第8話 赤い星の選択
火星は、静かだった。
かつて“荒野”と呼ばれた赤い大地は、いまや完全に制御された空間へと変わっている。
空は薄いまま。
だが、その代わりに張り巡らされた構造体が、外界の過酷さを遮断していた。
都市は地下とドーム内に収まり、無駄な装飾は一切ない。
すべてが機能のためだけに存在している。
そこに“余裕”はなかった。
だが――
“無駄”もなかった。
「地球との交戦データ、全て揃いました」
低い声が、静寂を破る。
火星独立艦隊・戦略中枢。
巨大なスクリーンの前に、一人の男が立っていた。
その背は高く、無駄のない動き。
強化外骨格に覆われた身体は、もはや人間というより“機能体”に近い。
名を――イグナス。
火星の意思決定を担う、戦略指揮官だった。
「表示しろ」
短い命令。
スクリーンに映し出されるのは、先の戦闘。
地球との交戦記録。
軌道の変化、重力干渉、回避行動。
すべてが数値化され、解析されていく。
「……妙だな」
イグナスは小さく呟いた。
「どの点が?」
隣に立つ補佐官が問う。
「初動は遅い。質量由来の遅延も予測通りだ」
指先でデータをなぞる。
「だが」
ある一点で、動きが変わっている。
「ここだ」
地球の軌道が、わずかに歪む。
通常の計算では導き出されない動き。
「この挙動……」
「偶発的な変動では?」
「違う」
イグナスは即答した。
「意図がある」
スクリーンに別のデータが重ねられる。
未知の惑星との交戦ログ。
そして、月軌道の微小変動。
「……繋がったな」
わずかに、口元が動いた。
「地球は“重さ”を使い始めている」
「重力干渉の応用、ということですか」
「いや、それだけではない」
イグナスの目が細められる。
「軌道を“創っている”」
その言葉に、補佐官が一瞬沈黙した。
「……非合理です」
「そうだ」
イグナスは頷く。
「だからこそ、厄介だ」
合理的な動きは、予測できる。
最適解は一つだからだ。
だが。
「“最適でない解”を選ぶ存在は、予測が難しい」
スクリーンに、モリトのデータが表示される。
断片的な情報。
だが、確かにそこにいる。
「個体特定は?」
「未確定ですが、航法中枢に異常な権限アクセスを確認」
「……やはりいるな」
イグナスは静かに言った。
「地球に“異物”が」
それは脅威だった。
だが同時に――
興味でもあった。
「観測を継続しろ」
「了解」
補佐官が一礼する。
その動きもまた、無駄がない。
完全に最適化された社会。
それが火星だった。
誰もが役割を持ち、誰もが効率を優先する。
そこに“迷い”は存在しない。
それが、彼らの強さだった。
だが。
イグナスはふと、視線を落とした。
机の端に置かれた、小さな物体。
透明なケースに収められた、それは――
古びた青い球体の模型。
地球。
かつて、自分たちがいた場所。
手に取ることはない。
ただ、そこにあるだけ。
「……非効率だな」
小さく呟く。
だが、捨てない。
理由は分かっている。
理解している。
だが、それでも。
「……切り捨てる」
低く、確かな声。
それが、彼らの選択だった。
全員を救うことはできない。
だから、選ぶ。
生き残る者を。
そのために、感情は不要だ。
「セカンドサン到達予測は?」
「現在の軌道を維持した場合、地球より先行します」
「予定通りだ」
イグナスはスクリーンを見上げた。
そこに映るのは、遠い恒星。
第二の太陽。
「ハビタブルゾーンは三つ」
静かに言う。
「我々が一つを確保する」
残りは二つ。
地球がどう動こうと、関係ない。
「必要なら、排除する」
その声に迷いはない。
それが最適解だから。
それが、生存確率を最大化するから。
それだけだ。
そして。
「……だが」
ほんのわずかに、思考が揺れる。
先ほどの軌道。
あの不規則な動き。
「面白い」
小さく呟いた。
合理ではない。
だが、無視できない。
「もう一度、見せてみろ」
その言葉に、補佐官が頷く。
スクリーンに、地球の軌道データが再生される。
歪む。
曲がる。
跳ねる。
まるで――
意志を持っているかのように。
「……創っている、か」
イグナスは静かに目を細めた。
それが何を意味するのか。
まだ分からない。
だが。
確かに一つ、言えることがある。
「放置はできないな」
火星は、すでに答えを出している。
選別。
効率。
生存。
そのために、すべてを切り捨てる。
それが、彼らの正義。
そして。
その正義に、例外はない。
たとえ相手が――
かつての同胞であっても。
火星は、すでに答えを出していた。




