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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第90話 彼女たちが待っている

 七月五日の夜。


 夕食は、カレーだった。


 ただし、じゃがいもは入っていなかった。


 昌志の希望で、そうなった。


 正確に言えば、夕方に買い物へ行きたくなかった昌志が、かなり適当なことを言った結果だった。


 最近は、じゃがいもの入っていないカレーが人気らしい。


 そんなことを言った。


 自分でも、本当かどうかは分からない。


 たぶん、かなり怪しい。


 けれど、母は半信半疑ながらも、それを受け入れてくれた。


 そして、夕食の食卓に、じゃがいもの入っていないカレーが並んだ。


「……じゃがいもがないな」


 父が一口食べてから、少し不満そうに言った。


 昌志はスプーンを持つ手を止めた。


 母が少し困ったように笑う。


「昌志がね、最近はこういうカレーが流行ってるって言うから」


「そうなのか?」


 父が昌志を見る。


 昌志は、少しだけ申し訳ない気持ちになった。


 父はじゃがいもが好きだった。


 カレーの中のじゃがいもを、けっこう楽しみにしている方だった。


 それなのに、今日は入っていない。


 全部、昌志のせいだった。


「……そうだよ」


 昌志は短く答えた。


「じゃがいもなしが、最近ちょっと」


「ちょっと?」


「人気、らしい」


「そうなのか」


 父は納得したような、していないような顔でカレーを見下ろした。


「俺はじゃがいもが好きなんだがな」


「ごめん」


「いや、別に怒ってるわけじゃない」


 父はそう言いながら、もう一口食べた。


 司は黙ってカレーを食べている。


 昨日のことがあるからか、今日もあまり昌志に絡んでこなかった。


 けれど、じゃがいもなしのカレーには、少しだけ反応した。


「でも、まあ、食べやすいよね」


 司が言った。


「じゃがいもない方が」


 昌志は司を見た。


 たぶん、司はじゃがいもが何のためにカレーに入っているのか、そこまで深く考えたことがない。


 ただ、食べやすいからそう言っただけだろう。


 けれど、今は少し助かった。


「だろ」


「別に、お兄ちゃんに賛成したわけじゃないけど」


「そこは普通に賛成でいいだろ」


「嫌」


「何でだよ」


「何となく」


 司はそう言って、またカレーを食べた。


 いつもの調子に少し戻っている。


 それでも、昨日のように強く突っかかってくることはなかった。


 黒い本のことを気にしているのか。


 それとも、勝手に部屋に入ったことをまだ気にしているのか。


 昌志には分からなかった。


 父は最後まで、少しだけ物足りなさそうにカレーを食べていた。


 昌志はそのたびに、少し罪悪感を覚えた。


 けれど、夕方に外へ出なかったこと自体は間違っていない。


 バイク事故に巻き込まれる。


 黒い本はそう書いていた。


 じゃがいもを買いに行っていたら、本当にその場所にいたかもしれない。


 そう考えれば、じゃがいものないカレーくらいは仕方ない。


 昌志はそう自分に言い聞かせた。


 夕食が終わったあと、昌志は自分の部屋へ戻った。


 机の引き出しを開ける。


 黒い本はそこにあった。


 昨日、司に開かれた本。


 司には真っ白にしか見えなかった本。


 けれど、昌志には文字が見える。


 未来のようなものが浮かび上がる。


 そして、選ばされる。


 昌志は黒い本を机の上に置いた。


 まだ日付は変わっていない。


 今開いても、次の記述は出ないかもしれない。


 そう思いながらも、気になって開いてみる。


 ページは白かった。


 何も浮かんでいない。


 司が見た時と同じように、ただの白いページに見える。


 昌志は黒い本を閉じた。


 やはり、日付が変わるまでは待つしかない。


 そのまま机の前で時間を潰す。


 スマホを見ても、内容はあまり頭に入ってこなかった。


 学校専用メールのことを思い出す。


 市役所近くで道に迷っていたおばあさんを助けた、水野東高校の三年生。


 校章の色まで見られていた。


 名乗り出るつもりはない。


 けれど、あれも少し危なかった。


 黒い本に従って動けば、人を助けることはできる。


 でも、そのたびに誰かの目に残る。


 偶然のはずの行動が、偶然ではなく見えてくる。


 それは、少しずつ昌志の周りに引っかかりを作っている気がした。


 司もそうだ。


 美月もそうかもしれない。


 黒い本を読めるのは、自分だけ。


 たぶん、そうだ。


 けれど、自分の行動まで隠せるわけではない。


 昌志は机の上の黒い本を見る。


 黒い表紙は何も答えなかった。


*     *


 午前零時を過ぎた。


 部屋の中は静かだった。


 昌志は机の前に座り直し、黒い本へ手を伸ばした。


 表紙に触れる。


 ゆっくりと開く。


 白かったページの奥から、黒い文字が染み出すように浮かび上がってきた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

