第82話 図書館
七月三日の夜。
家に帰った時には、すでに外は暗くなっていた。
夕方、遥とファミレスで話したことが、まだ頭の中に残っている。
本の話。
文芸部の話。
そして、遥が安心したように笑った顔。
大きなことをしたわけではない。
誰かを助けたというほどでもない。
ただ、大丈夫だと言っただけだ。
怪我はしていない。
体調も悪くない。
心配しなくていい。
そう伝えただけだった。
それでも、遥は本当にほっとした顔をした。
黒い本に書かれていた「ひとつだけ気になっていること」は、昌志の怪我だったのだろう。
昌志は自分の部屋へ入ると、鞄を床に置いた。
机の上には、黒い本が置かれている。
閉じているのに、そこだけが妙に目に入った。
今日はもう、終わったはずだった。
朝は、いつもより少し早く家を出た。
放課後は、美月と一緒に文芸部へ入部届を出した。
夕方には街中で遥を見つけ、ファミレスで話した。
黒い本に書かれていた出来事は、すべて済んだはずだ。
昌志は椅子へ座り、黒い本の表紙に手を伸ばした。
指先に、いつもの冷たさが触れる。
ゆっくり表紙を開くと、七月三日のページは、すでに文章へ変わっていた。
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――七月三日、朝。
家を出る時、
少しだけ早く動いた。
早く出たことで、
小さな遅れを避けた。
しかし、
何を避けたのかは、
分からなかった。
――七月三日、夕方。
街中で、
遥と会った。
遥は、
楽しそうに話した。
けれど、
ひとつだけ、
気になっていることがあった。
昌志は、
遥が自分を心配していることに気づいた。
昌志が大丈夫だと言うと、
遥は少しだけ安心した。
その後、
昌志と遥は、
文芸部と本の話をした。
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昌志は、その文章を黙って読んだ。
やはり、遥だった。
街中にいたのも。
自分を心配していたのも。
文芸部や本の話をしたのも、遥だった。
起きた出来事が、名前と一緒に文章になっている。
書かれていることに間違いはない。
けれど、ファミレスで過ごした時間が、黒い本の中では、わずかな文章に変えられていた。
遥が声を上げて笑ったことも。
二人でドリンクバーへ行ったことも。
どんな本が好きなのかを話したことも。
すべてが、短い文章の中へ押し込められている。
自分が楽しいと思った時間まで、黒い本に勝手に記録されている。
そう考えると、少しだけ落ち着かなかった。
* *
十二時を過ぎ、昌志はページの先へ目を移した。
七月三日の文章の下には、今日の記述が浮かび上がっている。
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――七月四日、午後。
彼女は図書館で、
ひとりで本を探している。
昌志が会いに行けば、
彼女は笑って帰る。
昌志が会いに行かなければ、
彼女は雨の中、
ひとりで帰る。
――七月四日、夕方。
彼女が部屋に入り、
何かを探している。
昌志が早く戻れば、
彼女は見つけたものを、
それ以上調べられない。
昌志が戻るのが遅ければ、
彼女はそれを持ち出す。
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「彼女……」
昌志は小さく呟いた。
結果として書かれた文章には、遥の名前があった。
けれど、まだ起きていない明日の出来事では、また名前が消えている。
二つの予告には、どちらも「彼女」と書かれていた。
同じ人物なのか。
それとも、別の人物なのか。
それすら分からない。
午後。
図書館で、ひとりで本を探している彼女。
今日の出来事から考えるなら、美月かもしれない。
文芸部へ入ったばかりで、読む本を探していても不思議ではなかった。
遥の可能性もある。
遥も本が好きだ。
今日も、本屋で新刊を探していた。
黒い本には名前が書かれていない。
誰なのかは、図書館へ行って確かめるしかなかった。
そして、もう一つ。
夕方、部屋へ入り、何かを探している彼女。
こちらは、図書館にいる彼女以上に分からない。
そもそも、どこの部屋なのかが書かれていなかった。
学校の部室かもしれない。
誰かの家の部屋かもしれない。
あるいは、昌志の部屋かもしれない。
昌志が早く戻れば、それ以上調べられない。
そう書かれている以上、自分が戻れる場所なのだろう。
それなら、自宅の可能性が高い。
けれど、そうだと決まったわけではない。
黒い本は、肝心なところを何も書いていなかった。
「俺の部屋だとしたら……」
昌志の視線が、机の上の黒い本へ落ちた。
誰かに探されて困るもの。
調べられて困るもの。
持ち出されて困るもの。
すぐに思い浮かぶのは、この黒い本だった。
司なら、昌志がいない間に部屋へ入ることもある。
何かを探していたとしても、不思議ではない。
ただし、予告に書かれた彼女が司だという確証はない。
部屋が昌志の部屋だという確証もない。
何を探しているのかも分からない。
それでも、何も対策をせずに出かける気にはなれなかった。
「持っていけばいいのか……?」
黒い本を持って出かける。
部屋になければ、誰かが探しに入っても見つけられない。
それが一番確実に思えた。
けれど、図書館の予告には雨が書かれている。
どこかで雨が降るのだろう。
鞄へ入れておけば、すぐに濡れるわけではない。
それでも、雨の中を持ち歩くことに不安は残る。
鞄の中へ水が入るかもしれない。
どこかへ置き忘れるかもしれない。
落とす可能性もある。
黒い本を家の外へ持ち出すこと自体が、危険なようにも思えた。
「やめた方がいいか」
昌志は黒い本を見つめた。
持っていくのではなく、いつもより見つかりにくい場所へしまっておく。
そのうえで、午後になったら図書館へ行く。
彼女を見つけ、用事を早めに済ませる。
そして、夕方になる前に家へ戻る。
部屋が自分の部屋でなければ、それでも構わない。
自分の部屋だった場合に備えて、できることはしておいた方がいい。
黒い本を隠し、早く帰る。
それが、今の昌志に考えられる一番安全な方法だった。
それから、傘も必要になる。
図書館にいる彼女が、傘を持っているとは限らない。
会いに行かなければ、彼女は雨の中をひとりで帰る。
会いに行った場合に雨の中を歩かずに済むとは書かれていないが、少なくとも傘を持っていれば困ることはない。
昌志はもう一度、四日の予告を読み返した。
午後に図書館へ行く。
彼女を見つける。
用事を早めに済ませ、夕方までに帰る。
黒い本は持ち出さず、簡単には見つからない場所へしまっておく。
そして、傘を忘れない。
昌志は頭の中で順番を確かめてから、黒い本を閉じた。
最近の起きた出来事には、名前が書かれている。けれど、これから起こる出来事では、誰なのかも、どこの部屋なのかも分からない。
図書館にいる彼女。
どこかの部屋へ入る彼女。
二つの「彼女」が、昌志に何かを問いかけている気がした。




