第81話 そこまで笑うか
七月三日の放課後。
入部届の提出を終えた昌志は、部室を出ると廊下を小走りで進んだ。
そのまま昇降口へ向かい、急いで靴を履き替える。
校舎を出てからも、足を緩めなかった。
黒い本に書かれていたのは、夕方の街中だった。
けれど、はっきりした時間までは書かれていない。
すでに何かが始まっているかもしれない。
急がなければ、間に合わないかもしれない。
そう考えると、自然と足が速くなった。
駅前までの道を、昌志はほとんど走るように進んだ。
少しずつ息が乱れていく。
それでも、立ち止まる気にはなれなかった。
駅前に着くと、そのまま広場を抜け、商店街の方へ向かう。
黒い本に書かれていたのは、「彼女」だった。
けれど、まったく見当がつかないわけでもなかった。
美月と雪は、さっきまで学校にいた。
二人が今、街中にいる可能性は低い。
そうなると、遥か加藤あいのどちらかだろう。
(どっちかを見つければ、たぶん分かる)
黒い本には、街中としか書かれていなかった。
駅前なのか。
商店街なのか。
どこかの店の中なのか。
それすら分からない。
昌志は小走りになりながら、周囲を確認していった。
駅前広場。
バス乗り場。
商店街へ入っていく人の流れ。
飲食店の前。
コンビニの中。
一軒ずつ確かめるように、店先へ目を向けていく。
けれど、遥も加藤あいも見つからない。
(もう帰ったのか?)
胸の奥に、不安が広がる。
そもそも、この駅前だという考えから間違っているのかもしれない。
街中というだけなら、範囲は広い。
黒い本に書かれた「彼女」が、遥か加藤あいだという確証もなかった。
それでも、ほかに手がかりはない。
商店街の中を進みながら、昌志は左右の店を確認していった。
その時、少し先にある本屋が目に入った。
(遥だったら、本屋にいるかもしれない)
ただの予想だった。
けれど、ほかの店よりは可能性があるように思えた。
昌志は再び足を速め、本屋へ向かった。
店の前まで来たところで、いったん足を止める。
すぐには入口へ向かわず、乱れた息を整えながら、ガラス越しに店内をのぞいた。
本棚の間を歩いている人。
雑誌を立ち読みしている学生。
新刊台の前で、手に取った本を眺めている人。
その中に、見覚えのある短い髪があった。
(いた)
予感は当たった。
遥が新刊台の前に立ち、一冊の本を手に取っている。
昌志は大きく息を吐いた。
間に合わなかったわけではない。
見つけられた。
それだけで、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
呼吸が落ち着くのを待ってから、昌志は店の入口へ近づいた。
その時、遥が顔を上げた。
ガラス越しに視線が合う。
遥は少し驚いた様子で本を棚へ戻すと、そのまま店の外へ出てきた。
「昌志さん?」
「遥」
「偶然ですね」
「ああ。こんなところで会うとは思わなかった」
本当は、遥か加藤さんのどちらかを探していた。
けれど、黒い本に書かれていたから街中を探し回っていたとは言えない。
「昌志さんも、本を見に来たんですか?」
「まあ、そんなところ」
完全な嘘ではない。
実際に本屋の中を見たのだから。
本屋へ出入りする人が、二人の横を通り過ぎていく。
入口の前で話し続けると、邪魔になりそうだった。
「遥、少し時間ある?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、どこかで話さないか?」
「いいですよ」
昌志は周囲を見回した。
商店街の少し先に、ファミレスの看板が見える。
「あそこのファミレスでいい?」
「はい」
二人は並んで商店街を歩き、ファミレスへ向かった。
店内は、夕食の時間にはまだ少し早いこともあり、空いている席がいくつかあった。
案内された席に向かい合って座り、二人ともドリンクバーを頼む。
「遥は何にする?」
「最初は紅茶にします」
「温かい方?」
「はい」
「じゃあ、俺も何か取ってくる」
「私も行きます」
二人でドリンクバーへ向かった。
遥はティーバッグを選び、カップに湯を注ぐ。
昌志は少し迷ったあと、炭酸飲料をグラスへ入れた。
「昌志さん、そういうものを飲むんですね」
「どういう意味だよ」
「もっと落ち着いたものを選ぶと思っていました」
