第88話 黒いノートと雪
七月五日の午前。
昌志は市役所の方を振り返り、それから駅前の方へ歩き出した。
道案内は終わった。
黒い本の朝の記述は、たぶんこれで起きたことになる。
ただ道を教えただけではない。
荷物を持った。
冷たい飲み物も渡した。
暑い中、少し話しながら一緒に歩いた。
それが黒い本の記述に対して、どこまで意味があるのかは分からない。
けれど、おばあさんは笑っていた。
なら、悪いことではなかったはずだ。
時計を見ると、まだ午前中だった。
このまま家に帰ってもいい。
夕方に外へ出ない方がいいなら、早く帰るに越したことはない。
ただ、その前にやることがあった。
黒い本の偽物を探さなければならない。
昨日、司が黒い本を開いた。
司には文字が見えなかった。
それはよかった。
けれど、司はもう黒い本の存在を気にしている。
何も対策しないまま、机の上に置いておくわけにはいかない。
昌志は駅前へ向かう途中で、文房具店を探した。
少し歩いたところに、開いている店があった。
店内に入ると、棚にはいろいろなノートが並んでいる。
学校で使うような薄いノート。
模様の入ったもの。
予定を書き込む手帳。
小さなメモ帳。
その中から、昌志は黒い表紙のものを探した。
まったく同じものはない。
当然だった。
黒い本には題名も、出版社名も、値段も書かれていない。
そもそも、普通に売られている本なのかどうかも怪しい。
それでも、黒い表紙で、大きさが近いものならあった。
厚さも、それほど違わない。
昌志はそれを手に取った。
記憶の中の黒い本と比べてみる。
少し違う。
でも、ぱっと見ただけなら分からないかもしれない。
少なくとも、昨日の司は中身が真っ白だったことばかり気にしていた。
表紙の細かい違いまでは覚えていないはずだ。
「これでいいか」
昌志は黒いノートを一冊買った。
会計を済ませ、袋に入れてもらう。
店を出た時、少しだけ変な気分になった。
普通の文房具店で買った、普通の黒いノート。
それを、自分の自叙伝の偽物にする。
事情を知らない人が聞けば、何をしているのか分からないだろう。
だが、本物を守るためには必要だった。
文房具店を出た昌志は、駅前から少し離れた公園の方へ歩いた。
昨日の雨で地面は少し湿っていたが、空気は悪くなかった。
公園には、数人の親子と、ベンチに座る人がいるくらいだった。
何となく歩いていると、見覚えのある姿があった。
佐藤雪だった。
雪は公園の端の方で、中学生くらいの男の子と話していた。
男の子は雪より少し低いくらいで、落ち着いた雰囲気だった。
昌志は一瞬迷ってから、声をかけた。
「雪」
雪が振り向いた。
「あ、昌志くん」
少し驚いた顔をして、それから笑う。
その横で、男の子も昌志を見た。
昌志はその顔に、どこか見覚えがあるような気がした。
けれど、すぐには思い出せない。
すると、男の子の方から丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです。ただしです」
「ただし……」
昌志は少し考えた。
それから、ようやく思い出した。
「雪の弟か」
「はい」
ただしは素直にうなずいた。
雪が少し嬉しそうに言う。
「大きくなったでしょ」
「ああ。全然分からなかった」
「中学の頃は、まだ小さかったもんね」
「そうだな」
昌志は改めて、ただしを見る。
昔、雪のそばにいた小さな弟。
その面影は少し残っている。
けれど、今はもう中学生くらいに見えた。
「本当に久しぶりだな」
「はい」
ただしは丁寧に答えた。
雪は少し苦笑する。
「相変わらず、しっかりしてるでしょ」
「相変わらず、よくできた弟だよな」
「そう言うと、本人が困るよ」
ただしは少しだけ照れたように目をそらした。
「別に、そんなことないです」
「ほら」
「何がほらなんだ」
「よくできてる」
雪が楽しそうに言った。
昌志は少しだけ笑った。
「二人で出かけてたのか?」
「うん。ちょっと買い物の帰り」
「そうか」
「昌志くんは?」
「俺も、少し買い物」
昌志は文房具店の袋を軽く持ち上げた。
「そうなんだ」
雪はそれ以上、深くは聞いてこなかった。
昌志は少しだけ安心する。
本当は、市役所の近くで道に迷っていたおばあさんを案内してきた。
荷物も持った。
冷たい飲み物も渡した。
けれど、それをそのまま話す気にはなれなかった。
名前を聞かれても答えなかったのに、ここで雪に話してしまえば意味がない。
どこから話が広がるか分からない。
黒い本を見て動いたことまでは分からなくても、昌志がその場にいたことだけは残ってしまう。
「雪は、こっちに戻ってきて慣れた?」
昌志が聞くと、雪は少し考えた。
「まだ、少し」
「そうか」
「でも、ただしもいるし」
雪は隣のただしを見る。
「それに、今はもう一人弟がいるんだ」
「もう一人?」
