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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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幕間9 見えているもの

 七月六日の夜。


 圭佑は自分の部屋で、スマホを手にしていた。


 画面には、瑞美遥の名前が表示されている。


 電話をかけるかどうか、少しだけ迷った。


 昼休みに美月から聞いた話。


 朝の校長の話。


 昌志の黒い本。


 傘。


 司の部屋侵入。


 それらを自分一人で抱えているには、少し重かった。


 だから、圭佑は通話ボタンを押した。


 呼び出し音が数回鳴る。


 やがて、遥が出た。


『はい。相沢さん?』


「すみません。今、大丈夫ですか?」


『大丈夫です。何かありましたか?』


「昌志のことで、少し話したいことがあります」


 電話の向こうで、ほんの少し間があった。


『昌志さんのことですか』


「はい」


 圭佑はベッドに腰を下ろした。


 どこから話すべきか少し迷ったが、順番に話すことにした。


 朝のショートホームルームで、校長が話したこと。


 市役所近くで、道に迷っていたご婦人を助けた三年生がいたこと。


 その生徒が名前を名乗らずに立ち去ったこと。


 首元の校章で水野東高校の生徒だと分かり、色から三年生だと見られていること。


 そのご婦人が学校へ感謝の連絡を入れたこと。


 そして、学校側が三年生の名簿や写真で確認することもできると伝えたが、ご婦人はそれを断ったこと。


『断ったんですか』


「はい」


 圭佑は、朝の校長の言葉を思い出しながら言った。


「本人が名乗りたくない、謙虚な方なのに、まるで犯人探しみたいなことはしたくないって言ったそうです」


『……そうですか』


「校長も、それに賛成するって言ってました。善意でやったことを、無理に探し出すべきじゃないって」


 圭佑は少し黙った。


 朝は、ただ昌志かどうかが気になっていた。


 けれど、今になって思い返すと、あの話には別の意味があった気がする。


「誰がやったのかより、困っている人を助けたこと自体が大事なんじゃないかって。そういう話だったと思います」


『はい』


「それを聞いて、ちょっと考えさせられました」


 遥は黙って聞いていた。


 圭佑は続けた。


「俺も美月も、それが昌志じゃないかと思っています」


『相沢さんも、ですか』


「はい。でも、正直分かりません」


 圭佑は言葉を選びながら話す。


「火事の時は、分かるんです。あれは人命救助だった。目立つし、騒ぎも大きい。名乗ったらいろいろ聞かれる。だから逃げたんだって言われれば、まあ分かります」


『はい』


「でも、今回は道案内です。名前くらい名乗ってもよかったはずなんです。お礼を言われて、普通に受け取ればいいだけですから」


『そこまで隠れる必要はない、ということですね』


「はい。だから、そこが逆に引っかかっています」


 昌志かもしれない。


 昌志ではないかもしれない。


 どちらもあり得る。


 だからこそ、分からない。


「それから、土曜日のことも聞きました」


 圭佑は、美月から聞いた話を遥に伝えた。


 土曜日、昌志が雨も降っていないのに傘を二本持って出かけたこと。


 その一本を、図書館で会った美月に貸したこと。


 ただし、そのこと自体は説明できなくもないこと。


「俺、土曜日に昌志から聞かれたんです。美月がどこか出かける予定があるかって」


『美月さんの予定を?』


「はい。俺は、たぶん図書館か本屋じゃないかって答えました」


『それで、昌志さんは図書館へ行った』


「たぶん」


 圭佑は天井を見た。


「だから、美月の分も傘を持っていったんだと考えれば、そこまで不思議ではないんです」


『でも、雨が降ることは分かっていたように見えた』


「そこは怪しいです。でも、傘二本だけなら、まだ偶然で済ませられます」


 遥は何も言わなかった。


 圭佑は、さらに続ける。


 司が昌志の部屋に入ったこと。


 昌志が大事にしている黒い本を見たこと。


 その中身は真っ白だったこと。


 けれど、昌志はその本を必死に取り上げたこと。


 朝から司に「俺の部屋に入るな」と言っていて、まるで司が部屋に入ることを気にしていたようだったこと。


 圭佑が話している間、遥は一度も口を挟まなかった。


 全部聞き終えたあと、しばらく沈黙があった。


 先に口を開いたのは、遥だった。


『これで、だいたい分かってきましたね』


「分かったんですか?」


『はい』


「何がですか」


『昌志さんが、何を隠しているのかです』


 遥は静かに言った。


『たぶん、昌志さんは未来が見えています』


 圭佑は一瞬、言葉を失った。


「……未来、ですか」


『はい』


「さすがに、それは」


『普通はそう思います』


 遥の声は落ち着いていた。


『でも、そう考えると説明がつくことが多すぎます』


「説明がつく?」


『前のスクラッチくじのこと、覚えていますか?』


「ああ、はい」


 圭佑は眉を寄せた。


 昌志が、一枚だけ買ったスクラッチくじを当てた時のことだ。


 あの時も妙だった。


 偶然と言えば偶然だ。


 けれど、今になって考えると、ただの偶然に見えない。


