第87話 道に迷った人
七月五日の朝。
昌志は、机の引き出しから黒い本を取り出した。
昨日の夜に浮かび上がった文章は、まだ頭に残っている。
朝。
市役所の近くで、道に迷っているおばあさんに会う。
夕方。
街中で、バイク事故に巻き込まれる。
外へ出れば、その場所にいる。
外へ出なければ、その事故には遭わない。
「……夕方は外に出ない方がいいよな」
昌志は小さく呟いた。
分かりやすいと言えば、分かりやすい。
外へ出なければ事故には遭わない。
それなら、夕方は家にいればいい。
問題は、朝の方だった。
おばあさんの道案内。
それ自体は悪いことではない。
むしろ、普通に人助けだ。
けれど、黒い本に書かれている以上、無視するのは落ち着かない。
ひとつは選ぶ。
少なくとも、今まではそうしてきた。
なら、今日は朝の方を選び、夕方の事故は避ける。
それが一番ましな選択に思えた。
昌志は黒い本を閉じかけた。
その時、昨日の夕方のことを思い出した。
司が、この本を開いた。
けれど、司には文字が見えなかった。
真っ白な本にしか見えていなかった。
それ自体には安心した。
でも、完全には安心できない。
司はもう、この本を気にしている。
真っ白な本だと思っているはずなのに、それでも疑っているかもしれない。
これまでと同じように、机の上へ置いたままにはできない。
引き出しへ入れたところで、司が本気で探せば見つけられる。
昨日は黒い本を開いただけだった。
次は、引き出しの中まで調べるかもしれない。
「どうするかな……」
昌志は黒い表紙を見つめた。
隠すだけでは、かえって怪しまれる可能性がある。
昨日まで大事そうに机の上へ置いていた本が、突然なくなれば、司は何かあると思うかもしれない。
それなら、似たような本を置いておけばいい。
黒い表紙の、同じくらいの大きさのノート。
司がもう一度開いた時、普通のことだけが書かれていれば、少しは疑いも薄れるかもしれない。
昨日見た時には何も書かれていなかった。
だから、買ったばかりのノートへ予定を書き始めたのだと言っても、不自然ではない。
「偽物を置いておくか」
口に出してから、昌志は少し変な気分になった。たかが一冊の本を隠すために、偽物まで用意しようとしている。
以前の自分なら、そんなことは考えなかった。
だが、司に黒い本のことを知られるわけにはいかない。
説明もできない。
なら、仕方がなかった。
市役所の近くへ行く途中か、帰りに文房具店を探せばいい。
昌志はそう決めた。
そのまま黒い本を引き出しへ戻そうとして、手を止める。
開いていたページの前には、これまで完成した自叙伝が続いている。
五月から七月四日まで。
自分が選び、実際に起きたことが、黒い文字になって残っていた。
昌志はページを戻した。
最初の方から、ゆっくりと読み返していく。
五月の頃の文章は短かった。
良かったこと。
失敗せずに済んだこと。
避けられたこと。
黒い本に書かれた予定を見て、その中から自分に都合のいいものを選べばよかった。
あの頃は、便利な本だと思っていた。
少し先のことが分かる。
損を避けられる。
危ないことには近づかずに済む。
それだけのものだと思っていた。
けれど、六月に入ってから、本の書き方は変わった。
先の予定が並ぶことはなくなった。
午前零時を過ぎるまで、その日のことさえ分からなくなった。
選ばなかったものは、消えたとは限らない。
あの警告が現れてから、黒い本の文章は少しずつ長くなっていた。
昌志一人だけの出来事ではなくなった。
圭佑。
遥。
美月。
司。
知っている人の名前が、完成した自叙伝の中に増えている。
自分が何を選んだかによって、誰かが助かったこともあった。
誰かと会ったこともあった。
逆に、避けたはずのことが、別の場所で起きたこともあった。
場所は当てにならない。
時間も、書かれているとおりになるとは限らない。
それでも、書かれた出来事そのものは消えてくれない。
昌志は、何枚ものページをめくった。
