第94話 本屋に付き合ってほしい
七月六日の夜。
家に帰る頃には、外は暗くなっていた。
文芸部の部室で過ごした時間が、まだ頭の中に残っている。
美月は楽しそうだった。
雪も、思っていたより本の話をしていた。
矢部は部室の空気をよく見ていて、他の部員たちも美月に優しかった。
男一人でどうなるかと思っていたが、思ったほど居づらくはなかった。
むしろ、少し楽しかった。
それが少しだけ不思議だった。
「ただいま」
玄関でそう言うと、奥から母の声が返ってきた。
「おかえり。ご飯できてるわよ」
「うん」
昌志は靴を脱ぎ、自分の部屋に鞄を置いてからリビングへ向かった。
夕食はいつも通りだった。
母が学校のことを少し聞き、司が横から文芸部のことを聞いてきた。
「兄ちゃん、ちゃんと行った?」
「行ったよ」
「美月さん、いた?」
「いた」
「楽しそうだった?」
「かなり」
司は少し満足そうに頷いた。
「ならよかった」
「何で司がそんなに安心するんだよ」
「美月さんが楽しみにしてたから」
「お前、美月ちゃんと仲いいな」
「普通だよ」
司はそう言って、少しだけ目をそらした。
昌志はそれ以上聞かなかった。
夕食を終えて、自分の部屋に戻る。
机の前に座り、スマホを見ると、圭佑からメッセージが来ていた。
『美月、かなり喜んでたぞ』
短い文章だった。
けれど、その文面だけで、圭佑がどんな顔で打ったのか何となく分かる。
昌志は少し考えてから、返信した。
『相変わらずシスコンだな』
送ってすぐ、既読がついた。
そして、すぐに返事が来る。
『違う。兄として普通に報告しただけだ』
昌志は思わず笑った。
反論が早すぎる。
その早さが、もう答えのようなものだった。
『そういうところだぞ』
昌志が送ると、圭佑からまたすぐに返ってきた。
『お前に言われたくない』
今度は少しだけ、昌志は画面を見たまま黙った。
お前に言われたくない。
その言葉が、冗談なのか、本気なのか、少し分からなかった。
たぶん両方だ。
昌志はスマホを机に置いた。
今日の美月を思い出す。
文芸部の部室で、真剣に本の話を聞いていた。
分からないことを恥ずかしがらずに聞いていた。
楽しいことを、楽しいとそのまま顔に出していた。
明日も部活があるから、来てほしいと言った。
素直で、まっすぐで、少し強引で。
けれど、それが嫌ではなかった。
圭佑が美月を大事にする理由が、少しだけ分かった気がした。
妹だから。
それもある。
でも、それだけではない。
美月は、誰かに大事にされる理由をちゃんと持っている。
今日、少しだけそれが分かった。
昌志は椅子にもたれかかった。
そして、机の上の黒い本を見る。
今日は、文芸部へ行った。
彼女たちが待っていた。
美月と雪がいて、矢部や他の部員たちと本の話をした。
黒い本に書かれていた出来事は、終わったはずだ。
けれど、まだ日付は変わっていない。
新しい文章が浮かぶのは、午前零時を過ぎてからだ。
昌志は黒い本に手を伸ばしかけて、それをやめた。
今開いても、七月七日のことは分からない。
分からないと分かっているのに、確かめようとしてしまう。
それが少し嫌だった。
昌志は机に向かい、文芸部で聞いた本のタイトルをノートに書き出してみた。
矢部が挙げた本。
雪が好きだと言った本。
美月が途中まで読んでいると言っていた短編集。
書いているうちに、少しだけ楽しくなった。
黒い本とは関係ない。
ただ、読んでみたい本の名前を並べているだけだ。
それが普通のことのようで、少しだけ安心した。
けれど、時計の針が進むたびに、意識は机の端へ向かってしまう。
黒い本は、静かにそこにある。
閉じている間は、ただの黒い本にしか見えない。
それなのに、日付が変われば、また勝手に文章が浮かぶ。
今日のことが書かれる。
明日のことが書かれる。
それを見ないで眠ることは、もうできそうになかった。
* *
やがて、時計の針が午前零時を越えた。
昌志は顔を上げる。
机の上の黒い本が、静かにそこにある。
少しだけ迷ってから、表紙を開いた。
七月六日の文字が、ゆっくり浮かんでいた。
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――七月六日、放課後。
文芸部の部室で、
彼女たちが待っていた。
昌志が行くと、
彼女たちは少しだけ喜んだ。
美月は、
昌志が来たことを喜んだ。
雪も、
昌志と本の話をした。
美由紀も、
