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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
黒く滲む七月

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第83話 二本の傘

七月四日の朝。


 休みの日だというのに、昌志はいつもより早く目を覚ました。


 目覚ましは鳴っていない。


 それでも、もう一度眠る気にはなれなかった。


 昨夜、黒い本に浮かび上がった二つの予告が、頭から離れない。


 午後。


 彼女は図書館で、ひとりで本を探している。


 昌志が会いに行けば、彼女は笑って帰る。


 会いに行かなければ、彼女は雨の中をひとりで帰る。


 そして、夕方。


 彼女がどこかの部屋へ入り、何かを探している。


 昌志が早く戻れば、彼女は見つけたものをそれ以上調べられない。


 戻るのが遅ければ、それを持ち出す。


 午後に図書館へ行き、用事が済んだら早めに帰ってくる。


 うまく動けば、両方に対応できるはずだった。


 問題は、図書館にいる彼女が誰なのか分からないこと。


 そして、もう一人の彼女が、どこの部屋へ入るのか分からないことだった。


 昌志は布団から起き上がり、机の上に置かれた黒い本を見る。


 誰かに見つけられ、持ち出されて困るもの。


 真っ先に思い浮かぶのは、この黒い本だった。


 予告に書かれた部屋が、自分の部屋だとは限らない。


 探しているものが黒い本だとも限らない。


 それでも、何もせずに机の上へ置いたまま出かける気にはなれなかった。


 昌志は黒い本を持ち上げた。


 昨夜は、外へ持っていくことも考えた。


 部屋になければ、誰かが探しに来ても見つけられない。


 その方が確実にも思える。


 けれど、今日は雨が降る。


 黒い本を鞄に入れて持ち歩き、濡らしてしまうのは避けたかった。


 傘を差していても、鞄の中へ水が入らないとは限らない。


 どこかへ置き忘れる可能性もある。


 落としたり、誰かに拾われたりする方が、部屋へ置いていくより危険かもしれない。


「やっぱり、持っていかない方がいいよな」


 昌志は小さく呟いた。


 机の一番下の引き出しを開ける。


 中に入っていた古いノートや、ほとんど使っていない教科書を取り出し、その奥へ黒い本をしまった。


 その上からノートを重ね、引き出しを閉める。


 絶対に見つからない場所ではない。


 それでも、机の上へ置いたままにするよりはましだった。


 昌志は着替えてから、部屋を出た。


 階段を下り、リビングへ入る。


 司はすでに起きていた。


 私服姿で椅子に座り、少し眠そうな顔でトーストをかじっている。


「おはよう」


「……おはよう」


「休みなのに早いな」


「お兄ちゃんもでしょ」


「俺はいつもこのくらいだよ」


「休みの日くらい、もう少し寝ればいいのに」


 司はそれだけ言うと、興味がないようにトーストへ視線を戻した。


 いつもなら、もう少し何か言い返してきそうなものだった。


 けれど、今日は妙にあっさりしている。


 昌志が席へ着くと、母が朝食を並べた。


「休みの日くらい、二人とも静かに食べられないの?」


「まだ何もしてないよ」


「お兄ちゃんが変なことを言い出さなければ、私は何もしないけど」


「俺が原因みたいに言うなよ」


「だいたいそうだから」


「違うだろ」


「はいはい。冷める前に食べなさい」


 母に止められ、昌志は箸を取った。


 司も何事もなかったように朝食を続けている。


 けれど、時々、昌志の方を見ているような気がした。


 目が合いそうになると、すぐに視線をそらす。


 黒い本の予告を思い出すと、どうしても司の様子が気になった。


 夕方、彼女が部屋へ入り、何かを探す。


 その部屋が自分の部屋なら、入ってくるのは司かもしれない。


 何も言わずに出かけるよりは、先に釘を刺しておいた方がいい。


 昌志は迷った末に、できるだけ普通の調子で口を開いた。


「今日、俺の部屋に入るなよ」


 司は内心でぎくりとした。


 けれど、それを昌志に悟らせないよう、トーストを持ったまま何でもない顔を作る。


「入らないけど」


「本当に入るなよ」


「何で二回言うの?」


「勝手に人の部屋へ入ったら駄目だろ」


「分かってるよ」


 司は興味がないように答え、トーストをもう一口かじった。


 普段なら、「何か隠してるの」と食いついてきそうなものだった。


 今日は、それ以上聞いてこない。


 むしろ、その方が昌志には少し引っかかった。


「何だよ」


「何が?」


「いや。何でもない」


「変なの」


 司はそう言うと、スマホへ視線を落とした。


「司、昌志の部屋へ勝手に入ったら駄目よ」


 母が台所から声をかける。


「分かってる。別に興味ないし」


 司は面倒そうに答えた。


 けれど、その言い方は、昌志には少しだけわざとらしく聞こえた。


 それでも、母の前で入らないと言わせることはできた。


 何も言わないよりはましだろう。


 昌志はそう考え、朝食を続けた。


 食事を終えて自分の部屋へ戻ると、黒い本を隠した引き出しをもう一度確認した。


 外から見ただけでは、いつもと変わらない。


