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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第85話 侵入者

 七月四日の夕方。


 雨の中、昌志は家へ急いだ。


 傘を差しているのに、足元はかなり濡れていた。


 走りにくい。


 靴の中にも水が染みてくる。


 けれど、立ち止まる気にはなれなかった。


 夕方。


 彼女が部屋に入り、何かを探している。


 昌志が家に戻れば、彼女は何も見つけられない。


 昌志が戻らなければ、彼女はそれを見つける。


 黒い本の文章が、頭の中で何度も繰り返される。


 部屋に入る彼女。


 何かを探している彼女。


 それが誰なのかは、ほとんど分かっていた。


 司だ。


 朝から様子がおかしかった。


 部屋に入るなと言った時も、妙に引っかかる反応をした。


 何か隠しているのか。


 そう聞かれた時、昌志はうまく答えられなかった。


 たぶん、そこも怪しまれた。


 余計なことを言ったのかもしれない。


 黙っていれば、司は何もしなかったかもしれない。


 けれど、今さら考えても遅い。


 家が見えてきた。


 昌志は玄関へ飛び込むように入った。


「ただいま」


 返事を待つ余裕はなかった。


 濡れた傘を玄関の端に立てかける。


 靴を乱暴に脱ぐ。


 片方が少し転がったが、直している時間も惜しかった。


 廊下を抜け、階段を駆け上がる。


「昌志?」


 下から母の声が聞こえた。


 けれど、返事はできなかった。


 自分の部屋の前まで来る。


 扉は閉まっていた。


 昌志は一瞬だけ息を止めた。


 中に、誰かがいる。


 そんな気がした。


 扉を開ける。


 乱暴な音がした。


 部屋の中に、誰かがいた。


 司だった。


 机の前に立っている。


 机の上には、黒い本が開かれていた。


 司はその黒い本を見下ろしていた。


 昌志の胸の奥が、一気に冷たくなった。


「何やってんだ」


 声が思ったより低く出た。


 司が振り返る。


 驚いた顔だった。


 けれど、すぐにいつものような不機嫌な顔を作ろうとする。


「お兄ちゃん」


「何やってんだって聞いてるんだよ」


「別に」


「別にじゃないだろ。朝言ったよな。俺の部屋に入るなって」


「入っただけじゃん」


「入っただけで、何で机の前にいるんだよ」


「たまたま」


「たまたま俺の部屋に入って、たまたま机の前に立って、たまたま本を開いたのか」


 司は少しだけ目をそらした。


「……道に迷って」


「家の中で?」


「そう」


「俺の部屋で?」


「細かい」


「細かくない」


 昌志が言うと、司は唇を尖らせた。


「じゃあ、寝ぼけてた」


「夕方だぞ」


「ちょっと昼寝して、起き抜けで、頭がちゃんと働いてなかった」


「それで俺の部屋に入ったのか」


「そう」


「無理があるだろ」


「あるかもしれないけど」


「自分で認めるなよ」


 司は黙った。


 部屋の中に、雨の音だけが薄く聞こえている。


 窓の外は暗い。


 夕方なのに、雨のせいで夜みたいだった。


 昌志は机へ近づいた。


 黒い本は開かれている。


 ページは白く見えた。


 昌志には、まだそこに文字が浮かんでいるような気がする。


 けれど、今は何も見えない。


 司が開いたページが違うのか。


 それとも、司には何も見えないのか。


 昌志は黒い本を閉じた。


 その動きに、司の肩が少しだけ揺れた。


「正直に話せ」


「何を」


「何で俺の部屋に入った」


「だから、寝ぼけて」


「司」


 昌志が名前を呼ぶと、司は少しだけ黙った。


 いつもならすぐに言い返してくる。


 けれど、この時は違った。


 さすがに、自分でも苦しい言い訳だと分かっているのだろう。


 司はしばらく視線を下げていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……お兄ちゃんが」


「俺が?」


「最近、その本をすごい大事にしてるから」


 昌志は何も言えなかった。


 司は机の上の黒い本を見る。


「いつも机の上に置いてるし、夜に見てるし、たまにすごい暗い顔してるし」


「見てたのか?」


「見えるよ。家にいるんだから」


「だから勝手に入ったのか」


「気になっただけ」


「気になっただけで人の部屋に入るなよ」


「分かってる」


「分かってないだろ」


「分かってるって」


 司は少し声を荒げかけた。


 けれど、すぐに小さくなった。


「……ごめん」


 その言葉は、いつもの司にしては素直だった。


 昌志は少しだけ返事に困った。


 怒っている。


 それは間違いなかった。


 黒い本を見られた。


 勝手に部屋へ入られた。


 開かれた。


 それだけで、胸の中がざわついている。


 けれど、司がここまで素直に謝るとは思っていなかった。


「何が書いてあると思ったんだよ」


 昌志が聞くと、司は少しだけ眉を寄せた。


「何か」


「何かって」


「日記とか」


「日記?」


「変な記録とか」


「変なって何だよ」


「お兄ちゃんが変だから」


「またそれか」


「だって変だし」


 司は黒い本へ視線を落とした。


「でも、何も書いてないじゃん」


 昌志は動きを止めた。


「何も?」


「うん」


「白いのか?」


「白いよ。何これ」


 司は少し不満そうに言った。


「すごい大事そうにしてるから、何が書いてあるのかと思ったのに。開いてみたら、真っ白」


「……そうか」


「何。やっぱり何かあるの?」


「何もない」


「何もないなら、そんな顔しないでよ」


「どんな顔だよ」


「知らないけど。嫌な顔」


 昌志は黒い本を持ち上げた。


 司から遠ざけるように、机の端へ置く。


 司には見えていない。


 文字が見えていない。


 黒い本に浮かぶ文章は、やはり自分にしか見えないのかもしれない。


 母にも見えない。


 司にも見えない。


 少なくとも、今の司には何も見えていなかった。


 安心した。


 そのはずなのに、完全には安心できなかった。


 司は開いた。


 何も見えなかった。


 それでも、黒い本に触れた。


 そこだけが、どうしても引っかかる。


「もう出てけ」


「分かったって」


「あと、二度と勝手に入るな」


「分かってる」


「本当に分かってるのか」


「分かってるって」


 司は部屋の扉の方へ歩いた。


 途中で一度だけ振り返る。


「でもさ」


「何だよ」


「真っ白な本をそんな大事そうにしてる方も、かなり変だからね」


「うるさい」


「うるさくない。事実」


「出てけ」


「はいはい」


 司は部屋を出た。


 扉が閉まる。


 昌志はしばらくその場に立っていた。


 雨の音が、窓の外から聞こえている。


 部屋の中は静かだった。


 机の上には黒い本がある。


 閉じられた黒い表紙。


 それだけを見ていると、ただの本にしか見えない。


 司には、きっとそう見えたのだろう。


 真っ白な本。


 何も書かれていない本。


 昌志は椅子に座った。


 黒い本を手元へ引き寄せる。


 開こうとして、やめた。


 今はまだ早い。


 日付が変わるまでは、次のことは出ない。


 それに、今は少し疲れていた。


 図書館。


 美月。


 雨。


 ファミレス。


 司。


 黒い本。


 一日の中で、考えることが多すぎる。


 昌志は黒い本を机の引き出しへ入れようとして、少し迷った。


 隠せば、余計に怪しまれるかもしれない。


 でも、机の上に置いておけば、また触られるかもしれない。


 結局、引き出しの奥に入れた。


 鍵はない。


 それでも、机の上に出しておくよりはましだった。


 

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