第93話 彼女たちが待っていた
七月六日放課後。
放課後、昌志は文芸部の部室へ向かった。
この前入ったばかりの部活だ。
まだ、自分が文芸部員だという実感はない。
廊下を歩いている間も、本当にここでいいのかと少し思っていた。
三年生の七月に、今さら新しい部活へ入る。
普通に考えれば、少し変だ。
それも、自分から強く入りたいと思ったわけではない。
美月が入る。
美月が、自分が入るなら昌志にも一緒に入ってほしいと言った。
だから、入った。
理由を並べればそれだけだった。
けれど、黒い本には書かれていた。
文芸部の部室で、彼女たちが待っている。
昌志が行けば、彼女たちは少しだけ喜ぶ。
昌志が行かなければ、彼女たちはしばらく昌志を待つ。
彼女たち。
その言葉が、頭に残っている。
美月は分かる。
昨日、あれだけ楽しみにしていたのだから、待っているだろう。
けれど、もう一人は誰なのか。
それを考えながら、昌志は部室の前に立った。
中から、話し声が聞こえる。
静かな部活だと思っていたが、今日は少しだけ明るい。
昌志は一度息を吐いてから、戸を開けた。
「失礼します」
部室の中にいた全員が、こちらを見た。
美月。
雪。
部長の矢部。
それから、昨日見かけた文芸部員たちが他二人。
昌志以外は、もう全員そろっているようだった。
「あ、昌志先輩」
美月がすぐに立ち上がる。
その顔は、明らかに嬉しそうだった。
「遅いですよ」
「悪い。普通に来たつもりだったんだけど」
「私、待ってました」
黒い本の通りだな、と思いかけて、昌志はその言葉を飲み込んだ。
彼女たちが待っている。
美月は確かに待っていた。
そして、もう一人。
雪も、席からこちらを見ていた。
「こんにちは、昌志くん」
「ああ。こんにちは」
雪は少しだけ緊張したように挨拶した。
美月ほど前に出てくるわけではない。
けれど、昌志が来たことをちゃんと気にしていた。
彼女たち。
そのもう一人は、雪だったのだろう。
「じゃあ、始めましょうか」
部長の矢部が本を閉じて言った。
いつもこうしているのか、部室の空気を自然にまとめている。
大きな声を出すわけではない。
けれど、矢部が言うと、みんながそれぞれ椅子に座り直した。
「今日は新入部員もいるし、軽く本の話からでいいでしょうか?」
「はい」
美月が元気よく返事をした。
昌志は美月の隣に座る。
美月は机の上に本を一冊置いていた。
表紙を見る限り、最近出た短編集らしい。
「それ、読んだのか?」
「途中までです」
「途中?」
「今日、持ってきました。文芸部っぽいかなと思って」
「文芸部っぽいって」
「ちゃんと本を持ってきた方がいいかなって」
美月は真剣だった。
昌志は少しだけ笑ってしまう。
「いいんじゃないか」
「はい」
美月は嬉しそうに頷いた。
矢部が順番に、最近読んだ本の話を振っていく。
最初は少し硬かった。
昌志も、美月も、雪も、どこまで話していいのか分からない。
けれど、一人が好きな本の話をすると、別の誰かがそれに反応する。
同じ作家を知っている者がいる。
似た話を読んだことがある者がいる。
反対に、まったく知らないからこそ興味を持つ者もいる。
そうやって、少しずつ会話が広がっていった。
美月は、最初こそ緊張していた。
けれど、途中からは本当に楽しそうに話していた。
「私、こういう話をするの、初めてかもしれません」
美月が言った。
「本の感想って、学校の課題で書くものだと思ってました」
「まあ、そういう人も多いよね」
矢部が頷く。
「でも、別に正解を言う場所じゃないので。好きだったとか、ここが気になったとか、それだけでいいので」
「それなら、話しやすいです」
美月は真剣に頷いた。
真剣なのに、楽しそうだった。
その横顔を見て、昌志は少し安心した。
美月は、ここでやっていけそうだ。
昨日は自分と同じ部活になることを喜んでいただけかもしれない。
でも、今日の美月は、文芸部の空気そのものを楽しんでいるように見えた。
雪も、思っていたよりよく話した。
大きな声ではない。
けれど、本の話になると、言葉が少しずつ増えていく。
「この本、私も読みました」
雪がそう言った時、美月が顔を上げた。
「本当ですか?」
「うん。最後の話が好きだった」
「私、まだそこまで読んでないです」
「じゃあ、言わない方がいいね」
「でも気になります」
「じゃあ、読んでから話そう」
「はい」
二人の会話を聞きながら、昌志は少しだけ驚いていた。