『一枚だけで当てたこと。火事の時に、必要な場所へ行ったこと。今回、雨が降る前から傘を二本持っていたこと。市役所近くで、道に迷っているご婦人を助けたこと』


 遥は一つずつ並べた。


『全部、時間と場所が合いすぎています』


「偶然かもしれませんよ」


『一回や二回なら、そうです』


 遥はすぐに否定しなかった。


『でも、もう何回も起きています』


 圭佑は返事ができなかった。


 一回なら偶然でいい。


 スクラッチくじも。


 火事も。


 傘も。


 道案内も。


 ひとつずつなら、偶然や勘で片づけられる。


 けれど、全部重なると話が変わる。


 昌志は、必要な場所にいる。


 必要な時間に動いている。


 そして、そのあと隠そうとする。


「未来が見えている、ですか」


 圭佑は小さく呟いた。


「本当にそんなことがあるんですか?」


『分かりません』


 遥は正直に答えた。


『でも、そう見立てると、一番矛盾が少ないです』


「黒い本は?」


『たぶん、その本が関係しています』


「でも、真っ白なんですよね」


『司さんには、そう見えた。相沢さんにも、前にそう見えた』


「はい」


『でも、昌志さんには何かが見えているのかもしれません』


「それは、想像ですよね」


 圭佑が言うと、電話の向こうで遥が黙った。


「俺も学校で見たことはありますけど、あれはただの本でした。中身も真っ白でしたし」


『はい』


「日記帳か、スケジュール帳みたいなものかもしれません」


『日記帳か、スケジュール帳』


「はい。もちろん、変なところはあります。でも、黒い本に未来が書いてあるって決めつけるには、まだ早い気がします」


 遥はしばらく黙っていた。


 そして、少しだけ落ち着いた声で言った。


『そうかもしれません』


「え?」


『あなたの言うことの方が正しいかもしれません、相沢さん』


 圭佑は少し驚いた。


 遥が、あっさり引いたからだ。


『私は、少し考えを急ぎすぎていたのかもしれません』


「いや、俺も完全に否定できるわけじゃないです」


『はい。でも、根拠のない部分まで事実のように扱うのはよくありません』


「そうですね」


『黒い本については、まだ分からない。そうしておいた方がいいですね』


「はい」


 圭佑はうなずいた。


 未来が見える。


 黒い本。


 どちらも可能性としては残る。


 けれど、決めつけるには足りない。


 そう考えた方が、今はまだまともだった。


「それに、未来が見えるっていうのも、ちょっとおかしくないですか?」


『おかしい、ですか?』


「はい。未来が見えるなら、怪我をする必要がないと思うんです」


 圭佑は思ったことをそのまま口にした。


「昌志、よく怪我してます。危ない目にも遭ってます。未来が見えるなら、そこまで自分が傷つくような動き方をしますか?」


『それは……』


「俺には、単純に未来が見えているだけとは思えません」


 遥はすぐには答えなかった。


 電話の向こうで、息を整えるような気配がする。


『未来が見えていても、避けられないことがあるのかもしれません』


「避けられないこと?」


『はい。あるいは、怪我をすることでしか変えられないことがあるのかもしれません』


「ああ、まあ」


『もちろん、全部想像です』


 遥はすぐに付け加えた。


『決めつけるつもりはありません』


「それならいいです」


 圭佑は少しだけ息を吐いた。


 未来が見えている。


 黒い本に何かがある。


 そう考えれば説明がつく部分はある。


 けれど、分からない部分も残る。


 何より、昌志本人が何も話していない。


 その状態で、勝手に答えを決めてしまうのは危ない気がした。


「でも、それなら」


 圭佑は言った。


「昌志は、何かを知っていて、それで人を助けているってことですかね」


『可能性はあります』


「悪いことじゃないですね」


『はい』


「困っている人を助けているだけですから」


『そうです』


 遥はそこで、少しだけ声を落とした。


『ただ、昌志さんはそれを隠している』


「隠すと思います。そんなもの」


『はい。隠すと思います』


 圭佑は、昼休みに美月から言われた言葉を思い出した。


「美月にも言われました」


『美月さんに?』


「はい。隠し事の一つや二つくらい、誰にでもあるって」


 電話の向こうで、遥が黙った。


「昌志にも、それくらいあるだろうって」


『……そうですね』


 遥の声が、少しだけ小さくなった。


『私にも、あります』


「ありますよね」


『はい』


「俺にもあります」


 圭佑は天井を見た。


「司ちゃんにも、美月にも、たぶんあります。誰だって、言いたくないことくらいあります」


『……はい』


「それが悪いこととは限りません」


 圭佑は、自分で言いながら少し苦くなった。


 その通りだと思った。


 誰にでも、言いたくないことはある。


 秘密くらいある。


 昌志が何かを知っているのだとしても、それを隠す理由はあるのだろう。


 言えば信じてもらえない。


 下手をすれば、気味悪がられる。


 それに、昌志がやっていることは、今のところ誰かを傷つけることではない。


 むしろ、助けている。


 それなのに。


 圭佑は、朝の校長の話をもう一度思い出した。


 本人が名乗りたくないなら、無理に探し出すべきではない。


 善意で行ったことを、犯人探しのように扱うべきではない。


 誰がやったのかより、その行動自体を見ればいい。


