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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第91話 ちゃんと行きなよ

 七月六日の朝。


 目覚ましの音で、昌志は目を覚ました。


 休み明けの朝は、少し体が重い。


 七月四日と五日。


 二日間の休みがあったはずなのに、あまり休んだ気はしなかった。


 図書館で美月ちゃんと会った。


 雨の中を帰った。


 司に部屋へ入られた。


 市役所の近くで、おばあさんの道案内をした。


 夕方には、外へ出ないために、じゃがいものないカレーを食べることになった。


 思い返すと、普通の休日とは言いづらい。


 昌志は布団から起き上がった。


 制服に着替える。


 鞄の中を確認する。


 机の引き出しには、黒い本が入っている。


 昨日の夜に読んだ文章は、まだ頭の中に残っていた。


 七月六日、放課後。


 文芸部の部室で、彼女たちが待っている。


 昌志が行けば、彼女たちは少しだけ喜ぶ。


 昌志が行かなければ、彼女たちはしばらく昌志を待つ。


 その一文が、朝になっても消えなかった。


 彼女たち。


 美月ちゃんはいるだろう。


 先週、文芸部に入った時、美月ちゃんは嬉しそうにしていた。


 同じ部活ですね、と言っていた。


 土曜日に図書館で会った時も、文芸部で読む本を探していた。


 だから、美月ちゃんが待っているのは分かる。


 けれど、黒い本は「彼女」ではなく「彼女たち」と書いた。


 一人ではない。


 美月ちゃんだけではない。


 雪かもしれない。


 ほかの文芸部員かもしれない。


 あるいは、もっと別の誰かがいるのかもしれない。


 昌志は机の上に、昨日買った偽物の黒いノートが置かれていることを確認した。


 本物の黒い本は、引き出しの奥に入れてある。


 司がまた部屋へ入ったとしても、まず目に入るのは机の上の偽物だ。


 昌志は引き出しを開け、本物の黒い本を取り出した。


 少し迷ってから、それを鞄へ入れる。


 家に置いておくよりは、その方がましな気がした。


 正直学校へ持っていくのも怖い、それでも、今は手元にある方が安心すると昌志は思った。


 階段を下りると、台所の方から母の声がした。


「昌志、朝ご飯できてるわよ」


「うん」


 返事をしてリビングに入る。


 司はもう席についていた。


 トーストをかじりながら、こちらをちらりと見る。


「お兄ちゃん」


「何?」


「文芸部、入ったんだって」


 昌志は椅子に座りかけたところで、少しだけ動きを止めた。


「……早いな」


「美月さんから聞いた」


「いつの間に」


「昨日の夜」


 司は少し得意げに言った。


「美月さん、すごい嬉しそうだったよ」


「そうなのか」


「うん。同じ部活になったって」


 司はトーストを置き、昌志をじっと見た。


「お兄ちゃん、文芸部とか入るんだね」


「俺もそう思ってる」


「どういう意味?」


「自分でも、そういう感じじゃないと思ってるって意味」


「本、読むじゃん」


「読むけど」


「じゃあいいじゃん」


 司はあっさり言った。


 母が味噌汁を置きながら、少し驚いたように昌志を見る。


「部活に入ったの?」


「ああ。文芸部」


「三年生で?」


「まあ、そう」


「珍しいわね」


「美月ちゃんが入るから、ついでに」


「ついでって」


 母は苦笑した。


 司はその横で、少しだけ顔を近づける。


「美月さん、楽しみにしてるんだから、ちゃんと行きなよ」


「分かってる」


「先週、入部届を出したあと、すぐ帰ったんでしょ?」


「用事があったからな」


「今日は?」


「今日は行く」


「ほんとに?」


「本当に」


 昌志が答えると、司は少しだけ満足そうに頷いた。


「ならいいけど」


 その言い方が、どこか美月ちゃんに似ていた。


 昌志は少しだけ苦笑する。


 朝食を食べながら、文芸部のことを考えた。


 大したことではない。


 既存の部活に入っただけだ。


 部を作ったわけでもない。


 特別な役目を背負ったわけでもない。


 けれど、美月ちゃんは楽しみにしている。


 司もそれを知っている。


 圭佑も、たぶん知っている。


 そうやって、自分の選んだ小さなことが、少しずつ周りに広がっていく。


 黒い本の文章が、また頭に浮かんだ。


 彼女たちが待っている。


 ただ待っているだけ。


 喜ぶだけ。


 それなのに、妙に重く感じる。


「そういえば」


 司がふと思い出したように言った。


「今日、ちゃんと行かなかったら、美月さんに言うから」


「何を」


「お兄ちゃん、文芸部サボりましたって」


「サボらない」


「本当に?」


「本当だって」


「お兄ちゃん、最近ちょっと信用ないから」


「何でだよ」


「いろいろ」


 司は短く言った。


 その「いろいろ」に、昨日の黒い本のことが含まれているのかもしれない。


 昌志はそう思ったが、聞かなかった。


 聞けば、余計な話になる。


 司もそれ以上は言わなかった。


 ただ、少しだけ昌志を見て、それから何事もなかったようにトーストを食べ始めた。


 朝食を終えると、昌志は席を立った。


「行ってきます」


 玄関で靴を履きながら言うと、司が廊下まで出てきた。


「お兄ちゃん」


「何だよ」


「文芸部、サボらないでね」


「しつこいな」


「美月さんに言われたら困るから」


「何を」


「昌志先輩、来ませんでしたって」


「行くって言ってるだろ」


「ならいい」


 司はそう言って、少し笑った。


 昌志は鞄を持ち直した。


 今日の予定は決まっている。


 学校へ行く。


 授業を受ける。


 放課後になったら、文芸部へ行く。


 彼女たちが待っている。


 黒い本の言葉が、また頭の中で繰り返された。


 誰が待っているのか。


 なぜ、黒い本はわざわざそれを書いたのか。


 まだ分からない。


 けれど、行くしかない。


 昌志は玄関を開けた。


 朝の空気が入ってくる。


 休み明けの道は、いつもより少しだけ騒がしく感じた。


 昌志は一度だけ息を吐いて、家を出た。

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