24話 伝説の龍の敗北
『無駄ですよ、我が主の番よ』
白龍の、感情を排した声が虚空に響く。
『汝の肉体はすでに限界。これ以上私に近づけば、汝という魂の器そのものが崩壊するでしょう』
「……そんなの、やってみなきゃわからないわ」
私は荒い呼吸を繰り返しながらも、その歩みを止めない。
絶対的な神性を放つ白龍を、怯むことなく見据える。
『理解不能です。なぜ、そこまでしてこの無価値な世界に執着するのですか。私がすべてを消し去れば、汝を苛むこの痛みも、喪失への恐怖も、すべては無へと回帰するというのに』
「……笑わせないで。あなたにとっては石ころ同然かもしれないけれど、私にとっては全てが代えの利かない宝物なのよ」
足元から感覚が消え、自分が地面に立っているのか、あるいは虚空を漂っているのかさえ判然としない。
それでも私は、自らの魂の輪郭を必死に繋ぎ止めていた。
『無駄なことです。汝のその矮小な感情も、主が抱く絶望も、私がすべてを等しく白く塗り潰してあげましょう。それが私の主への、そして汝らへの救済です』
白龍の巨大な瞳が、私を冷淡に見下ろした。
そこには悪意も慈悲もない。
ただ、美しすぎるほどに無情な論理があるだけだ。
「それは救いなんかじゃない。……この十年、ジークは鈍感にもほどがあるし、隙あらばからかってくるし、顔を合わせれば喧嘩ばかりだった……」
私は、震える足で最後の一歩を踏み出した。
脳裏には、走馬灯のように十年の月日が巡る。
「でも、その毎日が愛おしかった。彼と一緒にいる時間、そのすべてが、今の私を形づくる光なの。この世界に……消されていい無駄なものなんて、ただの一瞬だって、ひとつもない!」
『情動に支配された、ただの脳の反応に過ぎません。それはあまりに脆く、不確かなものです』
「……ええ、脆くて、不確かよ。……だから、こうして形にして見せてあげるわ!」
私は、震える足でさらに一歩を踏み出す。
ただの拳を強く、強く握りしめた。
「――これが、私の全力全霊よ!!」
私は、地を蹴った。
消滅の嵐を真っ向から切り裂き、神の如き巨躯を持つ白龍の鼻先へと肉薄する。
「ジークを、……私たちの世界を、勝手に消さないで!」
私の魔力と記憶がこめられた拳が、白龍の真珠のような鱗に叩きつけられた。
――ッ!
音のない衝撃が、神域を揺らした。
伝説の龍の強靭な肉体に対し、人間の少女の拳など、羽虫が触れたのと同義。
しかし白龍は、その場に釘付けになった。
『…………っ!?』
白龍の瞳が、驚愕に見開かれる。
物理的なダメージなど皆無。
だけど、私の拳に乗せて流れ込ませた、十年間の記憶。
ジークへの愛執、明日を生きようとする傲慢なまでの生の意志。
それは、白龍が数千年の孤独の中で一度も触れたことのない熱だった。
『……なぜ……。私の鱗は、因果さえもかき消すはず……』
「……あなたに足りないのはこれよ、白龍! 理屈じゃない、説明もつかない、ただの愛! ……それが私達の答えよ! たとえ伝説の龍であろうと、私は……ジークのためなら、絶対に負けたりしない!」
「……っ、エル……」
虚無の底に沈んでいたジークの瞳に、灼熱の光が戻った。
口元に笑みを浮かべながら、私だけをただ見つめている。
「ああ……そうだ。俺は君を守るため……君へ誇れる俺であるために、強くなったんだ……」
ジークが、自らの内に渦巻く白き奔流を、強引に捻じ伏せるように叫ぶ。
「戻れ……白龍! この勝負は……エルの勝ちだ!」
『…………』
主の力強い宣言に、白龍を包んでいた消滅の波動が、凪のように静まる。
白く塗り潰されていた空に、どこまでも突き抜けるような青い色が戻ってきた。
白龍は、肩で息をする私を、ただ静かに見下ろした。
傷ひとつない。
痛みもない。
だが、白龍という神話的存在の根源が、この一撃によって書き換えられたように感じた。
『……なるほど』
白龍が、ふっと瞳を細める。
その巨大な姿が、まるで影に溶け込むように、ゆっくりとジークの背後へと収束していく。
『……これが愛というものなのですね。絶望よりも底がなく、救済よりも輝かしい狂気……理屈を超え、龍の理さえもねじ伏せる、傲慢で美しい人間の意志。……ふふ、私の負けです』
白龍の声が、風に溶けるような穏やかな響きを残して、完全に消えた。