「うん。再婚したから」
「ああ」
「小学三年生。まだ小さくて、かわいいよ」
雪の表情が少し柔らかくなった。
弟の話をしている時の顔だった。
「ただしとは、また違う感じだけど」
「姉ちゃん、あの子には甘いから」
ただしが静かに言う。
「そんなことない」
「あるよ」
「ない」
二人のやり取りを聞いて、昌志は少し笑った。
「雪って、家だとそんな感じなんだな」
「どんな感じ?」
「姉って感じ」
「姉だよ」
「そうだけど」
学校で見る雪とは、少し違う。
文芸部で困っていた雪。
昔の成沢雪。
そして、弟たちの話をする佐藤雪。
その三つが、少しずつ同じ人に見えてきた。
昌志は、ようやく雪を今の雪として見始めているのかもしれない。
そんなことを思った。
昌志は時計を見た。
まだ午前中だ。
けれど、長く外にいる必要はない。
夕方には、街中でバイク事故に巻き込まれる。
外へ出なければ、その事故には遭わない。
そう書かれていた。
黒い本の時間は、いつも完全に信用できるわけではない。
夕方と書かれていても、少し早く起きる可能性はある。
場所も、街中としか書かれていない。
つまり、長く外にいるほど危ない。
「俺、そろそろ帰る」
「もう?」
「うん。ちょっと早めに帰りたい」
「そっか」
雪は無理に引き止めなかった。
「また文芸部で」
「ああ」
「ただし、挨拶」
「今日はありがとうございました」
ただしが丁寧に頭を下げる。
「こっちこそ」
昌志も軽く返す。
雪は少し笑い、ただしと一緒に歩いていった。
昌志は、その背中を見送る。
学校ではない雪。
弟といる雪。
文芸部で見た時より、少し肩の力が抜けているように見えた。
昌志は、それを見られてよかったと思った。
そのあと、昌志はまっすぐ家へ帰った。
昼前だった。
家には母しかいなかった。
司は、まだ出かけているらしい。
「おかえり。早かったのね」
「うん」
「お昼、食べる?」
「後でいい」
「そう?」
「うん」
昌志はリビングには長くいなかった。
早く黒いノートをどうにかしたかった。
自分の部屋へ戻る。
机の引き出しを開ける。
本物の黒い本は、そのままあった。
昌志は文房具店の袋から、買ってきた黒いノートを取り出した。
机の上へ二冊を並べる。
こうして見ると、まったく同じではない。
本物の方が、表紙の黒が少し深く見える。
厚さも、わずかに違う。
だが、何も知らずに一度見ただけなら、すぐには気づかないかもしれない。
少なくとも、部屋へ入って慌てて開いた司なら、細かい違いまでは覚えていないはずだ。
昌志は偽物の黒いノートを開いた。
当然、どのページも真っ白だった。
このまま置いておくと、昨日と何も変わらない。
また司が開けば、余計に怪しむかもしれない。
昌志はペンを持った。
最初のページへ日付を書く。
七月五日。
午前、駅前へ行く。
午後、家にいる。
少し考え、下にもう一行加えた。
読んだ本や、その日の予定を書く。
それだけ書けば、普通の予定帳か日記帳のように見える。
司に聞かれたら、これから使うつもりで買ったと答えればいい。
昨日はまだ何も書いていなかった。
今日から書き始めた。
それで話は通るはずだった。
昌志は本物の黒い本を手に取った。
机の上へ置いておくのは、もう危ない。
引き出しの中も安心できない。
昌志は少し迷ってから、これまでとは別の場所へ本物を隠した。
簡単には見つからない場所。
少なくとも、司が何となく部屋へ入った程度では、目に入らないはずだった。
代わりに、偽物の黒いノートを机の上へ置く。
少し離れて見る。
昨日までと、大きく変わったようには見えなかった。
「これでいいか」
昌志は小さく息を吐いた。
偽物を作った。
本物の自叙伝を守るために、普通のノートへ嘘の予定を書いた。
少し前なら、そこまでして黒い本を隠そうとは思わなかったかもしれない。
けれど、今は違う。
司に知られるわけにはいかない。
母にも知られるわけにはいかない。
圭佑にも、遥にも、まだ話すことはできない。
この本のことを知っているのは、自分だけでいい。
昌志は、机の上に置いた偽物を見つめた。
見た目は、ただの黒いノートだった。
本物も、閉じている時はただの黒い本にしか見えない。
違うのは、午前零時を過ぎた時だった。
偽物には、昌志が書いた言葉しか残らない。
本物には、昌志がまだ書いていないはずの出来事が浮かび上がる。
今夜になれば、また本物を取り出さなければならない。
隠したからといって、黒い本を見なくて済むわけではなかった。
昌志はカーテンの隙間から、外を見る。
まだ昼にもなっていない。
夕方までは、家にいる。
外へは出ない。
それだけで事故を避けられるなら、今日はそれでいい。
窓の外からは、遠くの車の音が聞こえていた。
昌志は机の上の偽物に背を向け、部屋の中で過ごすことにした。