「炭酸くらい飲むよ」
「そうですよね」
遥は少しだけ笑った。
二人で席へ戻る。
遥はカップをテーブルに置くと、改めて昌志を見た。
「あの、昌志さん?」
「ん?」
「怪我は、もう大丈夫なんですか?」
その言葉で、昌志は黒い本の文章を思い出した。
彼女は楽しそうに話す。
けれど、ひとつだけ気になっていることがある。
遥が気にしていたのは、昌志の怪我だったのだろう。
「ああ。もう全然大丈夫」
昌志はすぐに答えた。
「痛いところもないし、何ともないよ」
「本当ですか?」
「本当だって」
遥は昌志の顔や腕を確かめるように見る。
それから、ようやく小さく息を吐いた。
「よかったです」
はっきりと安心した顔だった。
「そんなに心配してたのか?」
「心配しますよ」
遥は少しだけ眉を寄せる。
「昌志さんは、怪我をしていても大丈夫だと言いそうですから」
「本当に大丈夫なんだから、仕方ないだろ」
「無理をしていないなら、いいんです」
遥は紅茶を一口飲んだ。
先ほどまで残っていた表情の硬さが、少しだけ消えている。
「この前は、本当にありがとうございました」
遥が改めて頭を下げる。
「もういいよ。前にも聞いたから」
「それでも、もう一度、きちんと言っておきたかったんです」
「俺は大したことしてないって」
「昌志さんは、いつもそう言いますね」
遥は少し困ったように笑った。
昌志としては、本当に何度も礼を言われるほどのことをしたつもりはなかった。
その場にいて、自分にできることをした。
それだけだった。
「そういえば」
昌志は話題を変えるように言った。
「今日、文芸部に入った」
「文芸部ですか?」
遥の目が少し大きくなる。
「昌志さんが?」
「やっぱり意外か?」
「少し意外です。三年生のこの時期ですから」
「俺も、自分が入ることになるとは思ってなかったよ」
「何かあったんですか?」
「雪に頼まれたんだ」
「雪さん、ですか?」
遥は初めて聞く名前を確かめるように尋ねた。
「ああ。佐藤雪、中学の頃からの友達。今、同じ学校の文芸部にいるんだ」
「その方に頼まれたんですね」
「このままだと部員が足りなくて、文芸部が廃部になるかもしれないって、昨日、頭まで下げられてさ」
「それで、昌志さんが入ることにしたんですか?」
「いや。その時は、俺が入るつもりはなかった」
昌志は首を振った。
「部を残すには、一年か二年生があと一人必要だったんだ。三年生は、もうすぐ引退だからな」
「それで、美月さんにお願いしたんですね」
「ああ。美月ちゃんに入ってもらえないかと思って、昨日、圭佑の家まで頼みに行った」
「美月さんが入れば、人数は足りたんですね」
「ああ。だから、美月ちゃんが引き受けてくれれば、それで終わると思ってた」
「でも、昌志さんも入ったんですよね?」
「なぜか、美月ちゃんが、俺も一緒に入るなら入ってもいいって言ったんだよ」
昌志は、今も理由がよく分からないというように首を傾げた。
「それで、俺も文芸部に入ることになった」
遥は一度瞬きをしてから、納得したように頷いた。
「そういうことですか」
「どういうこと?」
「いえ。何でもありません」
「何でもない顔じゃなかったけど」
「昌志さんが分からないなら、そのままでいいと思います」
「余計に気になるんだけど?!」
遥は答えず、紅茶を口元へ運んだ。
「それで今日、美月ちゃんから、入部届も一緒に出しに行こうって言われたから、二人で部室に行ってきた」
「無事に入部できたんですね」
「ああ。名前とクラスを書いて渡しただけだったけどな」
「美月さん、喜んでいたでしょう」
「かなりな。同じ部活ですねって、何度も言ってた」
「そうでしょうね」
遥は、当然のことのように答えた。
「何で遥まで分かるんだよ」
昌志が尋ねると、遥は少し考えるようにカップへ目を落とした。
「昌志さんの、そういうところは」
「そういうところ?」
「いいところでもあり、悪いところでもあるのかもしれません」
「何だよ、それ」
「相手がどう思っているのかを、勝手に決めつけないのは、昌志さんのいいところだと思います」
遥はカップを置き、昌志を見る。
「でも、あまりに気づかないと、相手を困らせることもありますから」
「俺、そんなに鈍いか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「即答するなよ」
