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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第92話 名乗らない生徒

七月六日の朝。


 学校に着くと、教室にはすでに圭佑がいた。


 昌志が席に鞄を置く前に、圭佑がこちらを見る。


「文芸部員」


「やめろ」


「いいだろ。この前の金曜に入ったんだろ」


「入ったばかりだけどな」


「その入ったばかりの日に、すぐ帰ったんだろ」


「用事があった」


「分かってる。でも今日はちゃんと行けよ」


「司と同じこと言うな」


 昌志が言うと、圭佑は少しだけ眉を上げた。


「司ちゃんにも言われたのか」


「朝からな」


「じゃあ、なおさら行け」


「何でだよ」


「美月、昨日も楽しみにしてたからな」


「司にも言われた」


「だろうな」


「お前の家、情報が回るの早すぎないか」


「美月が嬉しそうにしてたからな」


 圭佑は机に肘をついた。


「文芸部に入ったこと自体もそうだけど、お前と同じ部活になったのが嬉しいんだろ」


「そうなのか?」


「そうなのか、じゃないんだよ」


「何だよ」


「お前、本当に分かってないな」


 圭佑は呆れたように言った。


 昌志は席に座る。


 文芸部。


 美月ちゃん。


 彼女たち。


 黒い本の文章が、また頭に浮かぶ。


 行けば、少しだけ喜ぶ。


 行かなければ、しばらく待つ。


 それだけなら、行くしかない。


 ただ、それが黒い本に書かれているというだけで、妙に重くなる。


「とにかく」


 圭佑は言った。


「今日は行けよ」


「何回言うんだよ」


「行くまで言う」


「分かったって」


 ちょうどその時、教室の前にあるモニターがついた。


 ざわついていた教室が、少しずつ静かになる。


 朝のショートホームルームが始まる時間だった。


 普段なら担任が連絡事項を話すだけだ。


 けれど、今日は違った。


 モニターに映ったのは、校長だった。


 教室の空気が少し変わる。


 圭佑も前を向いた。


 昌志も、何となく嫌な予感がして、モニターを見た。


『皆さん、おはようございます』


 モニター越しに、校長が落ち着いた声で話し始めた。


『今日は、昨日学校に届いた、とても嬉しい連絡についてお話しします』


 昌志は、動きを止めた。


 昨日。


 学校に届いた連絡。


 その時点で、思い当たることは一つしかなかった。


『昨日、市役所の近くで、道に迷って困っていたご婦人を助けた生徒がいたそうです』


 教室のあちこちで、小さな声が漏れた。


『その生徒は、ご婦人の荷物を持ち、目的地まで案内したあと、名前も告げずにその場を立ち去ったとのことでした』


 昌志はまっすぐモニターを見た。


 横を見てはいけない。


 圭佑の方を見てはいけない。


 何も知らない顔をしていなければならない。


『ご婦人は大変感激され、学校へ感謝のお電話をくださいました。昨日の連絡メールでもお伝えした通り、その生徒は名前を名乗らなかったため、誰なのかは分かっていません』


 校長は一度、そこで言葉を切った。


『ただ、首元に見えた校章から、本校の生徒であること、また校章の色から三年生である可能性が高いことが分かっています』


 教室が少しざわついた。


 三年生。


 その言葉で、空気が少し近くなる。


 昌志は表情を変えないようにした。


『ご婦人は、どうしてもお礼を伝えたいとおっしゃっていました。そこで学校としては、三年生の名簿や写真を確認していただくこともできますとお伝えしました』


 昌志の背中に、冷たいものが走った。


 名簿。


 写真。


 そんなことまで話が行っていたのか。


『しかし、ご婦人はそれを望まれませんでした』


 昌志は、少しだけ息を吐きそうになった。


 けれど、まだ動かない。


『本人が名乗りたくない、謙虚な方なのに、まるで犯人探しのようなことはしたくありません。そうおっしゃっていました』


 教室のざわめきが、少しやわらかくなった。


『私も、そのお考えに賛成します。善意で行ったことを、無理に探し出すべきではありません。ですから、学校としても、これ以上その生徒が誰なのかを探すことはしません』


 校長は、穏やかな顔でモニターの向こうから話し続ける。


『けれど、その生徒がとても素晴らしいことをしたという事実は、皆さんに知っておいてほしいと思います』


 昌志はモニターを見続けた。


『困っている人に気づき、声をかけ、荷物を持ち、目的地まで案内する。それは簡単なようで、なかなかできないことです。名前を名乗らずに立ち去ったことも含め、その生徒の行動には、人として見習うべきものがありました』


