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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第89話 じゃがいものないカレー

七月五日の昼過ぎ。


 昌志は自分の部屋にいた。


 外には出ない。


 少なくとも、夕方までは出ない。


 それだけを決めていた。


 黒い本には、夕方に街中でバイク事故に巻き込まれると書かれていた。


 外へ出れば、その場所にいる。


 外へ出なければ、その事故には遭わない。


 これほど分かりやすい予告も珍しい。


 なら、外に出なければいい。


 朝のおばあさんの道案内は済ませた。


 雪とも会った。


 昼過ぎには家に戻った。


 あとは、夕方が過ぎるまで部屋にいればいい。


 そう思っていた。


 けれど、時間が空くと、それはそれで落ち着かなかった。


 何もしないでいると、黒い本の文章ばかり思い出してしまう。


 夕方。


 街中。


 バイク事故。


 外へ出れば、その場所にいる。


 昌志はベッドに寝転がり、天井を見た。


 まだ夕方ではない。


 けれど、黒い本の時間はそこまで信用できない。


 朝、昼、午後、夕方。


 その言葉には幅がある。


 少し早くても、夕方扱いになるかもしれない。


 だから、今日はもう出ない。


 そう決めていた。


 その時、スマホが短く震えた。


「何だ?」


 昌志は体を起こし、スマホを見る。


 学校の専用メールだった。


 休日に学校から連絡が来ることは珍しくない。


 連絡事項や注意喚起は、ここに届く。


 けれど、今日の内容は少し違っていた。


 昌志は画面を開く。


 そこには、学校からの連絡文が表示されていた。


 市役所近くで道に迷っていた高齢の女性を、水野東高校の生徒と思われる人物が案内した。


 女性から学校へお礼の電話があった。


 その生徒は名乗らずに立ち去ったが、首元に見えた校章から水野東高校の生徒であること、また校章の色から三年生と思われることが分かった。


 心当たりのある者は、担任または学校へ連絡するように。


 そんな内容だった。


「……何でこれ、学校に来るんだよ」


 昌志は思わず呟いた。


 しまった、と思った。


 今日は学校指定のシャツを着ていた。


 休日だから制服ではない。


 けれど、学校指定のシャツは動きやすいし、適当に着るにはちょうどよかった。


 その首元には、水野東高校の校章が入っている。


 校章の色は学年で違う。


 三年生は青。


 二年生は緑。


 一年生は、今年は赤のはずだ。


 おばあさんは、それを見ていたのだろう。


 昌志は画面を見下ろしたまま、ため息をついた。


 名前を聞かれた時、答えなかった。


 大したことはしていない。


 たまたま通りかかっただけ。


 そう言って立ち去った。


 それで終わりだと思っていた。


 けれど、終わっていなかった。


 わざわざ学校へお礼の電話を入れるとは思わなかった。


 名乗り出てもいい。


 悪いことをしたわけではない。


 むしろ、道案内をしただけだ。


 けれど、名乗り出ると面倒になる気がした。


 なぜ日曜の朝に市役所近くにいたのか。


 どうしてちょうど道に迷ったおばあさんに声をかけたのか。


 もしそこまで聞かれたら、説明が難しい。


 それに、最近は妙に人助けが続いている。


 火事の時もそうだ。


 校内で、謎の高校生のように少し話題になったこともある。


 そこにまた自分の名前が出たら、余計な注目を浴びるかもしれない。


「名乗る必要ないよな」


 昌志はスマホの画面を消した。


 別に、褒められたいわけではない。


 お礼を言われたいわけでもない。


 黒い本に書かれていたから動いただけだ。


 もちろん、困っている人を助けたこと自体は悪くない。


 けれど、その理由を誰かに説明することはできない。


 昌志はスマホを机に置いた。


 外には出ない。


 名乗り出もしない。


 それでいい。


 そう思った時だった。


