3話 王太子への直談判、月下で誓う愛
晩餐会を数日後に控えた、王宮の奥深く。
王家専用の庭園は、人払いがなされ、不気味なほどの静寂に包まれていた。
私は薄闇の中に一人立ち、震える指先を自身の肩に回す。
(……ジーク、あなたは一体何を考えているの?)
昨夜のジークの瞳は、本気だった。
だが、相手は一国の王太子だ。
もしジークが晩餐会で「暴挙」に出れば、いかに大陸一の剣聖といえど、国家を敵に回す。
国家反逆罪――その言葉の重さが、私の胸をじわりと締め付けた。
(彼を、死なせたくない。……そのためなら、悪女と罵られても構わない)
その時、小道を踏む足音が静寂を破った。
現れたのは、金糸の刺繍が光る豪奢な衣をまとった男。
王太子、セドリックだった。
「エルレイン。……人払いをしてまで僕を呼び出すとは、そんなに大事な用事か?」
セドリックの視線が、無遠慮に私の全身を這い回った。
「……殿下、折り入ってお話ししたいことがあり、お時間をいただきました」
私は内側を塗り固めるように悪女の面を被り、セドリックを真っ直ぐに見据えた。
「魔道悪女が愛でも語るのか? 面白い趣向じゃないか。……聞かせてもらおう」
「……殿下。私には、貴方の妻となる資格がございません。この婚約を、白紙にお戻しください」
セドリックの眉がぴくりと跳ね上がる。
「何を言い出すかと思えば。君の魔力量を王家に取り込むことは、すでに決定事項だ。今さら拒否権など――」
「私は……すでに心に決めた人がいます」
「……ほう。もう一度、言ってみろ」
「私の心は殿下にはありません。お互いの幸せのためにも、この婚約はなかったことにしましょう……」
私は激昂を待った。
罵倒でも、追放の宣告でも構わない。
だが返ってきたのは、低く、湿った笑い声だった。
「……ははは! なんだ、そんなことか」
「え……?」
「エルレイン、君は自分を買い被りすぎだ。君の心など、僕が欲しいとでも思ったか?」
セドリックは歩み寄り、無造作に私のあごを掴み上げた。
「高慢ちきな悪女に純潔など不要だ。僕が欲しいのはベルシュタインの魔力と、後継を産む体だけ。それ以外の君には、何の価値もない」
あまりに卑劣な言葉に、私の顔から血の気が引いた。
「心が問題と言うのなら、上書きしてしまえばいいだけだ」
「……っ、何を……!」
強引な手が私を引き寄せ、背中を東屋の柱へと押し込んだ。
「……あ……っ、嫌、……離して……っ!」
「おっと、魔法は使うなよ。使えばその想い人とやらの命はないからな?」
強烈な拒絶が、全身を駆け巡る。
不快だった。
ただひたすらに、気持ちが悪い。
(……ジーク……!)
脳裏に浮かぶのは、自分を翻弄し、熱く焦がしたジークの不敵な顔。
(私は……ジークが好き。……ジークの手じゃなきゃ、嫌……!)
セドリックの顔が近づいてくる。
唇が、触れようとする。
その時だった。
周囲の空気が、一瞬で凍りつく。
それは殺意。
ただの人間が発するとは思えないほど強大で、逃げ道を塞ぐような殺意が、その場すべてを支配する。
「……殿下。ずいぶんと楽しそうですね」
東屋の入り口に、人影があった。
影の中から、男が一人、姿を現す。
薄水色の、少しくすんだアッシュブルーの髪。
黄金に輝く、冷徹な瞳。
ジーク・クロムウェルが、音もなくそこに立っていた。
「……ジ、ジーク……」
私の声が震える。
ジークの瞳は、底冷えするような冷たさを孕んでいた。
これまで見たどんな存在よりも、恐ろしい色をたたえている。
「ジーク・クロムウェル!? ……貴様、ここは人払いをしたはずだぞ! 誰の許可を得て……っ」
「許可? そんなもの、俺には必要ない」
一歩、また一歩。
ジークが近づいてくる。
その足取りは死神のように静かで、腰の剣が月光を浴びて冷たく輝いた。
「彼女に……随分と汚い手で触れてくれましたね、セドリック殿下」
ジークの手が、ゆっくりと剣の柄にかけられる。
その瞬間、王太子セドリックは、自分が「大陸一の剣聖」の絶対的な射程圏内に入っていることを、本能で悟った。
「……ひ、ひぃっ……!」
セドリックは私を突き飛ばすように離すと、情けなく数歩後退した。
「エル! 俺のそばに来い」
ジークが私を呼んだ。
同じ口から出た声とは思えないほど甘く、けれど心の奥底まで響くような力強さがあった。
「……ジーク!」
私は震える足でジークのもとへと駆けた。
ジークの腕が腰を掴み、ぐいと引き寄せ、硬い胸板へと押し付ける。
彼の熱い体温。
鋼のような胸板。
そして、ほのかに香る鉄の匂い。
王太子に触れられた嫌悪感が、ジークの腕の中にいるだけで、一瞬で安らぎへと変わっていく。
「ジーク……ごめんなさい、私……」
「謝る必要はない、エル。……ただ、少しだけ後悔してる。君がこんなことするなんて思わなかった」
ジークは私の髪を愛おしげに撫でると、その視線を再び、腰を抜かしかけている王太子へと向けた。
「……殿下。晩餐会、楽しみにしていてくださいね。……あんたが何を発表するつもりか知らないが……全部、『かき消してやる』」
静かな、けれど絶対的な宣戦布告。
ジークは私を抱いたまま、背を向けて歩き出した。
セドリックは、立ち去るジークの背中を見送ることしかできなかった。
死の淵を覗き込んだような恐怖が、体の芯まで冷やしていた。
◇
庭園を抜けた先、人影のない城へと続く木々の合間で、ジークは不意に足を止めた。
「……ジーク?」
彼に抱き寄せられたままだった私は顔を上げようとするが、ジークの腕は私を離さない。
「エル。自分が何をしたか分かってるのか」
頭上から降ってきたのは、咎めるような声だった。
ジークは私を解放するどころか、さらに力を込めて抱きしめ、私の髪に深く顔を埋めた。
その体からは、先ほどの王太子への殺気がなく、今は憂慮があふれ出している。
「無茶なことをするな。……あんな奴の前に行くなんて。……もし俺が間に合わなかったら、どうするつもりだったんだ……!」
「……あなたに死んでほしくなかったの。私が汚れた女として追放されれば、あなたは反逆者にならずにすむでしょう?」
私の言葉に、ジークは自嘲気味に笑った。
彼は私の肩をつかみ、無理やり自分と向き合わせる。
「馬鹿だな。君がいない国で、俺が清廉な騎士として生きるとでも思ったか? まあ、君が追放されるなら、俺が遠慮なくさらいに行くけどな」
「ジーク……」
「二度と、俺のために自分を犠牲にするなんて考えるな。俺を信じろと言ったはずだ」
ジークの大きな手が、私の頬を包み込む。
その温もりに触れた瞬間、私の目から涙がこぼれ落ちた。
「不安なの……。晩餐会が怖いの……あんな男と婚約するのも……ジークのことも……」
「……もう余計なことは考えるな」
私の焦燥を消し去るように、ジークは口付けを言葉に重ねる。
本当だったら、ここで何が何でも彼を止めなければいけないのに。
私はその熱の優しさに、どこまでも溶かされていた。





