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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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幕間7 名探偵さん

 七月四日の夜。


 夕食を終えたあと、司は自分の部屋に戻った。


 部屋の明かりをつけ、ベッドに腰を下ろす。


 手にはスマホがある。


 画面には、美月の名前が表示されていた。


 少し迷う。


 けれど、結局、通話ボタンを押した。


 呼び出し音は、長く続かなかった。


『もしもし、司ちゃん?』


「美月さん、今いい?」


『うん。大丈夫だよ』


 美月の声は、いつも通りやわらかかった。


 それを聞いて、司は少しだけ息を吐く。


「今日さ、お兄ちゃんと会った?」


『えっ』


 電話の向こうで、美月の声が少し跳ねた。


『う、うん。会ったよ』


「図書館?」


『そう。図書館で偶然……というか、昌志先輩も来ていて』


「やっぱり」


『やっぱり?』


「お兄ちゃん、昼くらいに出かけたんだよ。傘二本持って」


『傘、二本……』


「うん。一本じゃなくて二本」


 司はベッドに座ったまま、膝を抱えた。


「雨、朝は降ってなかったでしょ」


『うん』


「天気予報でも、そんなに雨って感じじゃなかった。少なくとも、朝から傘を二本持って出るほどじゃなかった」


『……そうだね』


「でも、お兄ちゃんは持ってった」


 司は少し声を低くした。


「それ、美月さんに渡すためだったんだよね」


 電話の向こうで、美月が黙った。


 少ししてから、小さな声が返ってくる。


『帰る時、雨が降っていて』


「うん」


『私、傘を持っていなかったから、昌志先輩が貸してくれたの』


「やっぱり」


『でも、助かったよ。本当に』


「それはそうだろうけど」


 司は眉を寄せる。


「おかしくない?」


『傘を貸してくれたこと?』


「違う。雨が降るって分かってたみたいなこと」


『……少し、不思議だとは思った』


「でしょ」


 司は少しだけ身を乗り出した。


「だって、普通は一本でいいじゃん。自分の分だけ持っていけばいいのに、二本だよ。しかも、雨が降る前から」


『昌志先輩は、雨が降りそうだと思ったのかもしれないよ』


「まあ、それはあるかもしれないけど」


 司はすぐには納得しなかった。


 窓の外では、まだ雨の音がしている。


 小さく、でも途切れずに続いていた。


「でもさ、それだけじゃないんだよ」


『それだけじゃない?』


「今日、お兄ちゃん、圭佑さんに電話してたの」


『昌志先輩が、お兄ちゃんに?』


「うん。美月さん、今日どこかに出かける予定があるのかって聞いたんだって」


『私が?』


「それで、圭佑さんが、図書館に行くって言ってたぞって答えたみたい」


『そうなんだ……』


 美月の声が、少しだけ小さくなる。


『私に直接聞いてくれればいいのに』


 ぼそりと漏れた言葉を聞いて、司が少し笑った。


「そういえば、そうだね」


『わ、笑わないでよ』


「笑ってないよ」


『今、笑ったよ』


「ちょっとだけ」


『もう……』


 美月は少し恥ずかしそうに言った。


「でも、そのあと、本当に図書館で会ったんでしょ?」


『うん』


「お兄ちゃん、美月さんが出かけることを最初から知ってたみたいじゃない?」


『それは……少し不思議かも』


「でしょ」


 司は少しだけ声を低くした。


「しかも、雨が降る前から傘を二本持ってた」


「それに……」


「俺の部屋に入るなって」


『え?』


「急にだよ。今日の朝ご飯のあとに。俺の部屋、勝手に入るなよって」


『……司ちゃん、入るつもりだったの?』


 司は少しだけ言葉に詰まった。


 それから、正直に答えた。


「うん」


『司ちゃん』


「分かってる。悪いことなのは分かってる」


 司は膝を抱えた手に力を入れた。


「でも、気になったんだよ」


『何が?』


「黒い本」


『黒い本?』


「お兄ちゃんが最近、ずっと大事そうにしてる本。机の上に置いてて、夜に見てて、たまにすごく暗い顔してるやつ」


『昌志先輩が……』


「昨日から気になってた。だから、お兄ちゃんがいない時に部屋に入って、中を見ようと思ってた」


『うん』


「そしたら、朝から釘を刺された」


 司は声を落とした。


「まるで、私が部屋に入ろうとしてるのを知ってたみたいに」


 電話の向こうで、美月が黙った。