 やめてほしい。


 昌志は心の中で思った。


 そんな大したことではない。


 黒い本に書かれていたから、行っただけだ。


 たまたま通りかかっただけですから。


 そう言ったのも、ただ面倒を避けたかっただけだ。


 それなのに、校長の言葉によって、話がどんどん立派なものになっていく。


『名前は分かりません。けれど、私たち教職員は、その生徒に感謝しています。そして、誇りに思います』


 教室が、また少しざわついた。


『もしこの話を聞いて、心当たりのある人がいたとしても、無理に探す必要はありません。ただ、皆さんも、困っている人に気づいた時、手を差し伸べられる人であってください』


 校長は軽く頭を下げた。


『以上です』


 モニターが切り替わり、担任の顔が映る。


 簡単な連絡事項が続いたが、教室の空気はもうそちらに向いていなかった。


 あちこちで、小さな声が上がっている。


「三年生だって」


「誰だろうね」


「うちのクラスだったりして」


「まさか」


「でも、青の校章って三年でしょ?」


「名乗らないってすごくない?」


「ちょっとかっこいいよね」


 女子の声が近くから聞こえる。


 男子の方でも、誰だ誰だと話している。


 昌志は、何も考えていないふりをして、モニターを見ていた。


 もう校長は映っていない。


 担任が今日の連絡を話している。


 けれど、内容はほとんど入ってこなかった。


 横から視線を感じる。


 圭佑だった。


 圭佑は、教室の話題を聞きながら、昌志だけを見ていた。


 昌志はそちらを見ない。


 まっすぐ前を向く。


 何も知らない。


 何も関係ない。


 そういう顔をする。


 けれど、圭佑の視線はしばらく離れなかった。


 ショートホームルームが終わる。


 教室のざわめきが戻ってきた。


 担任が出ていき、一時間目の準備が始まる。


 圭佑が、小さな声で言った。


「お前」


「何だよ」


「いや」


 圭佑は一度言葉を切った。


 それから、少しだけ笑う。


「何でもない」


「何でもないなら言うな」


「言いたくなっただけだ」


「変なやつ」


「お前ほどじゃない」


 圭佑はそれ以上、校長の話には触れなかった。


 それが逆に怖かった。


 問い詰められない方が、余計に分かっている気がする。


 昌志は教科書を机に出した。


 その時、圭佑のスマホが小さく震えた。


 圭佑は画面を見て、少しだけ表情を変える。


「美月からだ」


「美月ちゃん?」


「ああ」


 圭佑はメッセージを読んだ。


 それから、少し考えるように画面を見つめた。


「昼、ちょっと用事ができた」


「用事?」


「美月が、少し話したいことあるらしい」


「何の話だよ」


「知らん」


「知らないのかよ」


「詳しくは書いてない」


 圭佑はスマホをしまった。


 授業が始まる。


 一時間目の教師が教室に入ってきた。


 ざわついていた空気が、少しずつ授業の空気に変わっていく。


 黒板に日付が書かれる。


 教科書が開かれる。


 チョークの音が響く。


 授業は、いつも通りに進んでいった。


 けれど、昌志の頭の中には、校長の言葉がまだ残っていた。


 名前も告げずに立ち去った生徒。


 困っている人を助けた生徒。


 本校の三年生と思われる生徒。


 それが自分だと、教室の誰かが気づいたわけではない。


 けれど、圭佑はたぶん疑っている。


 そして放課後には、文芸部の部室で彼女たちが待っている。


 黒い本の文章が、また一つ、現実に近づいているような気がした。

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