 下から母の声がした。


「昌志ー」


 嫌な予感がした。


 昌志は少しだけ返事を遅らせた。


「何?」


「ちょっと下りてきて」


 昌志は時計を見る。


 四時を少し過ぎていた。


 夕方と言えば、夕方だ。


 昌志の背中に、嫌な汗が浮かんだ。


 今、この時間に呼ばれるのは困る。


 夕方。


 街中。


 バイク事故。


 外へ出れば、その場所にいる。


 昌志はゆっくり立ち上がり、階段を下りた。


 リビングには母がいた。


 台所に立ち、少し困った顔をしている。


「昌志、悪いんだけど」


「何?」


「ちょっと買い物行ってきてくれない?」


 昌志は固まった。


「今?」


「うん。今」


「どうしても今じゃないと駄目?」


 母は不思議そうに昌志を見る。


「何その聞き方」


「いや、ちょっと」


「今日の夕食に使いたいの。じゃがいもを買い忘れちゃって」


「じゃがいも」


「そう。カレーに入れる分」


 カレー。


 じゃがいも。


 普通なら、買いに行けばいいだけだ。


 近くのスーパーまで歩いて、買って、帰ってくる。


 それだけ。


 けれど、今は夕方だった。


 外へ出れば、事故に遭う可能性がある。


 黒い本はそう書いていた。


 昌志は必死に考えた。


「じゃがいも、なくてもいいんじゃないか?」


「え?」


「最近、じゃがいもなしのカレーって人気なんだよ」


 自分でもかなり適当なことを言ったと思った。


 母は少し目を丸くする。


「そうなの?」


「そうそう」


「本当に?」


「うん。ほら、じゃがいも入れると重くなるし」


「重くなる?」


「あと、溶けるし」


「溶けるのがいいんじゃないの?」


「それは昔の考え方」


 口から出まかせだった。


 自分でも何を言っているのか分からない。


 けれど、今は買い物に行かないことが最優先だった。


「今日はじゃがいもなしで作ろうよ」


「でも、昌志、カレーのじゃがいも好きじゃなかった?」


「今日は、じゃがいもなしの気分」


「そんな気分あるの?」


「ある」


 母は半信半疑の顔をした。


 けれど、台所の方を見て少し考える。


「まあ、にんじんと玉ねぎとお肉はあるし」


「それで十分だよ」


「司はどうせ、何にでも文句言うし」


「それはそうね」


「そこで納得するんだ」


 母は少し笑った。


「じゃあ、今日はじゃがいもなしにしようかな。今から買いに行くのも面倒だし」


「うん。それがいい」


 昌志は胸の奥で大きく息を吐いた。


 何とか乗り越えた。


 買い物に行かずに済んだ。


 母はまだ少し不思議そうにしている。


「でも、昌志がそこまでじゃがいもなしを押すの、珍しいわね」


「たまには」


「変な子」


「普通だよ」


「普通ではないと思うけど」


 母はそう言いながら、鍋の方へ戻っていった。


 昌志はリビングの椅子に座った。


 足の力が少し抜けていた。


 家にいれば安全。


 そう思っていた。


 けれど、家にいても外へ出されることはある。


 買い物。


 用事。


 誰かの頼み。


 そういうものは、突然来る。


 休みの日だから安全というわけではない。


 部屋にいれば何も起きない、というわけでもない。


 昨日は司が部屋に入った。


 今日は母に買い物を頼まれかけた。


 黒い本の予告を避けるには、ただ家にいればいいだけではない。


 家の中でも、外へ出る理由は生まれる。


 昌志は窓の外を見た。


 夕方の光が、少しずつ薄くなっている。


 今、外のどこかでバイク事故が起きるのかもしれない。


 自分が外に出ていれば、そこにいたのかもしれない。


 そう考えると、背筋が少し冷えた。


 でも、今日は出ない。


 絶対に出ない。


 昌志はそう決めて、リビングの椅子に座ったまま、しばらく外を見ていた。


 台所からは、じゃがいもの入っていないカレーの匂いがしてきた。

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