美月と雪は、まだ親しいわけではない。
けれど、文芸部の中では自然に話せている。
他の部員たちも、美月に対して優しかった。
分からないことを馬鹿にしない。
強い言い方もしない。
知らない作家の名前が出ると、簡単に説明してくれる。
感想がまとまらなくても、待ってくれる。
それが、美月には合っているように見えた。
昌志は、自分が男一人で浮くかもしれないと思っていた。
それも不安だった。
けれど、実際に座ってみると、思ったほど居づらくはない。
矢部は淡々と進める。
雪は静かに話す。
他の部員たちは、程よい距離で会話に入ってくる。
文芸部は、思っていたよりずっと普通だった。
そして、普通に楽しかった。
「岐阜先輩は、普段どんな本読むの?」
矢部に聞かれて、昌志は少し考えた。
「いろいろですけど……最近は、短めのものが多いです」
「長編は?」
「読む時は読みます。でも、途中で止まると戻りにくいので」
「あ、それ分かります」
雪が小さく言った。
「間が空くと、登場人物の名前を忘れます」
「あるな」
昌志が頷くと、美月も身を乗り出した。
「私は、途中で止まると最初から読み直したくなります」
「それは大変じゃないか?」
「大変です。でも、途中から読むと不安になるので」
「真面目だな」
「そうですか?」
「たぶん」
そのやり取りに、周りの部員が少し笑った。
美月は照れたように笑う。
昌志も、つられて笑った。
久しぶりだった。
こんなふうに、本の話だけをして時間が過ぎるのは。
黒い本のことを考えずにいられたわけではない。
完全に忘れたわけでもない。
けれど、少なくともその間、昌志は普通の文芸部員のように座っていた。
美月と話す。
雪と話す。
矢部や他の部員の話を聞く。
好きな本や、読みにくかった本や、途中で投げた本の話をする。
その中で、少しずつ、その人がどういう人なのか分かっていく。
雪は、静かだけれど言葉を選ぶ人だった。
矢部は、淡々としているが部室全体をよく見ている。
他の部員たちも、それぞれに好きな本の方向が違っていた。
誰かが話すと、誰かが補足する。
誰かが黙ると、矢部が自然に話を移す。
それが、文芸部の空気なのだろう。
気づけば、思ったより時間が経っていた。
「今日はこのくらいにしましょうか」
矢部が言った。
部員たちが本を閉じ、ノートをしまい始める。
美月は少し名残惜しそうだった。
「もう終わりですか?」
「入部初日から飛ばしすぎかもしれないので」
矢部は少し笑った。
「続きは次にしましょう」
「はい」
美月は素直に頷いた。
昌志も鞄を持って立ち上がる。
男一人で不安だったが、何とかなりそうだった。
美月も、たぶん大丈夫だ。
むしろ、昌志が思っていたよりずっと馴染んでいる。
それだけで、今日ここに来た意味はあったのかもしれない。
部室を出ようとした時、美月が隣に来た。
「昌志先輩」
「何?」
「明日も、部活ありますよね」
「あるんじゃないのか」
「はい。だから、明日も来てください」
「普通に部活だろ」
「それでも、来てください」
「……何で念を押すんだ?」
「今日、楽しかったので」
美月は少し照れたように笑った。
「明日も、昌志先輩と本の話ができたらいいなと思って」
その言葉を聞いて、昌志はふと思った。
こういうところなのだろう。
美月の可愛らしさは。
遠回しにせず、楽しみにしていることをそのまま言う。
来てほしいと思ったら、来てほしいと言う。
自分が行くなら、相手にも来てほしいと素直に言える。
その積極性と素直さが、美月らしさなのだろう。
今まで、どこか妹の友達のように見ていた。
圭佑の妹として見ていた。
けれど、今日の美月は、文芸部の新しい部員として、ちゃんと自分の場所を楽しもうとしていた。
「分かったよ」
昌志は答えた。
「これたら来る」
「来れたら、じゃなくて」
美月が少しだけ頬を膨らませる。
「来てください」
「……分かった。来るよ」
そう言うと、美月はぱっと笑った。
「はい」
その笑顔を見て、昌志は少しだけ苦笑した。
断りにくい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
部室を出て、廊下を歩く。
夕方の校舎は、少しずつ静かになっていた。
文芸部。
美月。
雪。
彼女たち。
黒い本に書かれていた言葉が、今日の出来事と重なっていく。
昌志は、少しだけ楽しかった時間を思い返しながら、家へ帰るために校舎を出た。