「すみません。でも、否定はできません」
昌志は納得できないまま、ストローでグラスの中の氷を軽く押した。
「そういえば今日、圭佑にも似たようなことを言われたな」
「相沢さんにですか?」
「ああ」
昌志は朝の会話を思い出した。
「お前は百年経っても、多分分からないだろうって」
一瞬、遥が黙った。
その直後、こらえきれなかったように吹き出した。
「そこまで笑うか?」
「すみません」
遥は口元を押さえたものの、笑いはなかなか収まらなかった。
「でも、相沢さんの気持ちが、少し分かってしまって」
「遥まで圭佑の味方かよ」
「味方というわけではありません」
そう答えながらも、遥はまだ楽しそうに笑っている。
「そんなに面白いか?」
「百年という言い方が」
「言われた方は、全然面白くないけどな」
「すみません。でも、昌志さんらしいです」
「それも最近、よく言われる気がする」
遥はしばらく笑ったあと、ようやく紅茶へ口をつけた。
黒い本に書かれていた通りだった。
怪我のことを確認し終えた遥は、楽しそうに話している。
昌志としては、百年経っても分からないと言われたことを話しただけなのだが、それでこれほど笑われるとは思わなかった。
「でも、驚きました」
遥が呼吸を整えながら言った。
「私も文芸部なんです」
「遥も?」
「はい」
「なんとなく、そんな感じはするな」
「それは、どういう意味ですか?」
「本が好きそうだから」
「それなら合っています」
遥は足元に置いていた本屋の袋を軽く持ち上げた。
「うちの文芸部は、火曜日と木曜日が正式な活動日らしいんだけど、遥のところは?」
「私のところも週に二日です。だいたい同じですね」
「やっぱり、そのくらいなんだな」
「毎日活動するような部ではありませんから」
「活動日は、何をしてる?」
「本を読んだり、感想を話したり、時々文章を書いたりしています。部誌も作ります」
「部誌か」
「昌志さんのところでも、そのうち作るかもしれませんね」
「まだ今日入ったばかりだから、何も分からないけどな」
「では、最初から教えた方がよさそうですね」
遥が少し嬉しそうに言った。
「さっき、新刊台で本を見てたよな」
「見ていたんですか?」
「外から少しだけ。面白そうな本があったのか?」
「はい。好きな作家の新刊が出ていたんです」
「買ったの?」
「買いました」
遥は袋の中から本を少しだけ持ち上げ、昌志に表紙を見せた。
「その作家なら、俺も前に一冊読んだことがある」
「本当ですか?」
「ああ。最後にかなりひっくり返る話だった」
「それです。私も読みました」
「面白かったけど、途中で何回か騙されたな」
「私は、最初から少し怪しいと思っていました」
「本当か?」
「本当です」
「全部分かってた?」
「全部ではありません」
「じゃあ、俺とそんなに変わらないだろ」
「昌志さんよりは、少し早く気づいたと思います」
「読んだ時期も違うのに、比べられないだろ」
遥が楽しそうに笑った。
昌志もつられて笑う。
話しているうちに、グラスとカップは空になっていた。
「おかわりする?」
「はい。今度は冷たいものにします」
二人は再び席を立ち、ドリンクバーへ向かった。
遥は少し迷ってからオレンジジュースを選び、昌志は最初とは違う炭酸飲料をグラスへ入れた。
「今度も炭酸なんですね」
「好きなんだよ」
「初めて知りました」
「知る機会なかっただろ」
「それもそうですね」
二人は席へ戻った。
それからも、本の話は続いた。
好きな作家。
途中で読むのを止めてしまったシリーズ。
読み返した時に、最初とは印象が変わった作品。
映像化されて、想像していたものとは少し違っていた登場人物。
遥は本の話をしている時、普段よりも少し言葉が多かった。
好きな作品のことになると、少しだけ早口になる。
昌志が知らない本の話をすると、どこが面白いのかを丁寧に説明してくれた。
昌志も、自分が読んだ本の話をした。
文芸部へ入ったばかりなのに、部室にいた時よりも文芸部らしい話をしている気がした。
気づけば、二人とも二杯目の飲み物を半分以上飲んでいた。
黒い本に書かれていた通り、遥は楽しそうに話している。
そして昌志もまた、思っていたよりずっと楽しい時間を過ごしていた。