 何かが入っているようには見えなかった。


 午後、図書館にいる彼女は誰なのか。


 文芸部へ入ったばかりで、本を探しに行く理由がある美月かもしれない。


 もともと本が好きな雪かもしれない。


 遥の可能性もある。


 加藤あいが図書館へ行かないとも言い切れない。


 考えていても答えは出なかった。


 昌志はスマホを手に取り、圭佑へ電話をかける。


 何度か呼び出し音が鳴ったあと、圭佑が出た。


『どうした?』


「美月ちゃんって、今日どこかへ出かける予定ある?」


『……昌志』


「何だよ」


『休日の朝から、兄に妹の予定を聞く男子高校生は、かなり怪しいぞ』


「変な意味じゃない」


『お前がそう言うと、余計に怪しく聞こえる』


「本当に違うって。昨日、文芸部に入ったばかりだし、本でも見に行くのかなと思っただけだよ」


『何でそれを、お前が気にするんだ?』


「一緒に入ったんだから、少しくらい気にしてもいいだろ」


『それなら、美月に直接聞けよ』


「急に聞いたら変だろ」


『俺に聞いてる時点で変だよ』


「それで、出かけるのか?」


 圭佑は電話の向こうでため息をついた。


『たぶん出かけると思うぞ。朝、図書館に行くとか言ってた気がする』


「図書館?」


『ああ。文芸部で読む本を探すとか、そんな話だった』


 予想が当たった。


 黒い本に書かれた彼女は、美月である可能性が高い。


「分かった。ありがとう」


『待て、昌志』


「何?」


『お前、本当に何もないんだな?』


「何もないよ」


『何もないやつは、休日の朝から美月の予定を確認しない』


「昨日、同じ部活に入ったから気になっただけだって」


『だから、それなら本人に聞け』


「もういいだろ。ありがとう」


『おい――』


 圭佑が何か言いかけたが、昌志は通話を切った。


 少し強引だったかもしれない。


 また圭佑に疑われた気もする。


 それでも、必要なことは分かった。


 美月は今日、図書館へ行く予定だ。


 予告に出てきた彼女は、ほぼ美月だろう。


 黒い本には、彼女は雨の中をひとりで帰ると書かれていた。


 それなら、傘が必要になる。


 昌志はスマホで天気予報を確認した。


 空は曇っているものの、降水確率はかなり低い。


 雨が降らない可能性の方が高そうだった。


 けれど、黒い本には雨が降ると書かれている。


 天気予報よりも、黒い本の記述を無視する方が怖かった。


 自分の傘だけでは足りない。


 美月が傘を持っていなければ、もう一本必要になる。


 昼食を終え、午後になった頃。


 昌志は出かける準備をした。


 黒い本をしまった引き出しを、もう一度確認する。


 ノートの下に隠した黒い表紙は、外からは見えない。


 昌志は引き出しを閉め、部屋を出た。


 玄関の傘立てから、自分の傘を一本取る。


 それから、もう一本を手にした。


 自分の分と、美月の分。


 美月が傘を持っていれば、二本目は無駄になる。


 それでも、持っていかずに困るよりはよかった。


 靴を履こうとしたところで、リビングから司が顔を出した。


「どこか行くの?」


「図書館」


「休みの日まで?」


「文芸部に入ったばかりだからな」


「ふうん」


 司は興味がないように答えた。


 けれど、その視線は昌志が手にしている二本の傘へ向いている。


「何で二本持ってるの?」


「雨が降るかもしれないから」


「でも、今日の降水確率、ほとんどないよ」


「天気予報が外れることもあるだろ」


「それでも二本?」


「念のためだよ」


「一本あれば十分じゃない?」


「それでも俺は持っていく」


 昌志が言い切ると、司は少しだけ目を細めた。


 けれど、すぐに興味を失ったように肩をすくめる。


「別にいいけど」


「何だよ」


「何でもない」


「さっきからそればっかりだな」


「お兄ちゃんが勝手に気にしてるだけでしょ」


 司はそう言うと、リビングへ戻ろうとした。


「夕方までには帰るから」


 昌志が言う。


 司は足を止めたものの、振り返らなかった。


「別に、聞いてないけど」


「今、行き先を聞いただろ」


「どこへ行くのか聞いただけ。帰る時間までは聞いてない」


「そうかよ」


「勝手にすれば」


 司はそのままリビングへ戻っていった。


 冷たく突き放したのではない。


 昌志が何をしようとしているのか気になっている。


 けれど、それを悟られないよう、わざと興味がないふりをしている。


 昌志には、そこまでは分からなかった。


 二本の傘を持ち直す。


 図書館で美月を見つける。


 雨が降ったら、傘を一本貸す。


 そして、用事が済んだら早めに家へ戻る。


 黒い本を持ち出される前に。


 それ以上、何かを調べられる前に。


 玄関の扉を開けると、湿った風が吹き込んできた。


 雨はまだ降っていない。


 空には雲が広がっているものの、本当に雨が降るのかは分からなかった。


 昌志は家を出る前に、一度だけ二階を見上げる。


 黒い本は、引き出しの奥へ隠してある。


 司にも、部屋へ入らないよう言った。


 できることはした。


 あとは、夕方までに戻ればいい。


 昌志は二本の傘を手に、図書館へ向かって歩き出した。

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