 校長は、そう言っていた。


 それは、おばあさんを助けた生徒についての話だった。


 けれど、今の自分たちにも当てはまる気がした。


 司が昌志の部屋に入った。


 美月がその話を聞いた。


 圭佑は美月から聞き、今こうして遥に話している。


 昌志の知らないところで、昌志の隠し事を探っている。


「もしかして」


 圭佑は低い声で言った。


「俺たちがやっていることって、間違ってるんじゃないですか」


 遥はすぐには答えなかった。


 圭佑は続ける。


「昌志が悪いことをしているなら別です。でも、そうじゃない。人を助けてる。名前も出さないで、見返りも求めてない」


『はい』


「それなのに、俺たちはその理由を知りたがってる」


 言葉にすると、胸の中が少し重くなった。


 昌志を心配している。


 それは本当だ。


 何か危ないことをしているなら止めたい。


 それも本当だ。


 けれど、それだけではないのかもしれない。


 分からないままだと不安だから。


 昌志が何を隠しているのか気になるから。


 自分たちが安心したいから。


 そのために、本人が隠しているものを、勝手に暴こうとしている。


「暴いたとして、どうするんですかね」


 圭佑は小さく言った。


「俺たちは、何がしたいんでしょう」


 電話の向こうで、遥が息をのむ気配がした。


 すぐには返事がない。


 遥も、答えに困っているのだろう。


「昌志のためだって言いながら、結局、俺たちが不安を消したいだけなのかもしれません」


 圭佑がそう言うと、電話の向こうで遥が小さく息を吸った。


 返す言葉を探しているようだった。


 けれど、すぐには何も言えないらしい。


 しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。


『……昌志さんの隠していることを、無理に暴こうとするのは、よくないと思います』


 遥がようやく言った。


「ですよね」


『はい。昌志さんが悪いことをしているなら別です。でも、今のところ、昌志さんは人を助けています』


「はい」


『それなら、本人が話したくないことを、無理に聞き出そうとするのは違う気がします』


「俺もそう思います」


 圭佑は静かに答えた。


「昌志が本当に危ないことをしそうなら、その時は止めます。でも、隠しているからって、こっちから無理に暴くのはやめましょう」


『はい』


 遥の声も、少し落ち着いた。


『そこは、二人で決めておきましょう』


「はい」


 圭佑はうなずいた。


 少なくとも、その線だけは越えない。


 昌志を心配することと、昌志の秘密を勝手に暴くことは、同じではない。


 そう思っておかないと、どこまでも踏み込んでしまいそうだった。


「美月と司ちゃんにも、言っておきます」


『何をですか?』


「これ以上、昌志のことを調べすぎるのはやめようって」


『はい』


「もちろん、心配しないって意味じゃないです。見てはいます。でも、部屋に入ったり、本人が言わないことを無理に聞き出したり、そういうのはやめた方がいい」


『そうですね』


「昌志が本当に困ってるなら、その時は助ける。でも、秘密を暴くために動くのは違う」


『私も、そう思います』


 圭佑は少しだけ肩の力を抜いた。


 答えは出ていない。


 昌志が何を隠しているのかも分からない。


 未来が見えているのかもしれない。


 黒い本が関係しているのかもしれない。


 ただの偶然が重なっているだけなのかもしれない。


 それでも、今決めるべきことはあった。


 知りたいからといって、何をしてもいいわけではない。


「じゃあ、今日はここまでにしましょう」


『はい』


「また、お互い何かあったら連絡しましょう」


『分かりました』


「それと、さっき決めたことは忘れないでください」


『昌志さんの秘密を、無理に暴こうとしないことですね』


「はい」


『忘れません』


 遥はそう言ってから、少しだけ間を置いた。


『やっぱり、昌志さんが話してくれるのを待った方がいいのかもしれませんね』


 圭佑は、すぐには答えなかった。


 未来が見えているのかもしれない。


 黒い本が関係しているのかもしれない。


 けれど、それはまだ自分たちが勝手に考えているだけだ。


 昌志本人が、何かを言ったわけではない。


「そうかもしれません」


 圭佑は静かに言った。


「無理に暴くんじゃなくて、昌志が話してくれるのを待った方がいいのかもしれません」


『はい』


「もちろん、本当に危ない時は止めます。でも、そうじゃないなら」


 圭佑はスマホを握り直した。


「待ちましょう」


『……はい』


 遥の声が、少しだけやわらかくなった。


『待ちましょう』


「じゃあ、また」


『はい。また』


 通話が切れる。


 スマホの画面が暗くなった。


 圭佑はしばらく、その画面を見ていた。


 未来が見えているのかもしれない。


 そうではないのかもしれない。


 黒い本が関係しているのかもしれない。


 ただの本なのかもしれない。


 答えに近づいたようで、結局はまだ何も分かっていない。


 ただ、一つだけ決めた。


 昌志が話したくないことを、無理に暴くのはやめる。


 昌志が自分から話してくれるまで、待つ。


 それが、今の自分たちにできる最低限の線引きだと思った。

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