第84話 図書館の彼女
七月四日の昼前。
昌志は二本の傘を持ったまま、家を出た。
雨はまだ降っていない。
けれど、空は重かった。
雲が低く広がっていて、いつ降り始めてもおかしくないように見える。
黒い本には、雨の中ひとりで帰る、と書かれていた。
なら、傘を持っていけばいい。
そう考えること自体は簡単だった。
ただ、問題はその相手が誰なのか分からないことだ。
図書館にいる彼女。
ひとりで本を探している彼女。
今のところ、一番可能性が高いのは美月だった。
圭佑の話では、今日、美月は図書館か本屋へ行くつもりらしい。
文芸部に入ったばかりで、本を探す理由もある。
そう考えれば、黒い本の彼女は美月でいいはずだった。
けれど、黒い本は名前を書かなかった。
美月と決めつけて外れたら、その時点で失敗する。
雪かもしれない。
遥かもしれない。
加藤あいかもしれない。
あるいは、また昌志が忘れている誰かかもしれない。
昌志は歩きながら、息を吐いた。
「とりあえず、図書館に行くしかないか」
ただ、今すぐ行っても早すぎる気がした。
黒い本には午後と書かれていた。
昼前に行っても、その彼女がまだ来ていない可能性がある。
かといって遅すぎても困る。
昌志は少し迷って、途中のコンビニに入った。
雑誌の棚の前に立つ。
特に読みたい雑誌があったわけではない。
けれど、時間を潰すにはちょうどよかった。
昌志は何冊か雑誌を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
内容はあまり頭に入ってこない。
黒い本の文章が、ずっと頭の中に残っている。
午後。
図書館。
雨。
夕方。
部屋。
何かを探している彼女。
午後と夕方は、時間がずれている。
だから、うまくいけば両方対応できる。
でも、図書館で時間をかけすぎると、夕方に間に合わなくなる。
逆に早く切り上げすぎると、図書館の彼女を助けられないかもしれない。
昌志は時計を見た。
十二時半を少し過ぎている。
そろそろ動いてもいい時間だった。
昌志は雑誌を棚へ戻し、軽く食べられるものと飲み物を買った。
店を出ると、近くの小さな公園へ向かった。
ベンチに座り、買ったものを食べる。
休みの日の公園は、思ったより静かだった。
遊具の近くに小さな子どもが何人かいるだけで、あとは人も少ない。
昌志は空を見上げた。
雨はまだ降らない。
けれど、雲の色はさっきより濃くなっている。
これは降る。
黒い本が書いていなくても、そう分かった。
食べ終えると、昌志はゴミを捨て、傘を二本持ち直した。
時計は一時前だった。
「このくらいか」
昌志は図書館へ向かった。
図書館は、休日のわりには静かだった。
入口を入ると、独特の紙の匂いがする。
昌志は傘をまとめ、邪魔にならないように持った。
館内では大きな声を出せない。
だから、誰かを探すにも、声をかけて回るわけにはいかなかった。
昌志は本棚の間を歩いた。
小説。
文庫。
児童書。
雑誌。
郷土資料。
ひとつずつ見ていく。
美月はいない。
雪もいない。
遥もいない。
加藤あいもいない。
やっぱり外れたのかもしれない。
そう思いかけた時だった。
文庫本の棚の前に、見覚えのある後ろ姿があった。
小柄な背中。
少し迷うように棚を見上げている横顔。
美月だった。
昌志は小さく息を吐いた。
やっぱり、美月だった。
外れていなかった。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
美月は背伸びをするようにして、棚の上の方を見ている。
何かを探しているらしい。
昌志は近づいて、小さな声で話しかけた。
「美月ちゃん」
美月が振り向いた。
そして、昌志に気づいた瞬間、ぱっと顔を明るくした。
「昌志先輩」
その反応を見て、昌志は少しだけ思った。
司も、これくらい素直に反応してくれればいいのに。
朝は目をそらすし、文句は言うし、気持ち悪いとまで言ってきた。
美月は同じように顔を合わせても、こんなに嬉しそうに笑う。
同じ女の子でも、全然違う。
そう考えたところで、圭佑にまた呆れられそうな気がした。
「何の本を探してるの?」
昌志が小声で聞くと、美月は少し恥ずかしそうに棚を見上げた。
「文芸部で読む本を探していたんです」
「昨日入ったばかりなのに?」
「はい。せっかく入ったので、ちゃんと読んでみようと思って」
「真面目だな」
「そんなことないです。何を読めばいいか、全然分からなくて」
美月は手に持っていたメモを見せた。
そこには、いくつかの本の題名が書かれている。
たぶん、誰かに聞いたか、自分で調べたものなのだろう。
「この本を探しているんですけど、見つからなくて」