こうして続けて読んでみると、本当に自分のことばかりが書かれている。
何をしたのか。
誰と会ったのか。
何に気づかなかったのか。
自分では覚えていなかったような小さなことまで、文章として残っている。
黒い本を買った時、ほとんどのページには何も書かれていなかった。
それが今では、自分の名前と、自分が選んだ出来事で少しずつ埋まり始めている。
「本当に、自叙伝なんだな」
昌志は小さく呟いた。
自分で書いた覚えはない。
日記をつけたこともない。
それでも、この本は自分の行動を使い、自分の人生を文章にしている。
まだ七月が始まったばかりだった。
この先、どこまで書かれるのかは分からない。
最後のページに、何が書かれるのかも分からない。
考えると、少し気味が悪かった。
それでも、黒い本がなければ避けられなかったこともある。
この本を見ていたから、助けられた人もいる。
昨日も、早く家へ戻ったから、司はそれ以上部屋を調べずに済んだ。
今日も、この本がなければ、市役所の近くへ行こうとは思わなかった。
夕方の事故も知らないまま、外を歩いていたかもしれない。
怖い。
けれど、なくすわけにはいかない。
だからこそ、司に見つからないようにしなければならない。
昌志は黒い本を閉じた。
今度こそ引き出しへ入れ、奥まで押し込む。
今日、似たような黒いノートを買う。
本物は別の場所へ隠す。
机の上には偽物を置く。
それで、ひとまずは大丈夫なはずだった。
昌志は部屋を出た。
階段を下りる。
リビングに入ると、司がいた。
今日は私服だった。
どこかへ出かけるつもりなのか、朝食を取りながら、スマホをちらちら見ている。
けれど、昌志が入ってきても、珍しく何も言ってこなかった。
いつもなら、朝から顔が暗いとか、近くに来るなとか、何かしら文句をつけてくる。
昨日のことがあるからだろう。
司は昌志と目を合わせない。
昌志も、しばらく何も言わなかった。
母が朝食を出してくれる。
「昌志、今日は出かけるの?」
「うん。ちょっと」
「司も出かけるのよね?」
「うん」
司は短く答えた。
やはり、妙におとなしい。
昌志は箸を取りながら、少しだけ司を見た。
司はそれに気づいたのか、すぐに顔をしかめる。
「何」
「いや」
「また見てる」
「見てない」
「見てた」
いつものやり取りに戻りそうだった。
けれど、司はそこで口を閉じた。
それ以上、突っかかってこない。
昨日の侵入を、まだ気にしているのだろう。
昌志は朝食を食べ終え、立ち上がった。
出かける前に、ひとつだけ言っておく。
「司」
「何」
「もう俺の部屋に入るなよ」
司の手が止まった。
母も、台所から振り返る。
「司、勝手に昌志の部屋に入ったの?」
「……」
司は黙った。
いつもなら、入っていないとか、たまたまだとか、すぐに言い返す。
けれど、何も言わなかった。
それが答えになっていた。
母の表情が少し険しくなる。
「司」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとでも、勝手に入るのは駄目でしょう」
「分かってる」
司は小さく答えた。
昌志は、それ以上何も言わなかった。
ここで話を広げると、黒い本のことまで聞かれるかもしれない。
母に説明できることはない。
司を責めたい気持ちはあった。
けれど、今はそれより、市役所の近くへ行く方が先だった。
「行ってくる」
「気をつけてね」
母が言う。
司は何も言わなかった。
昌志は玄関で靴を履き、家を出た。
空は昨日より明るい。
雨は上がっていた。
道路の端には、まだ少し水が残っている。
昨日の雨の名残だった。
市役所の近く。
黒い本には、それだけしか書かれていなかった。
時間も、細かい場所も分からない。
朝と言っても、幅が広い。
早すぎても会えないかもしれない。
遅すぎても、もういないかもしれない。
それでも、行くしかなかった。
昌志は市役所の方へ向かった。
休みの日の朝だからか、道はそれほど混んでいない。
