室で頼まれるなら、たぶん知っている相手だ。
美月かもしれない。
雪かもしれない。
あるいは、別の文芸部員かもしれない。
少なくとも、完全に知らない相手ではない。
それに、昨日の黒い本には、もう一つ気になる名前もあった。
美由紀。
美月でも、雪でもない。
昨日の文芸部にいた誰かの名前なのだろうか。
考えてみれば、昌志はまだ文芸部員全員の名前をちゃんと覚えているわけではない。
部長の矢部の下の名前も、はっきりとは覚えていなかった。
今日、部室に行ったら少し聞いてみてもいいかもしれない。
今日は火曜日だ。
文芸部の正式な活動日でもある。
昨日、美月も、今日も来てほしいと言っていた。
なら、部室へ行く理由はある。
昌志はそれだけ決めて、制服に着替えた。
階段を下りると、司はもうリビングにいた。
いつもより少し早い。
朝食の席について、制服姿のままトーストを食べている。
昌志はその姿を見て、少しだけ足を止めた。
司の制服は、今どきの学校ではあまり見ない、昔ながらのセーラー服だった。
毎日見ているから慣れているが、改めて見るとかなり古い形をしている。
今、町でセーラー服を着ている女子高生なんて、ほとんど見かけない。
司の学校はかなり古い学校らしく、制服も昔ながらの形を残している。
けれど、それが好きで入学する生徒もいるらしい。
古いだけではなく、むしろ人気があると聞いたことがある。
たしかに、町を歩いていると目立つ。
見慣れない人には、少し興味を引くのかもしれない。
少し見ていただけなのに、司はすぐに嫌そうな顔をした。
「何?」
司がこちらを見る。
というより、少し睨んでいるようにも見えた。
「いや、今日は早いなと思って」
「ふうん」
司は短く返した。
最近、こういうことが多い気がする。
ただ見ただけで嫌そうな顔をされる。
何か言おうとすると、先に「何?」と強めに返される。
それなら何も言わない方がいいのかと思って黙っていると、それはそれで機嫌が悪そうに見える。
優しい言葉でもかけようかと思う時もある。
けれど、実際に口にしようとすると、先に司の方から刺すような言い方をされて、結局何も言えなくなる。
この前だってそうだった。
勝手に部屋へ入っていた司に、何してるんだと聞いたら、道に迷ったなどと意味の分からないことを言っていた。
自分の家の中で、どうやって道に迷うのか。
考えても分からない。
最近の司は、昌志には少し理解不能だった。
美月ちゃんぐらい素直だったらいいんだけど。
「うん。ちょっと早めに出る」
「何かあるのか?」
「約束があるから」
「友達?」
「まあ、そんな感じ」
司はそれ以上説明しなかった。
昌志も深くは聞かなかった。
席に座り、朝食を取る。
母が台所から声をかけてくる。
「昌志、今日は部活?」
「たぶん」
「たぶん?」
「文芸部はあるらしいけど、俺もまだよく分かってない」
母は苦笑した。
司はトーストを食べ終えると、鞄を持って立ち上がった。
「じゃあ、先に行くね」
「ああ」
「兄ちゃんも、文芸部ちゃんと行きなよ」
「司までそれ言うのか」
「美月さん、楽しみにしてるから」
「分かってるよ」
「ならいいけど」
司はそう言って、先に家を出ていった。
昌志はその背中を見送った。
司は、最近よく美月の名前を出す。
美月が楽しみにしている。
文芸部へ行きなよ。
ちゃんと行きなよ。
そう言われるたびに、少しだけ引っかかる。
司は、自分が文芸部へ行かないと思っているのだろうか。
美月をがっかりさせるようなことをすると、そう思っているのだろうか。
嫌われている、とまでは思わない。
けれど、信用されていないのかもしれない。
そう考えると、少し落ち着かなかった。
美月のために言っているのだとしても、何度も言われると、司の中で自分がずいぶん信用のない兄になっているように思えてくる。
昌志はゆっくり朝食を取り、支度をしてから学校へ向かった。