昌志はメモを見た。
題名に覚えはなかった。
けれど、棚の番号を見れば探せそうだった。
「この辺じゃないか?」
昌志は棚の背表紙を順番に追った。
美月も隣で同じように探す。
少しして、昌志は一冊の本を見つけた。
棚の少し高いところにある。
「あった」
「本当ですか?」
「これだろ」
昌志は手を伸ばして、その本を取った。
美月に渡す。
美月は両手で受け取ると、嬉しそうに表紙を見た。
「ありがとうございます」
「別に。届く場所にあったし」
「私だと少し届かなかったので、助かりました」
「ならよかった」
美月は本を胸の前で抱えた。
その仕草が、なんとなく楽しそうだった。
「昌志先輩は、何を読みに来たんですか?」
「俺?」
「はい」
昌志は一瞬、答えに詰まった。
黒い本に書かれていたから来た。
そんなことは言えない。
「適当に、何か読もうと思って」
「何か、ですか?」
「文芸部に入ったし、俺も少しくらい読んだ方がいいかなと思って」
嘘ではない。
完全な本当でもない。
美月はそれを聞いて、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、一緒に探しますか?」
「ああ」
二人で棚を歩いた。
美月は、さっき見つけた本のほかにも何冊か手に取った。
昌志は、薄めの本を選んだ。
厚い本を今から読む気にはなれなかった。
席に座り、二人で本を開く。
図書館の中は静かだった。
ページをめくる音。
遠くで椅子が少し動く音。
受付の方で小さく交わされる声。
それくらいしか聞こえない。
美月は真剣に本を読んでいた。
時々、少し眉を寄せたり、口元を緩めたりする。
楽しそうだった。
黒い本には、彼女は楽しそうに話すと書かれていた。
今はまだ、話してはいない。
けれど、美月の様子は確かに楽しそうだった。
昌志も本を読もうとした。
けれど、内容はあまり頭に入ってこない。
雨。
帰り道。
夕方。
司。
黒い本。
そればかりが気になる。
一時間ほど経った頃、美月が本を閉じた。
昌志もそれに合わせるように顔を上げる。
「どうだった?」
小声で聞くと、美月は少し考えてから答えた。
「面白いです。でも、感想を言うのが難しいです」
「図書館だと話しにくいしな」
「はい」
「外で話す?」
美月の顔が、また明るくなった。
「いいんですか?」
「うん。ここだとあんまり喋れないし」
「はい。行きたいです」
美月は嬉しそうにうなずいた。
二人は本を戻し、必要な本だけ貸出手続きをした。
図書館を出る。
外に出た瞬間、雨の音が聞こえた。
細かい雨だった。
けれど、地面はすでに濡れている。
いつの間にか降り始めていたらしい。
美月は空を見上げた。
「あ……降ってますね」
「やっぱり降ったか」
昌志は持っていた傘を見た。
「傘、持ってきてない?」
「朝は降っていなかったので」
「じゃあ、これ」
昌志は傘を一本、美月へ差し出した。
その瞬間、美月はほんの少しだけ昌志を見た。
何かを期待したような目だった。
昌志は首をかしげる。
「もう一本あるから」
「……あ、はい」
美月は傘を受け取った。
なぜか、少しだけ肩が落ちたように見えた。
「どうかした?」
「いえ。ありがとうございます」
「うん」
昌志には理由が分からなかった。
傘がなくて困っていたはずなのに、渡したら少し残念そうに見える。
変な反応だと思った。
けれど、濡れずに済むならいい。
黒い本に書かれていた「雨の中ひとりで帰る」は、これで避けられたはずだ。
少なくとも、美月はひとりではない。
傘もある。
「どこかで少し話す?」
昌志が聞くと、美月はすぐに顔を上げた。
「はい」
「近くのファミレスでいい?」
「はい。行きたいです」
二人で傘を差し、図書館から歩いた。
雨は強くはない。
けれど、傘なしで歩けば服が濡れるくらいには降っていた。
美月は隣を歩いている。
別々の傘を差しているので、少し距離がある。
それでも、美月はずっと機嫌がよさそうだった。
ファミレスに入ると、窓際の席に案内された。
外では雨が続いている。
昌志は飲み物を頼み、美月も同じように注文した。
席に着くと、美月は図書館で借りた本をテーブルの端に置いた。
「これ、ちゃんと読んでみます」
「感想、文芸部で言うの?」
「言えたら、ですけど」
「美月ちゃんなら言えると思う」
「そうですか?」
「うん。さっきも、面白いけど感想が難しいって言ってたし」
「それ、言えているんでしょうか」
「少なくとも、何も言えないよりはいいんじゃないか」
美月は少し笑った。
「昌志先輩は、どんな本を選んだんですか?」
「薄いやつ」
「読み切れそうだから」
美月が小さく笑う。
