第86話 真っ白な本
七月四日の夜。
夕食の時間になった。
昌志が一階へ下りると、司はすでに席に着いていた。
母が食事を並べている。
父はいない。
いつもと大きく変わらない夕食のはずだった。
けれど、司の様子は違った。
昌志と目を合わせない。
箸を持ったまま、妙に落ち着かない。
部屋へ入ったことを、母の前で言われるかもしれない。
そう警戒しているように見えた。
昌志は何も言わなかった。
言えば、また面倒になる。
母に説明を求められても、黒い本のことは話せない。
なら、黙っているしかなかった。
司はちらちらと昌志の方を見ては、すぐに目をそらす。
「何だよ」
昌志が小さく聞くと、司は少し肩を揺らした。
「別に」
「別にじゃないだろ」
「別に」
母が二人を見比べる。
「また何かあったの?」
「何もない」
昌志と司の声が重なった。
母は少し疑わしそうにしたものの、それ以上は聞かなかった。
夕食は静かに進んだ。
司はいつもよりおとなしかった。
文句も少ない。
昌志に絡んでもこない。
それが逆に落ち着かなかった。
食事を終えると、司はすぐに自分の部屋へ戻っていった。
昌志も少し遅れて部屋へ戻る。
机の引き出しを開ける。
黒い本は、しまった場所にあった。
なくなっていない。
それだけを確認し、昌志は小さく息を吐いた。
けれど、すぐに開くことはしなかった。
まだ日付は変わっていない。
今開いても、七月五日の新しい予告は出てこない。
昌志は何度か時計を確認しながら、午前零時になるのを待った。
* *
午前零時を過ぎてから、昌志は黒い本を開いた。
紙の奥から、黒い文字がゆっくりと浮かび上がってくる。
まず、七月四日の記述が完成していた。
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――七月四日、午後。
図書館で、
美月と会った。
美月は本を探していた。
昌志が会いに行ったことで、
美月は雨の中をひとりで帰らずに済んだ。
美月は楽しそうに話した。
けれど、
ほんの少しだけ、
期待していたことがあった。
昌志は、
それには気づかなかった。
――七月四日、夕方。
司が部屋に入った。
司は、
黒い本を開いた。
けれど、
司に文字は見えなかった。
昌志が早く戻ったことで、
司はそれ以上調べることができなかった。
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昌志は、しばらくページを見つめた。
やはり、図書館の彼女は美月だった。
雨の中をひとりで帰らずに済んだ。
そこまではよかった。
ただ、ひとつ気になる文章があった。
ほんの少しだけ、期待していたことがあった。
昌志は、それには気づかなかった。
「……何だよ、それ」
昌志は眉を寄せた。
美月は楽しそうだった。
本の話もした。
傘も渡した。
ファミレスにも行った。
途中まで一緒に帰った。
それでも、何かには気づけなかったらしい。
考えても分からなかった。
傘を渡した時、美月が少し残念そうに見えた。
あれだろうか。
けれど、傘がなければ濡れてしまう。
傘を渡して何が悪かったのか、昌志には分からない。
圭佑なら、また呆れた顔をするのかもしれない。
そして、夕方の彼女は司だった。
司は黒い本を開いた。
けれど、文字は見えなかった。
それは、結果としてはよかった。
ただ、安心しきることはできない。
司はもう、黒い本の存在を気にしている。
真っ白な本だと思っているはずなのに、それでも何かを疑っているかもしれない。
黒い本に書かれているとおり、昌志が早く帰らなければ、司はもっと部屋を調べていたのだろう。
何を探そうとしていたのか。
黒い本以外のものまで見られていたのか。
考えても分からなかった。
昌志はページをめくった。
新しい文字が浮かび上がってくる。
七月五日の記述だった。
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――七月五日、朝。
市役所の近くで、
道に迷っているおばあさんに会う。
昌志が道案内をすれば、
おばあさんは目的地へたどり着く。
昌志が通り過ぎれば、
おばあさんはしばらく歩き続ける。
――七月五日、夕方。
街中で、
バイク事故に巻き込まれる。
外へ出れば、
その場所にいる。
外へ出なければ、
その事故には遭わない。
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昌志は、思わず顔をしかめた。
「いいの、ないじゃん」
朝は、おばあさんの道案内。
それ自体は悪くない。
困っている人を助けるだけだ。
ただ、どこで会うのかは、市役所の近くとしか書かれていない。
何時なのかも、はっきりしない。
休みの日の朝に、市役所の近くまで行かなければならない。
それは少し面倒だった。
けれど、問題は夕方の方だ。
街中で、バイク事故に巻き込まれる。
外へ出れば、その場所にいる。
外へ出なければ、その事故には遭わない。
つまり、夕方は外に出ない方がいい。
分かりやすい。
分かりやすいが、嫌な書き方だった。
事故に巻き込まれる。
それは、避けた方がいいに決まっている。
なら、夕方は家にいる。
それでいい。
ただ、黒い本の記述をすべて無視していいわけではない。
ひとつは、きちんと選ばなければならない。
少なくとも、これまではそうしてきた。
なら、朝のおばあさんの道案内を選ぶしかない。
夕方の事故を避けるためにも、朝のうちに動いておく。
そう考えるのが、一番ましだった。
昌志は黒い本を閉じた。
七月五日。
朝、市役所の近くへ行く。
道に迷っているおばあさんを探す。
夕方は、できるだけ外へ出ない。
そう決めるしかない。
何もない休みの日になるはずだった。
けれど、黒い本がある限り、休みの日も休みにはならない。
昌志は黒い本を引き出しへしまい、部屋の明かりを消した。
布団に入ってからも、雨の音がしばらく耳に残っていた。




