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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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幕間8 本人に聞いてみる

 七月六日の昼休み。


 圭佑は、スマホに届いたメッセージをもう一度見た。


 美月からだった。


 少しだけ話したいことがあります。


 昌志先輩には、まだ言わないでください。


 場所は、校舎裏でお願いします。


 それだけの短い文だった。


 圭佑は教室の方を振り返る。


 昌志は、まだ席にいた。


 購買で買ったパンを机の上に置き、ぼんやり前を見ている。


 いつものように見える。


 けれど、最近の昌志は、いつも通りに見える時ほど何かを隠している気がした。


「ちょっと行ってくる」


 圭佑が言うと、昌志が顔を上げた。


「どこに?」


「用事」


「昼飯は?」


「すぐ戻る」


「そうか」


 昌志はそれ以上聞かなかった。


 圭佑は教室を出た。


 校舎裏へ向かう。


 昼休みの校舎はにぎやかだった。


 廊下を走る生徒。


 弁当を持って移動する生徒。


 部活の話をしている生徒。


 その声を抜けて、圭佑は人の少ない方へ歩いた。


 校舎裏には、すでに美月がいた。


 少し落ち着かない様子で立っている。


 圭佑を見ると、ほっとしたように顔を上げた。


「お兄ちゃん」


「何だよ。急に呼び出して」


「ごめん」


「昌志には言ってない」


「うん。ありがとう」


 美月は胸の前で手を握った。


 圭佑はその様子を見て、少し眉を寄せる。


「で、何の話だ?」


「今日の朝の、校長先生の話」


「ああ」


 圭佑はすぐに察した。


 市役所近くで、道に迷っていたご婦人を助けた三年生。


 名乗らずに立ち去った生徒。


 それを聞いた時、圭佑の頭にも昌志の顔は浮かんでいた。


 美月は少し声を落とす。


「あれ、昌志先輩じゃないかな」


「そう思うのか」


「うん」


 美月は小さくうなずいた。


「お兄ちゃんは?」


 圭佑はすぐには答えなかった。


 校舎の壁に軽く背を預け、少し考える。


「正直、分からん」


「分からない?」


「ああ。昌志の可能性はあると思う」


「やっぱり」


「でも、決めつけるのは早い」


 美月は少しだけ目を伏せた。


「でも、火事の時と一緒だよね」


「まあな」


 圭佑はうなずいた。


「あの時も、昌志は自分がやったって感じを出さなかった。逃げるみたいに引いた」


「うん」


「でも、火事の時は分からなくもない」


「分からなくもない?」


「あれは人命救助だった。目立つし、騒ぎも大きい。下手に名乗ったら、いろいろ聞かれる。面倒を避けたくて逃げたって言われれば、まあ分かる」


「うん」


「でも、今回は道案内だろ」


 圭佑は少し眉を寄せた。


「名前くらい名乗ってもよかったはずなんだよ。お礼を言われて、普通に受け取ればいいだけだ。そこまで逃げるほどのことじゃない」


「それは……」


「だから、そこが引っかかる」


 美月は少し黙った。


 けれど、すぐに小さく口を開いた。


「でも、そういうところも、少しかっこいいと思った」


「は?」


「困っている人を助けて、名前も言わないで、さらっと行っちゃうところ」


 美月は少し恥ずかしそうに視線をそらした。


「昌志先輩がそういう人だったら、やっぱりすごいなって」


 圭佑は美月を見た。


 その顔には、不安よりも憧れの方が強く出ていた。


 昌志先輩なら、そういうことをしていてほしい。


 そう思っている顔だった。


「恋は盲目って言うからな」


「お兄ちゃん」


 美月の顔が、少し赤くなった。


「何でもよく見えるのかもしれないけど」


「私は別に、昌志先輩のことが好きだなんて言ってないよ」


 圭佑は呆れたような顔をした。


「俺、昌志が好きなんて一回も言ってないけど」


「……っ」


 美月は言葉に詰まった。