――七月五日、朝。


市役所の近くで、

道に迷っているおばあさんに会った。


昌志が道案内をしたことで、

おばあさんは目的地へたどり着いた。


おばあさんは、

昌志の名前を知らない。


けれど、

首元の校章を見ていた。


――七月五日、夕方。


街中で、

バイク事故が起きた。


昌志は外へ出なかった。


その場所には、

いなかった。


━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、まず七月五日の記述を見た。


 おばあさんは、目的地へたどり着いた。


 それはよかった。


 けれど、首元の校章を見ていた。


 その一文に、昌志は少し顔をしかめた。


 学校に連絡が来たのは、やはりそのせいだった。


 名前は知られていない。


 でも、学校と学年はある程度知られてしまった。


 大したことではない。


 そう思いたい。


 けれど、こういう小さな引っかかりが、あとで面倒になる気がした。


 夕方の方は、もっと短かった。


 街中で、バイク事故が起きた。


 昌志は外へ出なかった。


 その場所には、いなかった。


 つまり、事故は本当に起きたのだ。


 外へ出ていれば、自分はそこにいた。


 じゃがいもを買いに行っていたら、巻き込まれていたのかもしれない。


 昌志は、じゃがいもの入っていないカレーを思い出した。


 父には悪いことをした。


 けれど、あれでよかった。


 少なくとも、事故には遭わずに済んだ。


 昌志はページをめくった。


 次の文章が浮かび上がってくる。


━━━━━━━━━━━━━━


――七月六日、放課後。


文芸部の部室で、

彼女たちが待っている。


昌志が行けば、

彼女たちは少しだけ喜ぶ。


昌志が行かなければ、

彼女たちはしばらく昌志を待つ。


――七月六日、夕方。


帰り道で、

聞かなくてもいい言葉を聞く。


立ち止まれば、

少しだけ嫌なものを見る。


立ち止まらなければ、

その言葉は背中に残る。


━━━━━━━━━━━━━━


「彼女たち……」


 昌志は小さく呟いた。


 彼女、ではない。


 彼女たち。


 一人ではないということだ。


 美月はいるだろう。


 今日、あれだけ嬉しそうにしていた。


 明日からちゃんと来てくださいね、と言っていた。


 だから、美月が待っているのは分かる。


 でも、彼女たちと書かれている。


 美月だけではない。


 もう一人。


 あるいは、それ以上。


 文芸部の部室で、誰かが自分を待っている。


 それは悪いことではないはずだった。


 行けば、少しだけ喜ぶ。


 行かなければ、しばらく待つ。


 そう書かれているだけなら、行った方がいいに決まっている。


 誰かを待たせるよりは、行った方がいい。


 それだけの話だ。


 けれど、昌志はページから目を離せなかった。


 彼女。


 彼女たち。


 言葉が変わっている。


 一人から、複数になっている。


 それだけなのに、黒い本の中で何かが増えたような気がした。


 文芸部に入った。


 美月が喜んだ。


 雪とも少し話した。


 そうして次の日には、文芸部の部室で彼女たちが待っている。


 つながっている。


 そう思えた。


 昨日までの出来事が、次の日の文章につながっている。


 選んだことが、次の出来事を呼んでいる。


 それは当たり前のことのはずなのに、黒い本で見ると少し気味が悪かった。


 昌志はもう一つの記述に目を落とす。


 帰り道で、聞かなくてもいい言葉を聞く。


 立ち止まれば、少しだけ嫌なものを見る。


 立ち止まらなければ、その言葉は背中に残る。


 こっちは、はっきりしない。


 何を聞くのか。


 誰の言葉なのか。


 嫌なものとは何なのか。


 何も分からない。


 けれど、嫌な方だということだけは分かる。


 七月に入ってから、こういう書き方が増えた。


 分かるようで、分からない。


 選べるようで、選ばされている。


 そんな文章ばかりになっている。


 昌志は黒い本を閉じた。


 明日は、文芸部へ行く。


 それはもう決めた。


 美月が待っている。


 たぶん、ほかにも誰かがいる。


 彼女たちが待っている。


 その言葉が、閉じた黒い本の上にまだ残っているような気がした。


 昌志はしばらく机の前に座ったまま、動けなかった。

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