市役所の建物が見えてくる。
その周辺を、ゆっくり歩いた。
入口の前。
バス停の近く。
交差点。
公民館へ続く道。
どこにいるのか分からないまま、昌志は何度か周囲を見回した。
しばらくして、歩道の端に立っているおばあさんを見つけた。
小さな鞄を持っている。
もう片方の手には、折りたたまれたメモ用紙。
そのメモと周囲を見比べながら、困ったように立ち止まっていた。
鞄は、見た目より重そうだった。
おばあさんは持ち手を何度か握り直し、額の汗を手の甲で拭っている。
昨日の雨は上がっていたが、日が出ると暑さが戻っていた。
湿った空気の中で立ち止まっているだけでも、大変そうに見える。
昌志は、少しだけ息を吐いた。
たぶん、この人だ。
近づいて声をかける。
「あの」
おばあさんが顔を上げた。
「道、分かりませんか?」
「あら」
おばあさんは少し驚いたように昌志を見た。
「すみませんね。この辺り、久しぶりで」
「どこに行きたいんですか?」
おばあさんはメモを昌志に見せた。
そこには、施設の名前と住所の一部が書かれていた。
昌志は一瞬だけ不安になった。
自分にも分からない場所だったら、どうしよう。
けれど、書かれている場所には見覚えがあった。
市役所から少し歩いたところにある建物だ。
「ここなら分かります」
「本当ですか?」
「はい。そんなに遠くないです」
「助かります」
「案内します。あと、その荷物、持ちますよ」
「え、でも」
「重そうなので」
「悪いですよ」
「暑いですし。目的地までなら大丈夫です」
昌志が手を差し出すと、おばあさんは少し迷ったあと、申し訳なさそうに鞄を渡してくれた。
受け取ってみると、やはり見た目より重かった。これを持って、分からない道を歩き続けるのは大変だろう。
「本当にすみませんね」
「いえ」
昌志はおばあさんの歩調に合わせて歩き出した。
急ぐ必要はない。
今日は夕方に外へ出ない方がいいだけで、朝は時間に追われているわけではない。
道を曲がり、少し細い通りへ入る。
おばあさんは、何度か昌志に礼を言った。
「すみませんねえ。若い人にわざわざ」
「大丈夫です」
「最近は道も変わってしまって。昔はもっと分かりやすかった気がするんですけど」
「建物、増えましたから」
「そうねえ。昔は、ここまで迷うこともなかったんですけど」
「久しぶりだと分かりにくいですよね」
昌志は、そう答えながら周囲を確認した。
目的地までは、まだ少し歩く。
おばあさんは平気そうにしているが、足取りはゆっくりだった。
額にも汗がにじんでいる。
少し先に自動販売機が見えた。
昌志は足を止める。
「ちょっと待っててください」
「え?」
昌志は自動販売機の前へ行き、冷たいお茶を一本買った。
戻って、おばあさんへ差し出す。
「これ、よかったら」
「そんな、そこまでしてもらうわけには」
「暑いので。途中で倒れたら大変ですし」
「でも」
「俺も飲み物を買おうと思ってたので、ついでです」
もちろん、自分の分は買っていない。
けれど、そう言った方が受け取りやすい気がした。
おばあさんは少し困ったように笑ってから、両手でお茶を受け取った。
「ありがとうございます。では、ありがたくいただきますね」
「はい」
おばあさんは蓋を開け、少しだけお茶を飲んだ。
それから、ほっとしたように息を吐く。
「冷たくて、おいしいですね」
「最近、暑いですよね」
「本当に。昨日は雨で少し涼しいかと思ったら、今日はまた暑くなって」
「雨のあとって、蒸しますよね」
「そうねえ。若い人でも暑いでしょう」
「暑いです」
昌志が正直に答えると、おばあさんは小さく笑った。
「でも、若い人は元気でいいですね」
「そうでもないです」
「あら、そうなの?」
「朝はけっこう眠いです」
「ふふ。正直ですね」
おばあさんが笑う。
昌志も少しだけ笑った。
こうして話しながら歩いていると、ただ黒い本に従っているだけではないような気がした。
通り過ぎれば、おばあさんはしばらく歩き続ける。