昌志が来て嬉しそうだった。
昌志は、
他の部員たちとも話した。
文芸部の部室で、
しばらく本の話をした。
美月は、
初めての文芸部を楽しんだ。
昌志は、
美月が文芸部でやっていけそうだと思った。
――七月六日、夕方。
帰り道で、
聞かなくてもいい言葉を聞かなかった。
立ち止まらなかったことで、
少しだけ嫌なものを見なかった。
その言葉は、
昌志の背中には残らなかった。
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昌志は、黒い本の文章を読み返した。
美月。
雪。
そこまでは分かる。
けれど、一つだけ知らない名前があった。
美由紀。
「……誰だ?」
思わず声が漏れた。
今日、文芸部の部室にいた誰かだろうか。
部員たちの名前を、昌志はまだちゃんと覚えていない。
会ったことがない相手ではないのかもしれない。
今日、同じ部室にいたのかもしれない。
ただ、昌志が名前を知らなかっただけなのかもしれない。
それでも、自分の知らない名前が黒い本に出てくるのは、少し妙な気分だった。
美由紀も、昌志が来て嬉しそうだった。
そう書かれている。
昌志には、誰のことなのか分からない。
けれど、黒い本には分かっている。
自分が知らないところで、自分が来たことを喜んだ人がいた。
そのことだけが、文章として残っている。
昌志は、もう一度その名前を見た。
美由紀。
覚えておいた方がいいのだろうか。
そう思ったが、今はまだ、顔も分からなかった。
それから昌志は、最後の方へ目を移した。
帰り道で、聞かなくてもいい言葉を聞かなかった。
つまり、何かはあったのだ。
自分が気づかなかっただけかもしれない。
通らなかった道にあったのかもしれない。
立ち止まらなかったから、見なかっただけかもしれない。
何だったのかは、分からない。
分からないまま終わった。
それでいいのかどうかも、分からない。
けれど、今日の文芸部は悪くなかった。
美月は楽しそうだった。
雪とも話せた。
他の部員たちも、思っていたより話しやすかった。
それなら、今日はそれでいい。
昌志は続くページを見た。
七月七日の文字が、ゆっくり浮かび上がっていた。
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――七月七日、放課後。
文芸部の部室へ行く。
彼女に、
本屋へ付き合ってほしいと頼まれる。
昌志が付き合えば、
彼女は少しだけ喜ぶ。
昌志が断れば、
彼女は一人で本屋へ行く。
――七月七日、夕方。
帰り道で、
誰かが倒れるのを見る。
近づけば、
少しだけ面倒なことになる。
近づかなければ、
昌志はそのまま帰る。
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昌志は、最初の記述を見つめた。
文芸部の部室へ行く。
彼女に、本屋へ付き合ってほしいと頼まれる。
彼女。
誰のことだろう。
美月かもしれない。
雪かもしれない。
文芸部の誰かかもしれない。
名前は出ていない。
でも、文芸部の部室で頼まれるのなら、完全に知らない相手ではないはずだ。
少なくとも、今日いた誰かだ。
付き合えば、彼女は少しだけ喜ぶ。
断れば、一人で本屋へ行く。
悪い内容には見えなかった。
むしろ、付き合った方がいい。
誰かが本屋へ行きたいと言う。
それに付き合う。
それだけのことだ。
昌志は次の記述に目を動かした。
帰り道で、誰かが倒れるのを見る。
近づけば、少しだけ面倒なことになる。
近づかなければ、昌志はそのまま帰る。
こちらは、少し嫌だった。
倒れる。
誰か。
面倒なこと。
どれもはっきりしない。
ただ、見てしまえば無視しづらい。
近づけば面倒になる。
近づかなければ、そのまま帰れる。
そう書かれている。
昌志は黒い本を閉じた。
明日は、文芸部へ行く。
そこで、誰かに本屋へ誘われる。
もう一つの方は、できれば関わりたくない。
そう思ったところで、自分が少し前から同じことを何度も考えていることに気づいた。
できれば関わりたくない。
でも、見てしまったら、たぶん放っておけない。
黒い本は、それを分かっているような書き方をしている。
昌志は閉じた黒い本を見つめた。
文芸部。
本屋。
彼女。
誰かが倒れる帰り道。
次の日の出来事が、また少しずつ決まっていく。
昌志は小さく息を吐いて、部屋の明かりを消した。