 それから、慌てて顔をそらす。


「そういう意味で言ったんじゃないから」


「じゃあ、どういう意味だよ」


「尊敬してるっていうか、すごいなって思っただけ」


「はいはい」


「本当に」


「分かった分かった」


「絶対分かってない」


 美月は小さく言った。


 頬の赤みは、まだ消えていなかった。


 圭佑は少しだけ笑い、それから表情を戻す。


「でも、まあ」


「何?」


「最近のあいつがおかしいのは確かだ」


 美月は顔を上げた。


「おかしい?」


「ああ。いいことをしてるのは分かる。人を助けるのはすごい。火事の時なんて、命をかけて助けたようなものだ」


「うん」


「でも、だからこそ危ない」


 圭佑ははっきり言った。


「すごいことと、安全なことは違う。最近の昌志は、普通なら踏み込まないところまで踏み込んでる気がする」


「昌志先輩が?」


「俺にはそう見える」


 美月は黙った。


 圭佑も、すぐには続けなかった。


 昌志かもしれない。


 昌志ではないかもしれない。


 けれど、どちらにしても、最近の昌志が変わってきていることだけは確かだった。


 美月は少し迷うようにしてから、もう一度口を開いた。


「それで、もう一つあるの」


「まだあるのか」


「うん。昨日、司ちゃんから電話があったの」


 圭佑は顔を上げた。


「司ちゃんから?」


「うん」


「何の話だ」


「昌志先輩のこと」


 圭佑は少し嫌な予感がした。


 最近、昌志の周りで何かが起きている。


 それは分かっていた。


 けれど、美月と司までその違和感を共有しているなら、話は少し変わってくる。


 美月は声を落として話し始めた。


「土曜日、昌志先輩、雨が降る前から傘を二本持って出かけたんだって」


「二本?」


「うん。司ちゃんが見たって」


「それは、まあ……そこまで変でもないかもしれない」


 圭佑が言うと、美月は少し意外そうにした。


「そうなの?」


「ああ。俺、土曜日に昌志から聞かれたんだ。美月が今日どこか出かける予定あるかって」


「私のことを?」


「たぶん図書館か本屋じゃないかって答えた」


 美月は少しだけ目を伏せた。


「そうだったんだ」


「だから、あいつが図書館へ行ったなら、お前の分の傘を持っていったって考えれば、一応説明はつく」


「雨が降るって分かっていたみたいだったけど」


「そこは怪しい。でも、傘二本だけなら、まだ偶然で済ませられる」


 圭佑は腕を組んだ。


「偶然、余分に持ってただけかもしれないしな」


「うん」


「ただ」


 圭佑は少し声を落とす。


「最近の昌志を見てると、その偶然をそのまま受け取れない」


 美月は小さくうなずいた。


「それだけじゃないんだろ」


 圭佑が言うと、美月はうなずいた。


「司ちゃん、昌志先輩がいない間に、部屋に入ったんだって」


「おい」


「悪いことだって、本人も分かってたよ」


「何で入ったんだ」


「黒い本が気になったって」


 圭佑は眉を寄せた。


「黒い本か」


「お兄ちゃん、知ってるの?」


「見たことはある」


 圭佑は少し考えながら答えた。


「学校で、昌志が持ってた。黒い表紙の本だろ」


「たぶん、それ」


「中身は真っ白だったはずだ」


「司ちゃんも、そう言ってた」


「やっぱりか」


 圭佑は腕を組んだ。


 昌志が持っていた黒い本。


 中身が真っ白な本。


 初めて見た時は、変な本だと思った。


 けれど、そこまで深くは考えなかった。


 昌志が何かに使っているのだろう。


 そのくらいにしか思っていなかった。


 でも、美月の話を聞くと、それだけでは済まない気がしてくる。


「司ちゃんは、その本の中身を見ようとしたのか」


「うん。でも、真っ白だったって。何も書いてなかったって」


「俺が見た時もそうだった」


「でも、昌志先輩は、その本をすごく必死に取り上げたらしいの」


「必死に?」


「うん。朝、司ちゃんに『俺の部屋に入るな』って言っていたみたいで。夕方、司ちゃんが本を見ていたら、昌志先輩が急に帰ってきて、『朝言っただろ』ってすごく怒ったって」