 その沈黙が、司には少しだけ怖かった。


「それで、夕方」


『うん』


「お兄ちゃんが出かけてる間に、部屋に入った」


『司ちゃん……』


「分かってるって。悪かったって思ってる」


『それで、その本を見たの?』


「見た」


 司は天井を見上げた。


「でも、真っ白だった」


『真っ白?』


「うん。何も書いてなかった」


『何も?』


「何も。日記でもないし、メモでもないし、変な文字もない。ページは全部、白いだけ」


『そうなんだ……』


「だから、最初は思ったの。これじゃないのかなって」


『これじゃない?』


「お兄ちゃんが変なのは、別の理由なのかなって。だって、何も書いてないんだよ。普通に考えたら、ただの白い本じゃん」


『うん』


「でも」


 司はそこで一度言葉を切った。


 あの時の昌志の顔を思い出す。


 濡れたまま部屋に駆け込んできて、扉を乱暴に開けた時の顔。


 怒っていた。


 それ以上に、焦っていた。


 まるで、本当に見られたら困るものを見られたみたいだった。


「お兄ちゃん、すごい必死だった」


『必死?』


「私がその本を見てたら、すぐ取り上げた。朝言っただろって、すごく怒って」


『……それは』


「だから、やっぱりあの本、何かあるんじゃないかと思ってる」


『でも、真っ白だったんだよね?』


「そう。真っ白だった」


『じゃあ、何があるんだろう』


「分からない」


 司は小さく息を吐いた。


「仕掛けがあるのかなって思って、表紙とか、ページの間とか、いろいろ見た。でも分からなかった」


『仕掛け……』


「笑わないでよ」


『笑ってないよ』


「ならいいけど」


 司はスマホを握り直した。


「でも、変でしょ。朝、私が部屋に入ることを知ってたみたいだった。夕方、私が本を見てたら、急に帰ってきた」


『偶然……なのかな』


「偶然にしては、重なりすぎ」


『うん』


 美月の声が、少しだけ真剣になった。


『私も、今日少し不思議だなとは思った』


「でしょ」


『でも、昌志先輩は優しいから』


「優しいだけで、あんなふうにはならないでしょ」


『それは……そうかもしれない』


 美月が少し困ったように笑った気配がした。


 司はその声を聞きながら、少しだけ落ち着いた。


 美月も、少し変だとたぶん思っている。


 自分だけが考えすぎているわけではない。


 それが分かっただけでも、少し楽だった。


『でも、司ちゃん』


「何」


『勝手に部屋に入るのは、やっぱりよくないよ』


「分かってる」


『本当に?』


「分かってるって。そこは反省してる」


『ならいいけど』


「でも、調べるのはやめない」


『調べるの?』


「だって、お兄ちゃん変だもん」


『昌志先輩は、前から少し変わってるところはあるけど』


「そういう変じゃない」


 司ははっきりと言った。


「最近のお兄ちゃんは、何か知ってるみたいに動く時がある」


『何か知ってるみたいに……』


「うん。今日みたいに」


 黒い本。


 朝の釘刺し。


 夕方の帰宅。


 どれかひとつなら、ただの偶然で済む。


 でも、全部が同じ日に重なると、どうしても気になった。


「まあ、証拠はないけどね」


『本は真っ白だったしね』


「そこなんだよ」


 司は少し悔しそうに言った。


「何か書いてあれば、まだ分かりやすかったのに」


『書いてなかったから、余計に分からないね』


「うん」


 少しだけ沈黙があった。


 それから、美月がやわらかく言った。


『また何か分かったら教えてね』


「うん」


『名探偵さん』


「名探偵?」


『うん』


 美月が小さく笑う。


『司ちゃん、やっぱり探偵みたいだから』


 司は一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ、司探偵におまかせ」


『ふふっ』


「笑わないでよ」


『ごめん。かわいくて』


「かわいくない」


『かわいいよ』


「美月までそういうこと言わないで」


 二人で少し笑った。


 笑うと、部屋に入った時の気まずさも、昌志に怒られた時の重さも、少しだけ薄くなった。


 けれど、疑問は消えない。


 真っ白な黒い本。


 雨を知っていたような傘。


 部屋に入ることを知っていたような朝の言葉。


 昌志は、何かを隠している。


 司はそう思った。


 通話を切ったあとも、その考えはしばらく消えなかった。

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