第7話 月を動かす日
その提案が会議室に投げ込まれた瞬間、空気が止まった。
「――月の軌道を変更する?」
重々しい声が響く。
地球統一政府・航宙戦略会議。
巨大な円卓を囲むのは、人類の意思決定を担う面々だった。
その中心で、モリト・アークは立っていた。
「はい」
短く答える。
ざわめきが広がる。
「正気か?」
「衛星軌道に干渉するなど……」
「地球環境がどうなるか分かっているのか!」
当然の反応だった。
月はただの衛星ではない。
潮汐、重力、気候。
すべてに影響を与えている。
それを動かすということは――
地球そのものを揺るがすということだ。
「分かってます」
モリトは静かに答えた。
「だから、やります」
一瞬、静寂が落ちた。
その言葉の意味を、全員が理解するまでに時間がかかった。
「……やる、だと?」
「はい」
モリトは視線を逸らさない。
「やらなければ、勝てません」
その一言で、場の空気が変わった。
誰もが分かっている。
火星には勝てない。
今のままでは。
「月を使えば」
モリトは続ける。
「地球の軌道を“強制的に変えられる”」
「理論上はな」
冷静な声が返る。
「だが制御できる保証は?」
「ありません」
即答だった。
再びざわめきが広がる。
「無責任だ!」
「それで失敗したらどうなる!」
モリトは一度だけ目を閉じた。
そして。
「……滅びます」
静かに言った。
誰も言葉を返せなかった。
「でも」
モリトは続ける。
「やらなければ、もっと確実に滅びる」
その言葉は、重かった。
反論の余地がなかった。
沈黙。
長い沈黙の後――
「……限定的な試験を許可する」
議長の声が響いた。
「最小規模で、影響を確認すること」
「了解です」
モリトは小さく頷いた。
決まった。
もう、後戻りはできない。
⸻
数時間後。
地球航法局・主制御室。
《月軌道変更プロトコル、スタンバイ》
ガイアの声が響く。
スクリーンには、地球と月の軌道が表示されていた。
わずかに。
本当にわずかに。
月の軌道をズラす。
それだけの実験。
「……これで世界が揺れるんだよな」
モリトは小さく呟いた。
《影響範囲は限定的と予測》
「“予測”だろ?」
《はい》
苦笑する。
結局、やってみるしかない。
「……行くぞ」
深呼吸。
手を伸ばす。
見えない“地球”に触れるように。
「月、軌道変更開始」
《了解》
その瞬間。
何かが、変わった。
目に見える変化はない。
だが、確かに。
月が、動いた。
ほんの僅かに。
だが――
「……来るぞ」
次の瞬間。
地球が揺れた。
「っ!」
モリトの体がわずかに浮く。
重力が、一瞬だけ乱れた。
「重力変動確認!」
「潮汐レベル急上昇!」
「沿岸部に警報!」
管制室が一気に騒がしくなる。
スクリーンに映る地球。
海が、うねっていた。
明らかに異常な規模で。
「……やりすぎたか」
《月の軌道が予測範囲を逸脱》
「は?」
モリトは凍りついた。
「待て、そんなはずは――」
《引力相互作用が想定以上に増幅》
「止めろ!」
《制御試行中》
だが。
止まらない。
月が、さらに近づく。
ほんの僅か。
だが、それだけで十分だった。
重力が狂う。
海が暴れる。
大気が乱れる。
「まずい……!」
モリトは歯を食いしばった。
これは実験じゃない。
災害だ。
「ガイア、どうする!」
《対処法を提示》
「早く!」
《逆位相軌道を生成》
ホログラムが変化する。
月の進路を、逆方向にずらす。
「……できるか?」
《成功確率、四十八パーセント》
「五分五分かよ……!」
だが、それしかない。
「やるぞ!」
《了解》
モリトは集中した。
イメージする。
月の動き。
地球の引力。
すべてを、一つにまとめる。
「……戻れ」
静かに呟く。
その瞬間。
月の軌道が、わずかに反転した。
重力の歪みが、収束していく。
海のうねりが、徐々に収まる。
「……止まった」
《安定化確認》
管制室に、安堵の空気が広がる。
誰もが息を吐いた。
モリトも、ようやく力を抜いた。
「……やばすぎるだろ、これ」
椅子に沈み込みながら呟く。
手が、震えていた。
《月軌道変更は成功しました》
「成功って言っていいのか、これ……」
被害は出ている。
確実に。
だが、それでも。
可能性は見えた。
「……使える」
モリトは小さく言った。
「間違いなく、武器になる」
だが同時に。
理解した。
「……でも」
視線をスクリーンに向ける。
そこには、何事もなかったかのように浮かぶ月。
だが、その裏には――
「一歩間違えたら、終わりだな」
《その通りです》
ガイアは静かに答えた。
モリトは目を閉じた。
これを、戦闘で使う。
それはつまり――
地球そのものを賭けるということだ。
「……やるしかないんだよな」
《肯定》
その言葉に、迷いはなかった。
モリトはゆっくりと立ち上がった。
覚悟は決まっている。
全員、生きるために。
その日、人類は知った。
月は――扱いを誤れば“敵”になる。




