23話 1000回目の負けられない勝負
「う……っ……」
オーウェン殿下の腕の中で、私の意識が暗い淵からゆっくりと浮上した。
肺に吸い込んだ空気は乾燥し、生きているという実感を伴わない。
「これ、は……」
重いまぶたを押し上げ、目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、神話の終焉を体現したかのような、あまりに残酷な「無」の光景だった。
「エルレイン公爵令嬢……! 気がついたか、体は大丈夫か!」
オーウェン殿下の、悲痛な叫びが鼓膜を震わせる。
常に沈着冷静を貫いてきた彼の顔は、いまや見たこともない畏怖と、悔恨に歪んでいた。
「殿下……。これは、一体……何が、起きているのですか……?」
「白龍の、顕現だ。……ルークの絶望を糧に、世界の『消滅』を始めた。このままでは、龍帝国どころか、全てが無に帰す……!」
オーウェン殿下の言葉を裏付けるように、眼前で伝説の白龍が悠然と、そして無慈悲に翼を広げていた。
その存在自体が、虚無の根源。
翼がはためくたびに放たれる白い波紋が、触れるもの全ての存在理由を剥ぎ取っていく。
「ジーク……!」
私の視線が、その白い嵐の中心に立ち尽くす背中を捉えた。
ジークは、白龍の巨大な足元で、力の奔流に耐えるように膝を突いている。
黄金だったはずの彼の瞳は、いまや虚無の漆黒に侵食され、取り乱すように歪められている。
「無理をするな! まだ呪詛から解かれたばかりだ、体がもたないぞ!」
立ち上がろうとして膝をつく私を、オーウェン殿下が必死に制止しようとする。
だが、私は震える指先でそれを押し留め、拒絶するように首を振った。
「大丈夫、です……。今は、あそこに行かなきゃ。ジークのところに、行かなければならないんです……」
「正気か!? 今のルークは『消滅』の源だ! あれに近づけば、龍の加護があってもただではすまない!」
ジークの周囲には、光さえも歪むほどの高密度な虚無が渦巻いている。
その領域に一歩足を踏み込んだ瞬間に、全てが霧散するだろう。
「……ご心配いただき、ありがとうございます。でも、行きます。あのとき、彼が私を助けに来てくれたから、今の私がいる。私に、自由という光をくれたのは、彼なんです」
私は、震える足で、迷いなく一歩を踏み出した。
「今度は……私がジークを助ける番。あんな悲しい顔、もうさせない……!」
決意を込めた声音に気圧されたのか、オーウェン殿下は伸ばした手を止めた。
私は、吹き荒れる無に向かって、独り歩み出す。
「今、行くから……!」
一歩進むごとに、ローブのすそが白い粒子となって消えていく。
肌を刺すのは、自分の境界線が消えていく究極の恐怖だった。
それでも、私は歩みを止めずに、彼から視線を決して逸らさなかった。
「ジーク!!」
虚無の渦の中心で、私は叫んだ。
その声に、ジークがゆっくりと、苦しげに首を巡らせた。
彼の表情は強張り、今にも涙があふれ出しそうなほど、痛ましく歪んでいた。
「エル……っ。……ああ、やっぱり君は、来てしまうんだな」
ジークの声は、今すぐにでも消え入りそうだった。
まるで、発せられた言葉さえも白龍の力に消されかけているかのように。
「だからこそ、頼みがあるんだ……エル。……お願いだ、君の魔法で、俺を殺してくれ」
「……何を、言っているの……」
「俺が死ねば……白龍との繋がりが断たれる。この『消滅』を終わらせるには、これしか方法はないんだ! このままじゃ、兄上も、イグニスも、俺と君がいた世界も……俺自身の手で全部消してしまう!」
ジークは自身の胸元を強くつかみ、吐き捨てるように、絞り出すように続けた。
「エル! お願いだ……。俺という存在ごと、全部消し去ってくれ……!」
私は、ジークをまっすぐに見つめる。
その瞳に、一切の揺らぎはない。
「……それは、できないわ」
「エル! わかってくれ! 俺を殺すことだけが、唯一の活路なんだ!」
「ジーク。神龍の庭で言ったでしょう? あなたがどんな運命を背負っていても……私はずっと、あなたの隣にいるって」
私は限界までその足を進め、ジークの冷え切った頬を、自身の両手で包み込んだ。
消滅の波が私を苛み、今にも霧散しそうな自身の存在を、意思の力だけで持ちこたえる。
「エル……! だが、このままでは君まで……!」
「……いつものやり方で決着をつけましょう、ジーク。意見が分かれた時、喧嘩になった時……いつもこうしていたじゃない?」
それはかつて、アストルシアで十年間幾度となくジークと戦った軌跡。
私は白龍を睨みつけながら、高らかに宣言する。
「これが、千回目の勝負よ! 今回こそは……絶対に負けない!」