 圭佑は考え込んだ。


 雨が降る前から、傘を二本持って出かける行動。


 道に迷ったご婦人を助けて、名乗らず立ち去る行動。


 真っ白なのに、必死に隠そうとする黒い本。


 どれも一つだけなら、偶然で片づけられる。


 でも、重なりすぎている。


「でも、それだったら」


 圭佑は口を開いた。


「本を見られたくないなら、普通は隠すだろ。部屋に置いていかないはずだ」


「うん」


「なのに置いていった。そこも分からない」


「でも、雨が降るのを知っていたから、出かけたんじゃないかな」


「美月のために?」


「たぶん」


 美月は少し恥ずかしそうに言った。


 圭佑はその顔を見て、ため息をつきそうになった。


「だから、決めつけるなって」


「決めつけてないよ」


「今、ほぼ決めつけてただろ」


「でも、可能性はあるでしょ」


「ある」


「十分あるでしょ」


「あるけど、分からない」


 圭佑は正直に言った。


 本当に、分からなくなってきた。


 昌志が何かを隠している。


 それはほぼ間違いない。


 でも、それが何なのか分からない。


 真っ白な黒い本。


 雨の予測。


 誰かを助ける行動。


 つながっているようで、つながらない。


「私、本人に聞いてみようかな」


 美月が小さく言った。


 圭佑はすぐに顔を上げる。


「昌志に?」


「うん」


「何を聞くんだよ」


「今日のこと」


「今日のこと?」


「校長先生が話していた生徒が、昌志先輩なのかって」


 美月は少し迷うように言葉を切った。


「それに、火事の時のことも」


 圭佑は黙った。


「どうして名乗らないのか、聞いてみようかなって」


「……止めはしないけどな」


 圭佑は少しだけ声を落とした。


「たぶん、あいつは答えないぞ」


「答えない?」


「ああ。否定するか、逃げる」


「逃げるって」


「あいつは、面倒なことになると逃げるだろ」


 美月は言い返そうとして、少し口を閉じた。


「でも、いいことをしたんだよ」


「それでも逃げる」


 圭佑ははっきり言った。


「理由も分からないまま、いきなり聞いても、たぶんそうなる」


「……そうかな」


「そうだと思う」


 圭佑は校舎の方を一度見た。


 教室には、昌志がいる。


 何も知らない顔で、いつものようにパンでも食べているはずだった。


「それに、そんな聞き方をしたら、たぶんあいつ、お前のことも避けるぞ」


「私を?」


「ああ」


 美月の顔が、少し強ばった。


「せっかく同じ文芸部に入ったのに、来なくなるかもしれない」


「それは……」


 美月は言葉に詰まった。


 胸の前で握っていた手に、少し力が入る。


「嫌だ」


「だろ」


「うん」


 美月は小さくうなずいた。


 さっきまでの憧れたような表情が、少しだけ不安に変わっていた。


「でも」


 美月が、小さく言った。


「何で言ってくれないんだろう」


 圭佑は何も言わなかった。


 美月は校舎の方を見る。


 その向こうに、昌志がいる。


 何も知らない顔で、いつものように昼休みを過ごしているはずだった。


「私、もっと昌志先輩のこと、知りたいのに」


 美月の声は、責めているというより、少し寂しそうだった。


 圭佑はしばらく黙っていた。


 それから、短く息を吐く。


「それについては、俺も同じだ」


「お兄ちゃんも?」


「ああ」


 圭佑は校舎の方を見た。


「俺も、最近のあいつのことが分からない」


 美月は何も言わなかった。


 圭佑も、それ以上は続けなかった。


 どうするのか。


 それが分からない。


 問い詰めれば、昌志は逃げるだろう。


 下手に踏み込めば、余計に隠すかもしれない。


 かといって、何もしないで放っておいていいとも思えない。


 圭佑は少し考えてから、息を吐いた。


「とりあえず、今は見てる」


「見てる?」


「ああ。あいつが本当に危ないことをしそうなら、その時は止める」


「うん」


「だから、お前も無茶するなよ」


「私?」


「そう。お前も司ちゃんも」


 美月は少しだけうなずいた。


「分かった」


「本当に分かったか?」


「分かったよ」


 美月はそう答えたが、表情はまだ晴れていなかった。


「じゃあ、俺は戻る」


「うん」


「昌志が待ってるから、昼飯食いに行く」


「昌志先輩には」


「言わない」


 圭佑は短く答えた。


「今はな」


 美月は少しだけうなずいた。


「ありがとう」


「司ちゃんにも、あまり無茶するなって言っとけ」


「うん」


 圭佑はそう言って、校舎の方へ歩き出した。


 昼休みはまだ少し残っている。


 昌志は、教室か購買の近くで待っているだろう。


 圭佑は歩きながら、朝の校長の言葉を思い出した。


 名前も告げずに立ち去った生徒。


 困っている人を助けた生徒。


 その行動は、確かに立派だった。


 けれど、圭佑にはどうしても、それだけで終わる話には思えなかった。


 昌志かもしれない。


 昌志ではないかもしれない。


 ただ、どちらにしても、最近の昌志が何かを隠していることだけは変わらない。


 圭佑は小さく息を吐き、教室へ戻った。

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