「昌志先輩らしいです」
「そうか?」
「はい」
昌志は少しだけむっとした。
「悪い意味か?」
「違います。ちゃんと読もうとしているところが、です」
「薄いやつだけどな」
「でも、読もうとしているじゃないですか」
「まあ、文芸部に入ったし」
「一緒ですね」
「一緒?」
「はい。私も、文芸部に入ったので読もうと思いました」
美月は嬉しそうに言った。
その表情を見ていると、昨日の入部の話が本当に嬉しかったのだと分かる。
圭佑が言っていた通りだった。
美月は、今日のことを楽しみにしていた。
文芸部に入ること。
昌志と一緒に本を探すこと。
それがどれくらいの意味を持っているのか、昌志にはまだよく分からない。
けれど、美月が楽しそうなら、それでいい気がした。
二人は、しばらく本の話をした。
美月は、文芸部でどんなことをするのかを気にしていた。
昌志も詳しく知っているわけではないので、雪や矢部に聞いた範囲で答えた。
読む本のこと。
部誌のこと。
来年の部員数のこと。
美月はひとつひとつ真面目に聞いていた。
時々、嬉しそうにうなずく。
終始、ご機嫌だった。
黒い本に書かれていた通りだった。
彼女は楽しそうに話す。
ただ、ひとつだけ気になっていることがある。
昌志は、その一文を思い出す。
美月は楽しそうだ。
笑っている。
話もしている。
傘も渡した。
雨の中ひとりで帰ることもない。
なら、これで大丈夫なのだろうか。
ひとつだけ気になっていること。
それが何なのかは、まだ分からなかった。
昌志は美月を見る。
美月は飲み物のグラスを両手で持ちながら、窓の外の雨を見ていた。
「雨、けっこう降ってますね」
「そうだな」
「傘、ありがとうございました」
「持ってきてよかった」
「二本も持ってきてくれたんですね」
「雨が降りそうだったから」
「……そうですよね」
美月は少しだけ笑った。
その笑い方が、ほんの少しだけ引っかかった。
けれど、何が引っかかったのかは分からない。
昌志はもう少し考えようとして、ふと壁の時計を見た。
四時を少し回っていた。
「……やばい」
思わず声が出た。
美月が驚いたように顔を上げる。
「え?」
「ごめん。ちょっと用事がある」
「用事、ですか?」
「ああ。夕方までに戻らないといけない」
夕方。
彼女が部屋に入り、何かを探している。
昌志が家に戻れば、彼女は何も見つけられない。
昌志が戻らなければ、彼女はそれを見つける。
その文章が、頭の中で一気にはっきりした。
図書館の彼女は美月だった。
雨の方は、たぶん避けられた。
でも、夕方の方がまだ残っている。
家に戻らなければならない。
司が部屋に入る前に。
黒い本を見つける前に。
「もう帰るんですか?」
美月が少し残念そうに聞いた。
「ごめん」
「いえ。大丈夫です」
美月はそう言って、すぐに笑った。
その笑顔に、昌志は少しだけ胸が引っかかった。
黒い本の文章を思い出す。
気づかなければ、彼女はそのまま笑って別れる。
今の美月は、笑っている。
楽しそうだった。
でも、少しだけ寂しそうにも見えた。
それが気になっていることなのか。
それとも、別の何かなのか。
考える時間はなかった。
「途中まで一緒に帰る?」
「はい」
二人で会計を済ませ、店を出た。
雨はまだ降っていた。
強くはないが、止む気配もない。
美月は昌志から借りた傘を差している。
「傘、返した方がいいですよね」
「今日はそのまま持って帰っていいよ」
「でも」
「今返されたら濡れるだろ」
「……ありがとうございます」
「今度でいい」
「はい」
美月は少し嬉しそうにうなずいた。
二人は途中まで同じ道を歩いた。
傘を差しているせいで、並んでも少し距離がある。
雨の音が、会話の間を埋めていた。
分かれ道に着く。
美月は立ち止まり、昌志を見た。
「今日はありがとうございました」
「うん」
「本、ちゃんと読みます」
「無理しなくていいと思うけど」
「読みたいんです」
「そっか」
美月は小さく手を振った。
「気をつけて帰ってくださいね」
「美月ちゃんも」
昌志も軽く手を上げる。
美月は傘を差したまま、ゆっくりと歩いていった。
その背中を少しだけ見送ってから、昌志は走り出した。
傘を差したままでは走りにくい。
足元も濡れている。
靴の中に、少しずつ水が染みてくる。
けれど、歩いている場合ではなかった。
部屋に入る彼女。
何かを探している彼女。
たぶん、司だ。
朝から様子がおかしかった。
部屋に入るなと言った時の反応も、引っかかっている。
もし本当に司が部屋に入っていたら。
もし、黒い本を見つけたら。
昌志は傘を握りしめたまま、家へ急いだ。
雨の音が、さっきより大きく聞こえた。