黒い本には、そう書かれていた。
大きな事故でもない。
取り返しのつかない不幸でもない。
けれど、今こうして荷物を持ち、冷たい飲み物を渡し、道案内をしていると、たしかに助けにはなっている。
黒い本がなければ、気づかなかったかもしれない。
気づいても、声をかけずに通り過ぎたかもしれない。
そう思うと、少しだけ複雑だった。
おばあさんは、昔この辺りに住んでいたことがあるらしい。
今は別の町に住んでいて、今日は用事があって久しぶりに来たのだと言った。
「昔は、この辺りにも小さなお店がいくつかあったんですけどね」
「今は、あまりないですね」
「そうなの。だから目印にしていたお店がなくなっていて、すっかり分からなくなってしまって」
「それは迷いますね」
「ええ。地図を見ても、昔の記憶が邪魔をするんです」
「記憶が邪魔をする?」
「昔はこっちだったはず、と思ってしまうんですよ。そうすると、今の道が見えなくなるんです」
昌志は、その言葉に少しだけ黙った。
昔の記憶が邪魔をする。
今の道が見えなくなる。
何となく、自分にも関係があるような気がした。
黒い本を手に入れてから、昌志は先のことばかりを見ている。
けれど、読み返したばかりの自叙伝には、過去の自分も書かれていた。
昔の自分。
今の自分。
そのどちらも、この本の中に残っていく。
「どうかしました?」
おばあさんが聞いた。
「あ、いえ。何でもないです」
「そう?」
「はい。こっちです」
昌志は道を示しながら、もう一度歩き出した。
やがて、目的の建物が見えてきた。
「あそこです」
「ああ、本当だ。ここでした」
おばあさんは、ほっとしたように笑った。
昌志は入口の近くまで案内し、持っていた鞄を返した。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「いえ」
「荷物まで持ってもらって、飲み物までいただいてしまって」
「たまたま迷っているところを見かけたので、手伝っただけです」
「それでも、なかなかできることではありませんよ」
「そんなことないです」
昌志が少し困って答えると、おばあさんは目を細めた。
「お名前を聞いてもいいですか?」
「名前はいいです」
「でも」
「大したことはしてないので。たまたま通りかかっただけですから」
昌志がそう言うと、おばあさんは少しだけ笑った。
「そうですか」
「はい」
「では、親切な学生さん、ありがとう」
「はい」
「お話もできて、楽しかったです」
「え?」
「久しぶりに来た場所で迷ってしまって、少し心細かったんです。でも、あなたが話しながら案内してくれたので、安心しました」
「……そうですか」
「ええ。面白かったですよ」
「俺、そんな面白いこと言いました?」
「言っていましたよ。朝は眠いとか」
「あれですか」
「ええ」
おばあさんは楽しそうに笑った。
昌志は少しだけ恥ずかしくなり、目をそらす。
「でも、こちらこそ。話せてよかったです」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
おばあさんは丁寧に頭を下げた。
「親切な学生さん、本当にありがとう」
「はい」
昌志も軽く頭を下げる。
おばあさんはもう一度礼を言ってから、建物の中へ入っていった。
昌志はその場に少しだけ立っていた。
道案内は終わった。
黒い本の朝の記述は、たぶんこれで起きたことになる。
ただ道を教えただけではない。
荷物を持った。
冷たい飲み物も渡した。
暑い中、少し話しながら一緒に歩いた。
それが正しかったのかは分からない。
けれど、おばあさんは笑っていた。
なら、悪いことではなかったはずだ。
昌志は時計を見た。
まだ午前中だった。
夕方までは時間がある。
このまま家に帰ってもいい。
けれど、その前に、やることが一つ残っている。
黒い本の偽物を探さなければならない。
昌志は市役所の方を振り返り、それから駅前の方へ歩き出した。




